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非戦・平和を願う歩み  非戦・平和を願う真宗者の会・熊本代表  遠山慈水 [2004年4月1日号(第75号)]

 故東井義雄先生の書かれた『根を養えば樹はおのずから育つ』という本の中に、農民詩人の村上志染という方の作られた詩が紹介されています。

 方一尺の天地 水馬(みずすまし)しきりに円を描ける  汝いずこより来たり いずれへ旅せんとするか ヘイ忙し おましてな
 この詩は、私の生の依り処、死の帰す処を問うておるのがその第一義でありますが、この「汝」という部分を「日本」という単語に変えてみた時、今この国はどの方向へ向かおうとしているのか?武力行使や戦争という手段によっては悲しみしか生み出さないことへの反省に立った、世界に誇りうる平和憲法を持つ我が国が、戦争を放棄した国から、戦争のできる国へと変質しているとしか考えられない政策を、この数年の動きの中に見る思いがするのは、私だけではないはずです。

 盗聴法、国旗・国家法、住基ネット…そして、ついにイラクへの自衛隊派兵、それから今後起こりうるであろう教育基本法の改訂、憲法「改正」国民投票、靖国神社国家護持への流れ。

 今年一月の御正忌報恩講の折、仏教徒として、真宗者として、今イラクにて行われている戦争をどのように考えていくかというお話を致しました。

 それに対し、総代のお一人が「今、私が肌で感じているこの動きは、先の大戦の時と同じだ。いや、事態はもっと悪い」と漏らされた言葉に、戦争は現実の問題として、私に迫ってきました。戦争放棄を謳う平和憲法の中で育った半世紀近い人生において、戦争状態にある国に、自衛隊を派兵するなどとは、正直思いも及ばないことでありました。しかし、それと同時に、湾岸戦争当時「他所の国で戦争が起こっている」くらいにしか考えていなかった、無関心で、傍観者的立場に立っていた自分自身の姿が思い知らされ、恥ずべき己に痛みを覚えました。

 あらゆるいのちの尊厳と平等を説く、仏教の精神とは相反し、なし崩し的に戦争のできる国へと動いている今の状況を、自分の問題として考えさせられたきっかけは、教区内の若手僧侶らが主催して下さった講演会の折の、一枚の少女の絵葉書でした。その子の名前は「サファー」、湾岸戦争で米軍が使った劣化ウラン弾によって、白血病に罹った笑顔の可愛い女の子です。その笑顔の裏にどれだけの悲しみが横たわっているのか…全くの無関心でした。全くの無知でした。「事実に向き合いたい」その思いから、劣化ウラン弾の被害を訴え続ける森住卓さんの写真展や、講演会のご縁を頂いたことでした。

 都合よく切り取られた今のマスメディアに映し出される、映像や言葉を目にするうちに、戦争の本質である悲惨な事実について考えることを止めてしまってはいないか?「仕方がない」とそんな言葉で片付けてはいないか?そう自分自身へ問う中で、私にとっては、止むに止まれぬ行動として、志を同じくする人々と共に、非戦・平和を願う仏教者ウォーク・イン熊本(1月30日開催)、それに続く、『非戦・平和を願う真宗者の会・熊本』の設立という動きが生み出されたことでありました。

 人は誰しも伝えたい思いを持つものです。伝えたい思い…無量寿経に説かれる兵戈無用の世界、親鸞聖人の〝世のなか安穏なれ、仏法ひろまれ〟のおこころ。ウォーク時の辻説法は、街を行き交う人々の足を止めることはできませんでした。しかし、それはむしろ、今までしつらえられた場に安住してきた私自身の伝道、布教のあり方そのものが問われることとなりました。

 かつて我が教団は、真俗二諦をもって、戦争を賛美し、積極的に加担した歴史を有しています。今、その歴史の重さと、私自身が無関心という形で戦争に加担してきたという事実に、深い慚愧の念を抱き、阿弥陀仏の願い、教えに生きる者として、いよいよその願いに応える道を歩みたいとの意を強くします。

 まず事実を知り、そして考える。阿弥陀仏の願いに生きようとする真宗者としての歩むべき方向は、一筋の道として示されるはずです。 (熊本組・廣徳寺住職)

老よ、ありがとう

老よ、ありがとう

  • 作者: 東井 義雄
  • 出版社/メーカー: 樹心社
  • 発売日: 1995/05
  • メディア: 単行本


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藤崎宮随兵行列  日程変更に思う  託麻組組長 白井可隆 [2004年4月1日号(第75号)]

 戦前より、熊本市民にとって、9月15日の藤崎宮の大祭は「フッサキさんの祭り」「馬追い」と親しく呼び習わされ熊本を代表する祭りでありました。

 そして9月15日が国民の祝日「敬老の日」に制定されてより、以前の神社崇敬団体や企業に加え、新たに熊本市内の高校OB会が奉納馬の参加団体に加わり盛り上がりをみせてきました。

 ところが祝日法の改正によって、今年より敬老の日が第三月曜日に変更されることになり、藤崎宮としてはウイークデーの祭りは、サラリーマンや学生にとっては参加が困難になり、勢子の減少が懸念され、引いては飾り馬の奉納団体の減少、そして神社の収入にも影響が出るという大きな問題を抱え込むことになったと推測されます。

 このような事情によるものか、昨年九月二日の新聞紙上に「明年(平成16年)より、藤崎八旛宮秋の例大祭飾り馬行列(髄兵)を秋分の日に変更して行う」という神社側の意向が報道されました。

 秋分の日、即ちお彼岸の中日に飾り馬行列が行われるという突然の報道に、真宗寺院の住職は、騒音と交通規制で彼岸会法座の開座に支障をきたすと、驚きと困惑の思いを抱いたのです。

 原則的には、一宗教団体の宗教行為に対して、他の宗教団体がその是非を論じ、指図することは許されないことでありますが、この藤崎宮の飾り馬行列に関しては、祭りの内容と規模において他者(宗教団体)への影響が大きく、特殊事情というべきものがあります。

 そのような観点から、早速私たち市内真宗寺院、熊本組・熊本西組・熊本南組・坪井組・飽田組・託麻組の六組は連絡協議会を開いて話し合い、そして熊本市仏教連合会にも呼びかけて、11月22日、藤崎宮宮司宛に、仏教諸宗派連名で日程変更の要望書を提出しました。

 その要望書の内容は、
①、古来「秋分の日」は、彼岸の中日の仏教行事として、広く国民に親しまれてきた。この日に飾り馬行列を実施すれば、騒音により、市内各寺院の彼岸法要の妨げとなる。また、交通規制により、寺院への参詣や墓参の方への支障となる。②、彼岸会は千四百年にわたる仏教行事であるが、この期間中の飾り馬行列の開催は、日本仏教文化の否定につながる。③、『国民の祝日に関する法律』によると、「秋分の日」は「祖先をうやまい、なくなった人々をしのぶ」と定められているが、飾り馬行列は、その意趣にそぐわない。④、日程変更は、神社側の一方的な判断であり、市民のコンセンサスを得ていない等々でありました。

 そして12月10日、第2回目の話し合いの折、神社側は、再度検討し、1月末までには返答をしたいという意向でありましたが、その後、神社より「話し合いの結果、九月の第三月曜日・敬老の日に行う」との最終回答をえました。

 私たちは、神社側から「予定通り、秋分の日に決行」という返答であれば、即刻、熊本県警宛に、門徒の署名を添えて「道路使用不許可」の要望書を提出すべく、すでに市内仏教寺院二百ヶ寺へその旨の書類を送付し返事を待っていたのです。

 大山鳴動の後、神社側が私たちの要望を全て受け入れるということで決着しましたが、この交渉の過程で思わぬ種々の問題があらわになりました。

 それは、神社との話し合いに臨んだ時、某寺院の門徒が、先方の氏子総代の席におり、しかも、その人たちが、「日程変更の話し合いの時点では、秋分の日が、彼岸会であり、寺院の法座が勤まる日という意識は全くなかった」と述懐されたことであります。

 この現実、この意識は、私たち真宗者、住職の日頃の在りようを如実に投影していると深く反省させられたことでありました。

 また、神社側の返答をあれこれ詮索していた中、潔く「日程変更」の回答をした神社に対し、私は「意地・面子に拘泥しない。無意味な対立をしない」という神社側の宗教者としての尊い姿勢を感じ、多大の教化をいただいたことであります。 〔託麻組・仙崇寺住職〕

国家と祭祀―国家神道の現在

国家と祭祀―国家神道の現在

  • 作者: 子安 宣邦
  • 出版社/メーカー: 青土社
  • 発売日: 2004/07
  • メディア: 単行本


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編集後記 [2004年4月1日号(第75号)]

◎イラクでの戦争が勃発して、一年が経過しました。政府は復興支援という名目で自衛隊をイラクへ派遣しましたが、今後更なる「派兵」へとのエスカレートが懸念されます。

◎開戦一年目に当たる彼岸会の中日、私は「非戦・平和を願う真宗者の会・熊本」の一会員として、熊本市下通町での「辻説法」に参加しました。かってわが教団は、戦時教学といわれる教学を編み出し、戦争に協力してきましたが、私たちは今、当時と同じ深刻な状況に立っていると思われてなりません。

◎去る一月、真宗遺族会他三団体は、総局に対し、宗門の褒章制度改訂の要望書を提出しました。

◎近年、政府・与党は、自衛隊員が今回のイラク派遣のような任務を「誇りをもって遂行出来る」ように、栄転制度を改革し、新たな戦死を国家が賛美するシステムを策定しました。一方、宗門の褒章制度は国家の栄典制度と一体化しているため、万一戦死者が出て、国の叙勲をうけ、そして宗門に申請をすれば、「社会に対する功労、他の模範となる善行」として対応がなされる訳です。

◎これらの問題が、杞憂に過ぎない状況で終結すればよいのですが・・。

◎公開講座のご聴講をお待ちしています。〈崇信〉


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