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戦時教学について(一)  宇土北組 光国寺住職 源 重浩 [2015年4月1日(第119号)]

私にとっての叔父ですが、周りの人たちが賢昭さんと呼んでいる人がいます。この賢昭叔父は、昭和13年日中戦争(支那事変)時、中国大陸で25歳の若さで戦死しました。結婚の約束をした女の人もいたと思われる叔父のあまりに早い死を思うと、気の毒な気持ちと戦争が無ければ死ぬ必要はなかったのにと、悔しい気持ちが沸き起こってきます。このような意味で私にとって「あの戦争が一体どういう戦争だったのか」ということはとても気になるところであり、自分なりに納得いくまで調べて見なければならない、と考えています。

昨年の夏学会で東京に行く機会があり、まだ存命中のもう一人の叔父にあって戦時中の話を聞きました。私の父親が長男で寺のあとを継ぎ、すぐ下の弟が戦死した賢昭叔父で一番下の弟は93歳でまだなんとか生きています。この叔父は学徒出陣で鹿児島に行き、次の船が来ればその船でビルマの戦地に行く予定になっていたのが、病気をしたので様子をみているうちに終戦になってしまった。あの船に乗って行っていたら間違いなく戦死していたと考えられます。私は、あのとき叔父はあの戦争をどういう戦争だと思っていたかと聞きました。叔父は「自分は聖戦だとは思っていなかった」と云いました。私は更に、それでは侵略戦争だと思っていたかと聞きました。叔父は「ううん・・・」と云ったきり黙ってしまい、答えませんでした。これは私の推測ですが、当時国民は政府から本当のことを知らされていませんでした。国民が本当のことを知ったのは戦争が終わってからのことです。叔父も国民ですから、何かよく分からないけれども、変な戦争だなと思っていたのではないでしょうか。

あの十五年戦争と云われる戦争の発端は昭和6年に勃発した満州事変ですが、当時満州には関東軍が駐屯していて、その上層部に過激な強硬派とくにその中でも代表的人物としては板垣征四郎と石原莞爾がいました。日本の政府も日本の陸軍も止(や)めろと押さえにかかっているのに、云うことを聞かずに暴走してしまった、というのが真相のようです。なによりも本人たちが認めていますし、当時の周りの人物たちも又現代の研究者たちも同じ見方ですから、歴史の事実だと考えられます。

しかし当時日本政府は対外的には、即ち欧米の列強に対しては、向こう(つまり中国軍)が攻めて来たから受けて立ったんだと云っていました。国内向けにも、つまり国民に対しても同じ云い方をしていました。国民が本当のことを知ったのは戦争が全部終わってからのことです。

仏教界とくに本願寺教団の教学に関しては、ある程度詳細な資料と研究が残されています。『戦時教学と真宗』には日中戦争勃発以降終戦まで、本願寺派に籍のある真宗学、仏教学、倫理学、宗教学、真宗史、日本仏教史の、龍谷大学の教員だけでなく全国の著名な研究者たちが、軍部の指導と検閲を受けながら発表した戦時関係の論文等が蒐集されています。それらの書物やパンフレットは本山から地方末寺の住職や布教使におろされ法話布教の参考とされました。このような現場での活動は個々の人々に直結するものでしたから、軍部の意思を末端まで浸透させるのに一定の役割を果たしたと考えられます。戦時教学について大きく云えば、真相を知らされなかったため、本山の要職の宗政家、著名な研究者、末寺の住職寺族は心ならずも戦争協力してしまったと考えられます。傍線部分には異論のある方もおられるでしょうが、あと二回の原稿の中で取り上げるつもりです。

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