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ボランティア活動を通して  久保田 薫 [2011年7月1日(第104号)]

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2010年3月11日、午後2時45五分頃東北地方を未曾有の震災が襲いました。私は、震災が起こったとき、遠いところで起きた出来事で、他人事としてしか捉えることが出来ませんでした。

しかし、そんな私がこの度の東日本大震災と向き合うきっかけは、京都にある中央仏教学院に通っていたとき知り合った友人からの電話でした。

「おまえのクラスメイト大丈夫、たしか仙台じゃなかったっけ」なにせ、卒業してから十数年たっていましたので、友人に言われるまで忘れていました。

それから私は、急いで仙台の友人に連絡を取り始めたのでした。しかし、震災から六時間ぐらい経過していましたので当然、連絡もとれませんでした。

震災から一週間たった頃に別の友人から連絡が来たのです。仙台の友人が被災地伝言板に「家族みんな無事」と書き込んだのを見つけたものでした。

数日後、被災地の本人と連絡が取れました。私は、本人の無事を確認し、状況を聞かされると、被災地に行きたい、ボランティア活動をしたいと思いました。

4月6日、宮城県仙台市にある仙台別院(本願寺ボランティアセンター)に行くことが出来ました。

仙台の友人とは、仙台市宮城野区にある專能寺坊守さんの足利由美さんです。

專能寺は、この度の東日本大震災で全壊した本願寺派寺院の一つです。

私が、仙台市内に着いて最初に思った事は、本当にここが被災地なのだろうかということでした。なぜなら、あたりを見回してもどこにでもある日常的な暮らしをしていそうな人々の姿があり、暗い・落ち込んでいるといった姿はありませんでした。

支援物資を持って專能寺へ向かっているさなか、町の景色が少しずつかわりはじめ、お寺に近づくにつれ疑問をもっていた私を、打ち負かすかのような壮絶な震災の爪痕を目にすることになりました。
專能寺に着くと、友人である足利さんが迎えてくれました。本人と会うのは、十数年ぶりですが、出会えた瞬間「本当にみんな無事でよかった」と手を握り抱きしめました。お寺の被災状況や震災当日の話、ご門徒さんや現在の状況に至るまで話を聞きました。

それから、足利さんと多くのご門徒の方が避難しておられる小学校に向かいました。その小学校では、三百五十人程の方が避難されており、すべての人に渡すことは出来ませんでしたが、支援物資を足利さんと配らせて頂いたのでした。

被災された方々それぞれ被災された状況や、体験が違い、被災前と被災後の環境の変化に戸惑い、なかには、今後の暮らしが見えなくなっておられる方もおり、全ての方が被災者でありながら、被災の受け止め方や、環境の違いに驚かされました。

また、違う場所で大きな避難所に支援物資を搬送したさいには、持って行った支援物資は、足りており、逆に先方から物資を指定される事もあり。小さな避難所では、何でもいいから下さいといったような言葉を頂き、本当の意味で支援の難しさを知らされたのでした。

本願寺ボランティア活動の一環で遺体安置所での読経も行って来ました。遺体安置所も複数あり、場所により設備が異なり、言葉では表現しにくい状況の中、読経をさせていただき、施設の方々やご遺族に喜んで頂きました。

瓦礫撤去の問題は深刻なものです。私も、專能寺さんの清掃に参加させて頂きましたし、石巻市にある称法寺さんの参道の瓦礫撤去のお手伝いもさせていただきました。そのなかで、思ったことは、単に瓦礫撤去と申しましたが、大半は、瓦礫でありますが、そんな中には、多くの人達のアルバム(写真)手帳や書類、財布、衣類、もし、それらの持ち主が亡くなっておられたらそれは、残された遺族にとっては、単なる瓦礫(ゴミ)ではなく、大切なものに変わるのではないでしょうか。

最後にこの度のボランティア活動をとうして思いますことは、被災された方々一人一人がそれぞれの体験をし、苦しみ、悲しみを抱きながら、一日一日少しでも元の暮らしに近づけたいと願い、前を向き自分達に出来る事を協力しながら過ごしておられます。ですから、私たちは、日々の暮らしの中で、少しでも今から一生懸命立ち上がろうしている人達の為に、自分に何が出来るか、何をしなければならないかと、常日ごろ考えながら暮らし、長期に渡り行動する事が被災された方の思いに応えられる事ではないでしょうか。(熊本南組・正念寺衆徒)
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声を大にしては言えないこと 甲斐 晃裕 [2011年7月1日(第104号)]

1996年の熊日紙、こころと宗教欄に「原発・エネルギー問題と少欲知足の教え」というテーマでコラムを書きました。


『 (略)エネルギー問題は、日本だけのことではありません。驚異的な経済成長を続ける中国、インドを中心としたアジア三十五億の人びとが、急速にエネルギー消費を増やしています。

貧困からの脱却、その流れは止められるものではありません。現在の欧米、日本の消費水準に並ぼうとする時、一人当たりのエネルギー消費量は二百倍になるといいます。急激な経済成長は、人口増加も伴うでしょう。このまま右肩上がりの消費拡大型の方向を続けるなら、原発はなくなるどころか増え続けます。

アジア各地に何百と原発ができる。事故は起こらないと考える方が不自然です。

(中略)すでに、各地で原発は稼動しています。いったん容認する構図ができてしまえば、もうなくせない。万一、事故で犠牲者が出ても「二度とこのような事態をおこさないよう、安全対策に万全を期します」で終わるでしょう。過去の原発事故でもそうでした。この先どうなるのか、想像をたくましくすると、暗たんとした気持ちになります(略)』


掲載の数日後、コラムを読まれたSさんという医師から丁寧な手紙をもらい、その日の夜にお会いしました。「あなたの意見にまったく同感だが、ただ一点、原発はもうなくせないと諦めるのはよくない、信念を持って原発廃絶を訴え続けることが、危険性を知った者の責任です。ぜひ一緒に頑張りましょう」と説諭されました。コラムの主題は少欲知足の教えだったのですが…。   
   
四月末、そのSさんから連絡がありました。原発廃絶を関係各署に請願するから連携して欲しいということでした、残念ながらこちら(宗派関係)には脱原発のネットワークはありません。個人としてでもよろしいかと訊くと、個人の集まりをネットワークというのだ、といつも変らず明快な応え。久しぶりに会うことになり、震災や原発事故について話しました。

福島第一と浜岡は停止した方がよいと多くの専門家がその危険性について、くり返し言及していたようです。特に設計自体が旧く、津波に弱い福島第一の危険性は海外からも指摘されていたのです。

以前に京大の原子力研究所の学者が原発安全神話に疑問をなげかける報道番組をビデオで見ました。電力会社の横ヤリで深夜枠ローカルでしか放送できなかったそうです。学者は現在の原子力行政に懐疑的で、今は京大に席がありません。反対する者は厳しい逆風にさらされる、独善的なムラの構図。
「完全に人災です。誰がどんな権限で学術的見地からの提言までもスルーしてきたのか、不作為と言うには事が重大すぎる」Sさんはこれまで自分たちの運動を無視しつづけてきた勢力を追及せずにはおれない様子でした。巨費が絡む原発を取り巻く政官業、学界はみな悪者ですね…。

もしそこに危険性の指摘を謙虚に受けとめるヒーローがいたとしたら、会社を説得して大津波に備えた適切な対策をとり、福島第一が間一髪で助かっていたとしたら…。

時速三百㌔で走行していた東北新幹線は感知システムが働いて見事に停止し、世界を驚かせました。管理・制御システムに関して技術も人も日本の信用は高く、まさか、日本の原発でメルトダウンが起こるとは、専門家も思っていなかったのです。

「あの日本人が管理していてダメだったのだから、ゴミ処理もできないイタリア人じゃ到底むり」と、スイス、ドイツに続いてイタリアも脱原発に舵をきりました。電力の八割が原発、半国営電力会社が周辺国に電気を輸出している原発大国のフランスさえも〝日本の事故〟のショックは大きく「時間をかけてでも脱原発」の世論が多数をしめています。

千年に一度の大地震と原発。あってはならない重大事故は起こってしまいました。私たちは将来にわたって大変な犠牲を払うことになるでしょう。日本の原発安全神話は崩壊してしまいました。
しかし、世界は脱原発の方向に大きく向きを変えようとしています。Sさんに説諭されても、無理だろう、もう原発はなくせないだろうと、ずっと思っていました。

「日本は戦争に敗けてよかったのだ」と言えるようになったのはいつ頃からなのでしょうか。
日本の福島原発事故が原発安全神話を覆し、世界的な脱原発への転換点になった。将来、人類のエネルギー史にそう刻まれるようにすること、それが、すべてを見過ごしてきた私たちの責任なのだと思います。(託麻組・専念寺住職)


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編集後記 [2011年7月1日(第104号)]

◎去る5月30日、臨時宗会で宗法改正法案(機構改革案)が成立し、特定の個人への権力集中を避けるという同朋教団としての理念が事実上終わりを告げた。これまでの宗政がその理念に叶った運営であったとは到底思えないが、「この現状を作り出した元凶は旧宗法で謳われていたシステムにあり」との意見にはどうしても頷くことができない。教団に属する「個」が失ったものは何なのか?もう一度確認していく必要性を強く感じている

◎この法案についてはこだま編集局内でも賛否が分かれており、新宗制に施行された後にでもお互いじっくりと考えていかねばならないと思う。

◎斉藤和義の「ずっとウソだった」がアンセムとして流れる中、6月11日に「さよなら原発」をテーマとしたパレードが熊本でも行われた。呼びかけ人には別院門徒の四宮千絵さんが名を連ね、200人を超える参加者があったと聞く。このような脱原発の動きを原発利権が阻もうとしてる。「カネに振り回されて何の豊かさか!」とのフレーズが心を打つ

◎久保田師の原稿にもあるように被災地への持続した支援活動が望まれている

◎阪神・淡路大震災に続き、今回も学生を中心とした多くの若者がボランティア活動に参加している。「ゆとり教育」の弊害ばかりがクローズアップされるが、この現状を見るにあたり評価されるべき点もあるのではなかろうか。(藤岡崇史)
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