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2000年10月1日(第61号) ブログトップ

編集後記 [2000年10月1日(第61号)]

◎七月八日、私は仏教壮年会の人と共に上洛の機会がありました。それは丁度「東西本願寺を結ぶ非戦平和共同行動」の初日であり、皆で東本願寺山門前で行われたデモの出発式に合流しました。

◎私は、その後のデモにも参加しましたが、猛暑の中約2時間、東本願寺から河原町四条、堀川四条を経由して西本願寺へというコースの長い道のりを「怒濤の如く押し寄せる今日の国家主義的な動向を黙認することはできない。『新たな戦前』を現出させてはいけない」と、平和を願う一真宗者として訴え続けて歩きました。

◎本紙一面の菱木氏の文章は、この「共同行動実行委員会」の会報所載のものですが、会の了解を得て本紙に転載しました。

◎佐賀の「信教の自由と自治会」訴訟の第五回口頭弁論が、10月13日(金)午前11時より佐賀地方裁判所で行われます。

◎神社関係者と右翼は毎回の裁判に、貸切バスで大勢押しかけており「万一この裁判に負けたら、住民総氏子という制度が崩壊し、神社の存立が危ぶまれる、この事態は絶対許せない」という意気込みと危機感が感じられます。

◎皆様のご支援のお蔭で本紙も発行六十号を越えました。どうか更なるご協力を頂きますようお願い致します。〔藤岡崇信〕
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東西本願寺を結ぶ非戦平和共同行動  菱木政晴 [2000年10月1日(第61号)]

去る七月八日・九日の両日、京都で、「二〇〇〇年東西本願寺を結ぶ非戦・平和共同行動」が開催された。

 1969年の靖国神社国家護持法案の提出以来、「反靖国」を闘ってきた浄土真宗の東西本願寺の僧侶や門徒が中心になって、はじめての統一行動を実現させたのである。

 このような共同行動が実現したのは、99年に相次いで戦争法が実現し、その総仕上げとしての新たな靖国の国家護持(特殊法人化)の構想までが打ち出されることに対する危機感によるものであろう。

 国のために死に、国のために殺す国民を必要とする国家は、それを国民に納得させる装置を必要とするが、それはまたしても「天皇を中心とする神の国」であり、靖国なのだろうか。

 これまでの反靖国の闘いを無にしかねないこのような状況に対して、訴訟が一段落し、公式参拝が途絶える中で活動が鈍くなっていた真宗門徒は「生まれかわるように、反戦と反靖国の再出発」を訴えた。

 八日の午後二時には、東本願寺の東側にある渉成園庭園の野外ステージにおいて、新谷のりこ・豊田勇造ライブが行われ、二日間のイベントが始まった。

 コンサートの後は、法衣姿の僧侶も交えて約二百人の平和行進を行った。本願寺派反靖国連帯会議の信楽峻麿代表と本願寺派・朝枝實明総務の挨拶で東本願寺を出発し、大谷派の和田稠さんらを先頭に京都市内をまわって西本願寺に到着。大谷派・教学研究所助手の山内小夜子さんの挨拶で締めくくった。

 翌九日には、ルポライターの田中伸尚さんの講演と愛媛玉ぐし料訴訟原告団長で大谷派の寺院住職でもある安西賢誠さん、九州靖国神社公式参拝違憲訴訟原告団長で本願寺派の元住職・郡島恒昭さんによるシンポジウムが行われた。

 政教分離や信教の自由という課題は、ややもすると宗教者固有の権利の問題にすぎないと思われることが多い。信教の自由が侵害されるとか、政教分離規定が破られるというと、自己の信ずる宗教に対して国家が不当な干渉をしたとか、自己の信じない宗教に対して国家やその機関(地方公共団体を含む)が癒着し、優遇したとかの「宗教上の不公平な取り扱い」を想定する人が多いのではないかと思う。宗教という、個人の内面の究極的な事柄に関わる出来事に対する精神的で微妙な摩擦だ、と。従って、これらの訴訟の当事者は、堅い信仰を持つ宗教者か、特に宗教に敏感な個人だと思われがちである。

 しかし、国のために死に、国のために殺す国民を養成するきわめて優秀な装置としての「宗教」ということを考えると、国家がそんな宗教に関わってはいけないこと(政教分離)と、この宗教を信じない、押し付けられないこと(信教の自由)は、反戦平和の核でもあることがわかる。

 この二人の僧侶は、いずれも反戦平和と自らの教団の戦争責任の自覚から政教分離訴訟の当事者となったのであるが、田中伸尚さんの提起は鋭かった。

 宗教者が単に個人の信仰を守るために政教分離や信教の自由を訴えるのではなく、宗教的課題としての反戦・平和の運動に向かうのであれば、靖国が見えだした2000年より戦争法が相次いで成立した1999年にこそ再出発、統一行動が提起されていなければならなかったのではないか、ということである。

 まさにその通りであり、宗教者の鈍い社会活動を象徴しているのかもしれない。

 しかし、ともあれ再出発の第一歩は記された。そしてそれは大きな成功でもあった。統一行動のスローガンでもある「平和・人権の世紀よこんにちは、戦争・差別の世紀よさようなら」に向けて今後とも歩んでいきたい。
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続・自治会の「政教癒着」に抗して(1)  藤岡崇信 [2000年10月1日(第61号)]

 「こだま」56号より3回にわたって記した「自治会の『政教分離』に抗して」の、その後の状況を、宗教関係のみに絞って報告します。


 鳥栖市の「自治会訴訟」は、昨年12月24日に佐賀地裁に提訴され、7月14日まで、すでに四回の公判が行われました。

 意見陳述で原告Aさんは、自治会費の中に入っている神社関係費等は支払いたくない。それは金額の多寡の次元ではなく、支払うこと自体が耐えがたい、とその胸中を次のように訴えられました。
 ①私は仏教徒であるが、学校では神社参拝を強要され、②「天皇を神として崇め、天皇のために命を捧げよ」と教育され、多くの友人が戦死していった。③敗戦後、戦争遂行の精神的支柱は国家神道・神社神道であったと気づき、以来神道を信じ、協力する気持ちにはなれない。④しかも当該神社は宗教法人である。以上の理由で、私は自治会費の中の神社関係費等の支払いを拒否したが、そのため自治会から排除され、五年以上も「村八分」の状態が続いている。自治会でも信教の自由が認められるよう公正な審理をお願いしたいと述べられました。

 それに対し、被告・自治会側は、①Aさんは、自治会を自主脱退した。②当該神社は地区の氏神にすぎない。能舞台での演芸大会、境内のゲートボール場や土俵は、地元住民の憩いの場であり、七月の例祭と九月の八朔祭も地区民の無病息災祈願と秋の収穫を祈願する伝統的風俗や習慣にすぎない。この宗教宗派を超えた素朴で純真な住民感情は、信教の自由の問題ではない。まして天皇制とは何の関係を持つものではない、と強弁しています。

 この無病息災や豊作祈願は宗教そのものであるにも拘らず「神社非宗教」という論理を、国家神道の形成過程で作ってきたのです。

 かって靖国訴訟でも宗教に無関心な日本人のこの宗教観を利用して「宗教に寛容」「社会通念」という骨子の弁論をもって、信教の自由を蔑ろにする裁判が罷り通ってきたことは衆知の事です。

 私たち真宗者にとって、この宗教観の定着は容認しがたいことであり、裁判の行方は単なる「よそのモメゴト」ではすまされない重要な問題であります。


 さて、この裁判の進行過程で、Aさんが、自治会長夫人から「神様に反対するなら、神様のいないところへ出て行け」と罵声をあびせられた時、「転入者の私にも人権がある」というやり取りの中で差別発言をしたということが明らかになりました。

 この問題を根底に、被告側は「人権意識の希薄な原告に『憲法』や『人権』を口にする資格はない」と厳しく指摘、裁判長は「差別発言問題はこの裁判の趣旨ではないので直接審理の対象にはならない」と発言する一件がありましたが、この問題はマスコミを通しても報道されたのです。

 この「差別発言」報道に、最初に敏感に反応し行動したのは、教務所長であったのです。即刻、地元の所長と、Aさんの出身地の所長より、この裁判支援の会・「信教の自由と自治会を考える会」の事務局長のFさんに「実状を聞きたい」という電話があったというのです。

 このことを聞いて、私は複雑な思いでした。

 それは、Fさんは提訴当時から当所長や教区の役職者に「地元での問題であり、どうか教区を挙げて真剣に考えてほしい。是非支援をお願いしたい」と訴え続けていたというのです。それに対して全く反応はなし。それなのに「差別発言」となればAさんの出身地の所長までも即座に対応を始める…、信教の自由に関する人権問題は無視してもいい、しかし部落差別に関する問題は即刻対応しなければ問題が生じる、という思考構図が浮かび出てくるのです。

 人権問題に軽重があるはずはありません。しかしわが「教団」内には、無視してもいい人権問題と即刻対応しなければならない問題との両者が厳然と存在しているというわけです。それは他律的人権意識のゆえなのでしょうか。

 ともあれFさんが、この裁判の意義と支援を宗教関係者や一般市民に広く訴え、また遠い道のりを通い続けて、Aさんの差別意識改革のために鋭意努力されたこと、これこそ真の人権意識から湧き出た清水と思います。〔託麻組真行寺住職〕

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