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2006年4月1日号(第83号) ブログトップ

憲法改正の問題点①  宇治和貴 [2006年4月1日号(第83号)]

 憲法とは、権力者による権力の乱用をいかに縛るかを定めたものである。この基本原則をないがしろにして昨今の保守系政党やその御用学者・メディアは憲法改定論議を行っている。また今回の議論が「憲法改正」と呼称されることで、国の形をまったく異質なものにしてしまう「新憲法制定」の論議(先日、自民党から出されたものは「改正案」ではなく「ここに新しい憲法を制定する」といった「前文」を持つ「『新憲法』草案」である)であることに多くの人々が気付いていないのも、同質の問題性をはらんでいるのだろう。

 憲法とはあくまでも、国民から権力を受託した側が、それを恣意的に行使できないように制約を課すものであって、これが立憲主義の根幹である。だから、基本的人権(個人個人の基本的な権利)を、どのように保障し、守るのか。それを規定するのが、憲法の基本的なあり方なのである。ヨーロッパにおける多くの犠牲を伴った長い人民闘争の過程を経て、どのような政治状況が現出してきても、基本的人権にまつわる領域に国家権力の介入が行われないようにするために、近代憲法は生み出されたのである。

 高橋哲哉は、日本の「地金」というものの存在を主張する。憲法や教育基本法ができてしばらくは、この「地金」の露出は抑えられていたのだが、「地金」は「地金」として残っていて、今、まるでメッキが剥げだすかのように、戦後民主主義と平和主義、憲法や教育基本法の基本的な価値が崩壊しはじめているというのだ。まさに、ジョン・ダワ―が『敗北を抱きしめて』のなかで、昭和天皇の1946年の年頭詔書、いわゆる「人間宣言」は、ある種の予防革命措置だったのではないかと指摘したことと重なるのだ。

 つまり、この時期に、戦前の旧体制側から先手を打ち、戦後国家の主導原理は、やはり天皇によって創られるのだということを、あらかじめ宣言させたものが昭和天皇による「人間宣言」だった。これにより、日本国民は天皇制=国家崇拝の土壌の上にしか、民主主義を立ち上げることができなくなってしまった。戦前と戦後の連続性の「地金」は、このように初期の段階で温存され、60年過ぎた現在になって表面に現れてきたものが、戦後の「平和憲法」を否定する新憲法草案ということだろう。

 「憲法の問題は『俗諦』の問題であるから、『真諦』の問題と連関させるべきではない」などという、無意識的ではあっても、そうであるがゆえに悪質な真俗二諦者からの批判はさしおいて、真宗者であろうとする私たちは、こうした懐古的現状を前に何を自己の信仰の問題として問うべきなのであろうか。

 そこで少々振り返ってみたいことがある。敗戦後、日本は「信教の自由」を条件抜きで保障する国家になった。しかし、そういった条件抜きで保障されるような「信教の自由」を、多くの真宗者が欲していたか?ということである。それは、国家の道具としての人間観とは異質な人間観や、社会観を真宗によって成立させえていたかということでもある。すべての人間が、そもそも尊厳性を持っており、尊ぶべき存在だとする人間観が成立しないと、人権は成立しなが、そうした自覚を持つ人間は、俗権である国家権力が、一定の人間観や価値観を押し付けてくることに、必ず違和感を持つはずなのだ。この問題は、決して過去の問題ではなく、現在の私たちにおいても、依然、果たされざる課題として反問されてくるのである。

 具体的に考えてみると、仮に一人の真宗門徒がいて、その地域の自治会で神社の維持金を徴収することに、非常な違和感を覚えて拒否を表明したとき、どれだけの真宗門徒の人々が、真宗門徒であるからといった理由で、その状況に本気で同調し憤慨するか、しないかということである。

 憲法によって「信教の自由」が保障されているということは、本来国家権力は、精神の内側の問題に入ってはいけないと定められているのだ。そう定められているにもかかわらず、平然と精神の内側の問題に介入してくるということは、とんでもないことであると自覚できるような、信仰を持ちえているかどうかが、実は簡単なようでいて最も難解かつ重要な問題としてある。

 煩悩の集約点としてある国家権力を、どのように認識する信仰に立っているかによって、その宗教の歴史的性格は決定されるのである。そのように考えると、憲法の問題は政治の問題ではまったくなく、現在完全に保障されているはずの人権や信教の自由の内実を、どれほど必要不可欠なものであり、それが権力によって犯され続けているものだと(改憲派は不必要=国家権力崇拝といった信仰に立っていることは自明であろう)認識しうる信仰に自らが立っているかが問われてくる、宗教の問題となってくるのである。

 先に高橋氏が日本の「地金」と表現したものが、実は宗教的土壌だったと私は考えている。それは、国家を神とする信仰内容の宗教が、現在に至っても清算されないままあり続けているということなのだ。そして、そのような土壌の上で、憲法から民主主義や人権がかき消されようとしている。

 かつての戦時教学において、戦死を菩薩道だと煽り支えた、悲しい過去を抱える私たちは、いま、真宗者としてどのような生き方を願うか、どのような生き方は願わないのかを、あらためて考えなければならないときにいるのではないだろうか。 (託麻組 広福寺衆徒)

歴史/修正主義

歴史/修正主義

  • 作者: 高橋 哲哉
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 2001/01
  • メディア: 単行本


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編集後記 [2006年4月1日号(第83号)]

◎春爛漫の好季を迎えました。地球温暖化が懸念されながら、今冬、日本各地は例年にない大雪。一方、桜の開花は年々早くなるというこの異常現象は何が原因なのでしょうか。

◎また世界も日本も、一体どのような未来に向っているのでしょうか。まさに予測の出来ない混沌とした今日です。◎戦争で平和は実現できない。戦争のもたらすものは恐怖と死と離別ということは、私たち日本人が一番知っているはずです。が、わが国は、戦争犠牲者の遺言ともいうべき現憲法を改正してまで、「殺戮による平和」を目指すアメリカに追随する道を選択しています。

◎龍大で近現代史を講じている宇治師に、真宗者にとって今日の憲法改正の問題点を論じていただきました。

◎「真宗信心と社会の問題は関係がない」という考えの人は結構多いようですが、その立場からのご意見もお寄せいただきたく存じます。

◎林田師は校長退職後、自発的に得度された、まさに発心僧であります。漏れ聞くところによると逆無常の悲しみも抱いておられるとか…。現在、更に布教使を目指してご精進中です。〈崇信〉


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