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2014年1月1日号(第114号) ブログトップ

子どもたちの歌声と共に  三原尚美 [2014年1月1日号(第114号)]

のん・のん・のん・のん・のんのさま~~~。今日も広い本堂に無邪気な子ども達の歌声が響いてきます。

「コール・シャーンティ」の結成は、今はもうお浄土に帰られた種山組前組長・遍照寺の松良先生の一声でした。大法寺の若坊守さんが出産の床に就かれていた時、その枕元で「種山組の若坊守でコーラスを創って、若い聴聞者を増やしてほしい」と仰ったのが発端でした。コーラスグループ結成には「指揮者と伴奏者」が不可欠ですが、お陰で指揮者には西福寺の縁者で元中学校の音楽教師、また伴奏者には西福寺仏婦会長宅のお嫁さんが、それぞれ担当して下さることがすぐに決まりました。若坊守五名、若婦人七名で発足したグループ、種山組「コール・シャーンティ」の誕生です。

若いお母さん達が外に出るという事は、当然背中には小さな小さな仏の子ども達がくっついてきます。その当時の子どもたちは、お母さんの足下でぐずったりしていたので、庫裏の方で先輩坊守さんたちがビデオを見せたり、絵本の読み聞かせをしたりして、その子どもたちの保育をしていました。この坊守さんたちの「保育」の協力も、「コール・シャーンティ」を語る上では忘れてはならないものです。

しかし、その子どもたちも次第に成長するにつれて動きも大胆になりますから、じっとしているわけがありません。大声をあげて本堂で遊び回るようになりました。そこで、その子どもたちのエネルギーを歌声にしようと、「シャーンティ・キッズ」が発足したのです。これが大成功でした。いつも仏教讃歌を耳にしていたので、すんなりと素敵で大きな歌声にかわりました。また嬉しい事に、子どもたちが友だちも連れて来てくれました。

そして「コール・シャーンティ」結成から7年たった今年の10月、7周年の記念コンサートを開催させて頂き、たくさんの方が参会下さいました。もちろん、「シャーンティ・キッズ」も大活躍。今では小学六年生を筆頭に保育園の年中さんまで17名の子ども達が集っています。その当時はまだハイハイもしなかった赤ちゃん達が、眼をキラキラと輝かせて仏さまの唄を歌っているのです。本当に有り難いご縁と胸を熱くいたします。生みの親とも言える松良先生が往生なさった時、「自分を「コール・シャーンティ」で送って欲しい」という遺言(それも曲目「みほとけにいだかれて」まで指定されており)を頂いたお陰で、仏教讃歌で先生にお礼を申し上げる事も出来ました。感慨深い思いでの一つです。

今では組内寺院の降誕会・他組の法要にご案内頂いたりと、「キッズ」たちと共に結構忙しく活動しております。その成果は少なからず感じてはいますが、ただ発足当初の目的でもある「お寺に若い人達を呼びたい」という目的がどれくらい達成できているか、その答えはまだ出ていません。それで良いと思っています。「頭で考えてても何も解決しないのなら取り敢えず出来る事をやってみる。どうにかなるだろう」…。自分の代で答えが出なくても、次の代に繋がっていくだろうと私は確信しています。これからも仏教讃歌の力を借りながら、お寺の内外を問わず仏様の教えが少しでも伝わればと願っております。
合 掌
(種山組西福寺前坊守)





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現代の問題にどう関わるのか?   外海 卓也 [2014年1月1日号(第114号)]

最近、お東の安田理深師が1980年に出された本を再読していて、差別問題の関わり方を考えさせられた。

安田師は「現代インド仏教を再興したアンベードカルが仏教を選んだのは、アウトカーストの被差別民が解放されるには、普遍的・根本的に差別を解決する思想でなければならないと考えたからだ。同じように日本の部落解放も黒人差別やカースト制度を解決するものであるべきだ。そうでないと行政的な措置に終わる」ということを語っている。

行政的な措置とは同和対策事業や同和教育である。それらは普遍的・根本的なものでなく、「差別を薄める」ものである。差別を薄めれば見えなくなるが、差別の構造は残る。

べ平連を組織した小田実は1960年頃のアメリカを旅したことを書いている。アメリカ南部に行くと、レストランやトイレは「ホワイト」と「カラード」に分けられていた。カラードとは黒人のことで、以前はニグロと言ったが、上品にカラードと呼ぶそうだ。

ニグロをカラードと言い換えて差別を薄めても、差別の構造は変わらない。現在はアフリカ系アメリカ人というが、日系やアジア系まで薄められたにすぎない。

ある住職の話を聞いて、私も同じ間違いをしていたことに気づかされた。

その住職は友達の結婚式の司会を頼まれた。友達の親は耳が悪く、手話通訳を頼んでいた。その手話通訳の人を紹介するのに「新郎のご両親は耳が不自由なので」と書いた台本を見た友達が「不自由と思ってないから耳が悪いでいいよ」と言われ困惑したという。

「耳が悪い(存在)」を「耳が不自由(機能)」と言い換えることは、差別を薄めるが根本的な差別は変わらない。

すべての差別の根底にあるものを明らかにして、差別を薄めることではなく、普遍的・根本的に解決していく必要がある。

10年ほど前、お東の新聞だったと思うが、ある解放同盟の女性の記事が載っていた。その女性は「母は読み書きができなかった。私は劣っているとバカにしていた。あるときそれは差別していることだと気づいた。その気づきでまわりを見たとき、運動に取り組む男たちは女性を差別していた。私も障害者差別や民族差別をかかえていた」と語っていた。

このような「差別心の自覚」ということは基幹運動のなかからも出てくるべきだった。自らの差別心に気づく必要性は運動や研修のなかで語られていたが、言葉として知っていただけに終わっていたのではないか。雑誌「宝島」のなかで明らかになったことだが、基幹運動を推進する者の女性差別が問われていた。差別をしたことよりも自らの差別心を見つめられなかったことがもっと大きな問題だろう。私もある女性と話していて「坊守として…」と言ったとき、「私は住職です」と強く言われたことがあった。私は「知らなかった、すみません」ですませて、その底にある差別心が見えなかった。
凡夫の自覚において、差別心は差別者だけでなく、被差別者も傍観者も解放に取り組む者も持っている。自らの差別心の自覚から御同朋の歩みは始まる。

10数年前のこだま公開講座で、阿満利麿師は「昔、うちかてアホや、あんたかてアホやというお笑いがあったが、このような凡夫の自覚が念仏者の共同体、御同朋を開く」と話された。
凡夫の自覚は、個人的なものにとどまらず、相互理解、共感へと展開するものである。曽我量深師は「信に死して願に生きよ」と言われた。そのような凡夫の自覚において御同朋の共同体は開かれてくる。「御同朋の社会をめざして」というようにどこかにあるものではない。一人一人の自覚を離れてはない。

また凡夫であるから、一度自覚したら永遠にあるというものではなく、自覚は見失われやすい。それ故に現実の問題に関わる運動が求められ、そのなかで凡夫の自覚と相互理解が問われてくる。
基幹運動から実践運動になり、見えてきたのは教学の欠如である。基幹運動では「御同朋の教学」がいわれたが生み出されなかった。実践運動では、社会に貢献する活動が中心となり、教学は二の次になった。

仏法そのものは時代社会を超えているが、現代の問題と交わらないと生きたものとならない。そこに教学が必要になる。教学の営みとは、現実の問題に対症療法的に関わるのでなく、問題の根底を明らかにし、私自身と社会を同時に見つめ、問うていくことである。そのような教学の営みが教団の運動の中心にあるべきで、それによって浄土真宗の教えも現代に生きてくる。
(緑陽組・浄喜寺住職)
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編集後記 [2014年1月1日号(第114号)]

◇三原さんの原稿はご寄稿。教区内には仏教讃歌のコーラスは多々あれど、子どもたちのコーラスは珍しいのではなかろうか。その結成過程も興味深い。しかも(原稿にはないが)、七周年記念コンサート時には、その子どもたちによる「親鸞」というタイトルの劇まで行っている。キッズサンガの取り組みの現状は詳しく把握していないが、これはそのモデルの一つのように思われる。今後の活躍に注目したい。

◇外海さんの原稿はご投稿。主に「差別問題にどう関わってきたのか?」、「御同朋の社会を目指すにおいて、何が欠如していたのか?」という問いを中心に、これまでの教団の運動に対する氏の批判的問題意識が見て取れる。しかし実践運動はともかくとして、氏の「基幹運動」の評価については、編集局内でも意見の分かれた所である。

◇個人的に一例を挙げれば、「御同朋の教学」を生み出し得なかった原因は、果たして「基幹運動」それ自身に帰せられるのかどうか、という事。「御同朋の教学」を考える時、それは必然的に伝統的な信心理解を見直さずにはおかない。例えば「信心の社会性」という問題提起は、まさにそのような性格を有していたのであり、そこに「御同朋の教学」を開いていく大きなチャンスがあったはずである。しかし、それを単に「基幹運動内の問い」に終わらせてしまった本当の原因とは何だったのか?それを阻んだ大きな要因とは何だったのだろうか?

◇そのような意味として、改めて今これまでの教団の運動を検証しようとする氏の提起は、確かに重要である。その成果と課題を自らの責任において語れ、との問いかけと受け止めたい。諸氏のご意見を頂ければ幸甚である。

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