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―こだま公開講演会要旨②―今、この国で進行している危機  斎藤貴男(文責・こだま編集部) [2003年7月1日号(第72号)]

 後半に移りたいと思います。

 今、平和と平等を理想とした世の中から、戦争と不平等を積極的に目指す世の中になりかねないという話をしました。そうなっていくと社会秩序は当然乱れてくるでしょう。先ほど教育改革で、エリートの家柄の子以外は、積極的に落ちこぼれにされるんだという事を言いましたけれども、仮に自分が今、小中学生でそういう事をされたらどうするだろうと考える事があります。中学生だとしたら当然暴れると思うでしょう。そしてその時に俺は悪くないと思うと思います。世の中が悪いんだ、と自分を正当化しながらやっていくでしょう。実際にいろんな少年事件が増えてきているのは、その事と無関係ではないと思うのです。それから戦争のような状態になってくれば、これもまた人々は何処かで捨て鉢な気分になります。すると今までのような平凡な社会ではいられなくなる。

 そういうふうに殺伐とした社会になってしまうと、それはそれで政府というか権力を持っている人は困るわけです。

 そこで始まるのが、監視社会です。昨年の8月に動きだした住民基本台帳ネットワークはっきりいって国民総番号制度です。もう既に私達には全員に11桁の番号が付けられてしまいました。これからは、行政は私達の事を、親から貰った名前として扱ってはくれなくなります。それはただ単に番号を付けられて気持ちが悪いというレベルではないのです。今まで熊本市の事務は熊本市だけで完結して、他には出て行かなかったのですけど、それを全国47の都道府県、それから3300の市区町村、そして総務省の外郭団体である地方自治情報センター、これらのコンピュータとすべてネットワークで結ばれるようになります。その住民票情報は常に流通していくことになります。そうすると一つのメリットとしては、住民票がどこででも取れるようになります。しかしこんなものは土曜日、日曜日にも窓口を開ければいいだけの話で、こんな大規模な事をする必要はまったくないわけです。

 この住基ネットはとんでもない問題を孕んでいるのです。この8月には希望者に対して普通の磁気ストライプカードの数百倍から数千倍の情報を記憶することができるICカードの交付があります。勿論最初はその任意ですから、持ちたくなければ拒否してもいいんですが、いずれこれは持たない事には生活ができなくなると思われます。というのは、納税者番号制の問題があるのです。政府はこの納税者番号と住基ネットの番号を一体化してこのICカードに納めてしまおうとしています。納税者番号制とはお金のやり取りを全部国が捕捉する事で、公平な課税をというのがその主旨ですので、このカードを持っていない人間は脱税の意図ありと受け止められます。そうすると持たないわけにはいかないでしょう。そんなもの持ちたくないという人がいたとしても、これは世の中の仕組みがそんなになってしまえば、持たないわけにはいかなくなります。いい例が携帯電話です。私は携帯電話を持っていないんですけれども、公衆電話が町からどんどん撤去されてしまって、外から電話をすることができない。仕事に差し障りのあることおびただしいのですが、余程やせ我慢しない事には駄目だということになると思います。

 そうすると、何をするにもICカードが必要だということになると、つまり今私達が持っている様々なカード類、証明書だとか、カード類が全部一枚になって、確かに便利です。しかし同時にICカードを使うことですべての行動がそのカードを運用する側に記録され、蓄積されていきます。また将来的にはカードに住民基本台帳の機能の他、免許証、パスポート、健康保険証、印鑑登録証、といった行政サービスに関わる機能、それから会社員の社員証、学生の学生証、病院の診察券、鉄道の定期券、そういった民間の様々な機能がすべて盛り込まれることになるでしょう。それでもって何もかもやれば、例えば私がここに熊本にどうやってきたかというのが、東京のJR阿佐ヶ谷駅から何時何分に電車に乗り、羽田空港から何時の飛行機に乗ってというのが全て相手方に記録されます。熊本に来たあと何処のレストランで何を食べたか、何処のキヨスクでどんな雑誌を買ったか、何の新聞を読んだか、というのも全て記録されます。これはもうまったく監視社会なのです。

 その他、監視カメラが町中に設置され始めました。多くは地元の商店街のお金で導入して、それを警察に提供するという形ですけれども、警察が直接監視カメラを運用するケースも目立ち始めました。例えば新宿歌舞伎町には昨年の5月に50台の警察による監視カメラが設置されました。それから名古屋ではサークルKというコンビニエンスストアにはやはり警察の監視カメラが付きました。そのカメラと顔認識システムを連動させるそうです。この顔認識システムというのは恐ろしい技術で、カメラと顔写真データベースを連動させ、カメラに写っている人物が、顔写真データベースのどの人に相当するのか瞬時に識別するというシステムなのです。今でも警察には免許証などを通じて、ほとんどの成人の顔写真があるわけですから、顔認識システムが導入されれば、そのコンビニの前をどこの誰が通ったかというのが全部警察に把握されてしまいます。つまり全国民の行動を警察が把握するという仕組みなのです。

 つまり、私達の一挙手一投足は、そうやって監視される事になるでしょう。しかしこういう話をすると、大抵多くの方から、僕悪い事していないから平気だよ、とこういう言葉が返ってきます。盗聴法の時も、住民基本台帳ネットワークの時も、そういう反応が非常に多かった。また当局も悪い事をしてなければいいだろうと言います。しかし、何が良くて何が良くないかというのは、私達が自分で決める事がではないのです。つまり今は良かったものが、時代が変われば簡単に悪い事にもなってしまいます。有事立法において福田官房長官は思想信条の自由が一部制限される事もありうると言っています。こういった状況の中では、監視システムがそういう人々の内面の自由を侵害する可能性は大いにあると言わなければなりません。

 さらに権力が国民を監視するということにプラスして監視して得られた個人情報をビジネスに使おうという流れがあります。昨年の春から携帯電話のJPS機能を使った実験をマクドナルドが行いました。JPSというのは、グローバルポジショニングシステム、つまりその携帯電話がどこにあるかということを捕捉する事ができるシステムです。この仕組みを使ってマクドナルドは、マック東京というキャンペーンの情報を流しました。例えば新宿なら新宿にいる時に斎藤さん、あんたは今新宿にいるけれども新宿にはマクドナルドのこういう店がありますよと言って流すのです。それも収入がどれぐらいの人か、或いはどういう仕事をしている人か、どういうお店が好きな人か、というのを承知したうえで流してくるのです。位置情報が把握されれば一緒に誰がいるかも分かります。一緒にいる人の携帯電話がすぐ隣にあるというのは流す側で分かる。そうすると、この組み合わせによっても流す情報が変わってくる。つまり家族と一緒にいるのか、友だちなのか、職場の同僚なのか、或いは本当は一緒にいてはいけない人なのか。こういう情報を把握し、その人の属性と合わせて電波でコマーシャルを流すのです。

 こういうマーケティングの方法をワイヤレスCRMというわけです。ワイヤレスは無線ですよね。CRMはカスタマ・リレーションシップ・マネジメント、顧客関係管理というのですが、そういうビジネスが既にアメリカでは始まっていてこれは人権問題になっています。そんなことをされたくないという人がいっぱいいるわけです。自分がいつ、どこに、誰と一緒にいるかなんて、いちいちコマーシャルの道具にされてはたまらない、と思う人はいるけれども、それはなかなか止めてくれない。

 この民間の商売と、先ほどの国民総制番号をはじめとする、国の監視システムはどっちが先か後かということではありません。よく住基ネットの時に、これは民間には流用しないから大丈夫という説明を政府はしていました。しかしこのこと自体が非常に嘘もいいところで、もう今は民と官の区別というのはどんどんなくなってきているわけです。従来は官の仕事だったものが民に下りてきている。要は垣根がなくて、どっちが官だか民だか分からないというのが現実です。そういう中で、そういう番号を使った監視システムが、いわば両方がそれぞれそれをメリットとして享受するような仕組みが作られてしまいます。

 そうなってくると、人間は何のために生きているの?という非常に根源的な問題に辿り着かざるを得ません。もうそれでは、人間というのはただ単に政府、国に監視されて、民間の企業のために消費する。息をする。或いは口をきかない労働力であるとしか見なされていないことになってしまいかねません。

 そう考えていくと、今、社会学や政治学の分野で流行っている学問領域について関心が向いていきます。それは市民権という概念をどうとらえるべきかという問題です。昨年岩波書店からイギリスの政治学者デレック・ヒーターの「市民権とは何か」という本が出版されたのですが、この本では私たちは今市民であり、市民であるからこそ様々な権利を守られているというのです。しかしこの市民権には二つの考え方があるといいます。まず「共和主義的市民権」これはギリシャ・ローマ時代からあった考え方で義務を強調します。一方で「自由主義的市民権」は資本主義の発達と共に普及してきた考え方で、これは市民の権利について強調します。今日においては資本主義社会であるので、当然自由主義市民権によって人びとの権利・自由が強調されてきたわけです。

 こういう状況を保守的な人は「どいつもこいつも権利意識ばかり強くなって、義務を果たさなくなってけしからん」と、このように言っています。その人達は共和主義的市民権に非常に愛着を感じているわけですけれども、今の世の中はこの保守的な考え方に戻っているというほど単純ではないのです。先ほど様々な構造改革の話をしましたけれども、金持ちを優遇して、その人たちに頑張ってもらって、社会全体に活力をもたらし、貧乏人はそれに引っ張られて生きればいいという、こういう考え方は「新自由主義」言われるのですが、この「新自由主義」はまさに資本主義の強烈なやつなので、共和主義とは矛盾するように思うのです。だけども実は違う。というのは、「新自由主義的」な考え方というのは、教育だとか福祉だとかそういうものをどんどん切り捨てていく考え方です。そうすると、つまりろくに働きもしないやつに福祉なんかはやってやるのは無駄である。つまり、こいつは市民としての義務を果たしてないから、権利もやるな、とこういう考え方です。ですから、この人達は同じような共和主義的市民権になってくるんです。

 そうすると市民権が徴兵義務の話題に結びつきかねないのです。京都大学の佐伯啓志という西洋史の先生が「市民とは誰か」という本を出しました。それを見ると保守層の考え方がよく分かります。つまり「最近どいつもこいつも市民、市民とうるさい、市民という概念が乱用されすぎている」と言って怒ります。「市民、市民というけれども、市民という言葉の意味を知っているのか?」と。そしてギリシャ・ローマ時代を持ち出します。当時のアテネとかスパルタとかいう都市国家では、市民となるためには強い義務が課せられていたのです。まず何の義務も果たさなくてもいいのはブルジョア市民、つまり金持ちは税金をたくさん納めるのでこれは別に他の義務はない。あとはただ働くだけの奴隷がいる、この人たちには市民権はない。その中間に市民権を与えられた人達がいます。この人達は兵役義務との引き換えに市民権を得たのである、と論を展開していくわけです。佐伯さんはだから日本も徴兵制度を取り入れるべきだと言ってはいませんが、ブルジョア市民と一般の人たちが同じように権利を享受している様子が気に食わなくてしょうがないというのがよく分かります。権利が欲しかったら、今まで以上に大きな義務を負えと。それと先ほどからの戦争のできる国づくりという考え方が合致した時に、確かに徴兵はあり得ると思います。

 また教育改革の中で中央集権的な考え方が学校現場に押し付けられているといいましたけども、実は昨年4月、広島県のある小学校でこういうことがありました。その小学校では卒業制作として寺内町の絵を描いて飾っておきました。寺内町というのは、戦国時代の浄土真宗の門徒達がお寺を中心に作った小さな自治都市です。戦国時代ですから普通の農民や町民が戦争に駆り出される。それをきらった人達が信仰を中心として小さな都市を作ったのです。それを日本史の授業ではこれを庶民の戦争への抵抗として教えていて、それを卒業生達が絵にして飾っていたのです。そしたらその学校に来た新任の校長先生がそれを取り外し、たたき壊して棄ててしまったのです。そしてこれは現代の教育に合わないということをいったわけです。この事件の最大の問題点はこのニュースがほとんど全然報道されなかったということなのです。当時の報道を調べてみますと、ときちんと活字にしたのは「週刊金曜日」という雑誌と、地元「中国新聞」のしかもその町をカバーする地域版だけでした。全国紙の記者さんたちも取材したそうですけれども、全く活字にしなかったのです。ですから大方の人には全く知られないまま今日に至っている。作る側の今までの歴史観が変えられようとしているわけです。

 話があちこちいったようですが、教育改革にしても、グローバリゼーション、構造改革、監視社会、こういったことは全て底流で繋がっているということを最後にお話してこちらからのお話は終わりたいと思います。どうもありがとうございました。

「非国民」のすすめ

「非国民」のすすめ

  • 作者: 斎藤 貴男
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2004/04/10
  • メディア: 単行本


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