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良心的兵役拒否講演会を通して思うこと 加藤尚史 [2014年10月1日号(第117号)]]

去る、6月29日、宇土市民会館においてデニス・ヒロタ師(ハーバード大学客員教授・元龍谷大学教授)を講師に良心的兵役拒否体験の講演会が開催された。

この講演会のテーマである「良心的兵役拒否」とは、宗教的な信条だけではなく、思想・道徳などのいわゆる個人的良心に基づいて兵役を拒否し、社会奉仕などで代替業務とすることができる制度で、1948年に国連で採択された「世界人権宣言」の「思想・良心の自由、信教の自由」を今日的根拠として国際理解がなされ認められている権利のことである。日本国憲法では第十九条の「思想及び良心の自由」にその根拠を見いだすとの主張もあり、日本の憂慮される将来を鑑み現実的な選択可能事例として、この制度についての「知識をもち、選択肢を広げておく」(当日資料より)ことの周知が開催の趣旨である。言葉自体も含めてほとんど認識できていなかった私にとって興味深い貴重な講演会であったのだが、終始どこか落ち着きの悪さ、微妙な違和感を感じていたというのが率直な感想である。それはおそらくテーマに対しての前提的な立場の相違にあったのであろう。

憲法解釈を変更し、集団的自衛権の行使を容認する閣議決定が迫っていた6月25日の朝日新聞「声」欄に、「僕は戦場で人を殺せません」と題された投稿が掲載された。「おそらく戦場へ向かわされるであろう世代のひとりとして、気持ちを述べさせていただきます。」と始まり、「(集団的自衛権の行使に)僕は反対です。徴兵され、戦場に送られ、人を殺したくないからです。」と続くこの投稿は、東京都の福島佑樹さん(15)が記したものだ。一五歳の少年が自らの切実な問題として「徴兵」や「戦場」、「人を殺す」ということに悩まざるを得ない社会の空気感に、惨憺たる戦火のときを悔やみ、戦後六十九年の間積み重ねてきたものが揺らいでいることを実感させられた。実際、この時期政界やネット上では「徴兵制」をめぐる発言や議論が広がっていた。議論の最中、政府は憲法第十八条「奴隷的拘束及び苦役からの自由」を根拠として、「徴兵制は憲法上認められません。」と否定したが、阪田雅裕元内閣法制局長官は、「憲法九条の解釈変更がこれほど簡単にできるのなら、議論に厚みのない十八条の解釈をかえるのもわけないだろう。」とコメントしている。なるほど。ならば一九条も例外ではない。

客観的、あるいは視認できるようなリアリティとは別に、集団を構成する人々がさもそこにあるかのように作り出す主観的リアリティが社会的に真実性を伴ってくる。その概念をソーシャルリアリティという。それに従って行動すれば、集団での居心地がよくなり気持ちが楽になる。しかし、そのリアリティがないかのように行動すると、非難や反発を受け仲間扱いされなくなる。「非同調」という。悪意を持てば集団操作の有効的道具となりうるそうだ。いつの間にか解釈変更がなされ、いつの間にか「徴兵制」へのソーシャルリアリティが形成される。さらには、現実に戦火を交える国家となった場合、当然はたらいている戦争遂行へのソーシャルリアリティの社会に対して、「非同調」の態度を表明することの困難さは想像に難くない。拒否の権利は国際的に保証されていても、国内法の解釈が変更されその保証根拠が希薄となれば、実際に行使に対する場合の精神的圧力は確実に増すだろう。このような危惧が存在する社会の形成そのものを止めたいのである。

前出の投稿は、「人を殺すことは、通常の世界では最も重い罪です。しかし戦場では、その一番重い罪である人殺しを命令されるのです。命令に従うのがよいことで、命令に背けば罰せられます。この矛盾が僕には理解できず、受け入れられません。」と続く。絶対が存在せず、社会状況や時代、立場によって変化してゆく社会的規範や、我々の善悪、良心の判断基準の危うさを率直に言い当て、数十年前、現実にその苦しみを背負ってしまった多くの人々の苦悩の因を明らかにしている。そして、彼は投稿をこう締め括った。「人は何のために生まれてくるのでしょうか。戦いで人を殺したり、殺されたりするためではないはずです。(中略)人を殺した罪を引きずって生きたり、自分が望まない時に命が無理やり終わったりすることは、あまりに残念で、悲しいことです。」

生き方の依拠を仏法と定めて生きることが仏教者であり、そうでなければ宗教者としての存在が成り立たない。仏法の眼を通して知らされた我々の姿や世界が虚仮不実なものであればこそ、仏の真実なる世界に問い聞きながら、「兵戈無用」、「殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ」との願いを自らの願いとして生きてゆかねばならない。仏教の覚りの本質が自利利他一如であることを釈尊のこの言葉は示している。私だけの事で解決するものではない。戦争へ向かうソーシャルリアリティの形成を見過ごさず、「徴兵制や兵役を認めない」「決して戦争をさせない」という、仏教的リアリティ(真実性)を主張し行動し続けてゆくことが少年たちに対する務めではないのか。(高瀬組・法雲寺住職)



親鸞―宗教言語の革命者

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なぜ私たちの教団は 社会的発言をしなくなったのか    こだま編集局 [2014年10月1日号(第117号)]]

 安倍首相の靖国参拝や集団的自衛権の行使に大谷派は反対を表明しましたが、本願寺派は声明を出していません。「なぜ出さないのだろうか」という疑問より、宗会議員の藤岡崇信氏にその真相をお聞きしました。

藤岡…私は、宗会で何度も「社会の問題に、本派はなぜ真宗の立場を発言しないのか」と質問してきましたが、総局の基本姿勢は「それらは世間知の問題、真宗は往生浄土が中心である。靖国問題については例年、真宗教団連合で、政教分離の立場より、首相等の公式参拝は行わないように、という申し出を行っている。従って、改めて総長談話等は出さない」と言ってきました。
 宮崎で九州組長会があったとき、「集団的自衛権や原発の問題をどう思うか、御門主も発言されているが」という質問がありました。総長、総務に代わって教学伝道センター所長の丘山氏は「御門主が発言されている。私たちは御門主の発言に対して、粛々と実行していくだけ。総長談話等は必要ない」と答えました。

こだま…以前、本派は、首相の靖国参拝に反対する声明を出していましたが、何時から出さなくなったのでしょうか。
藤岡…何時からかはわかりませんが(註①)、急に変わりましたね。「門徒の中にはいろんな考えの人がいる。それらを考慮し、世間の問題には関わらない」という姿勢ですが、それは逃げの論理ですね。

こだま…実践運動は社会に積極的に関わっていこうという運動ですが、社会の問題には関わらないというのはどういうことでしょうか。
藤岡…最近やっと『連研ノートE』が出ましたが、作成段階で靖国と差別の問題は避けようという動きがあったと聞いています。それを基幹運動をやってきた人たちが押し返して、どうにか靖国・差別の問題を含めたものが出たのでしょう。
私は、戦後の本派の教化活動で有効だったのは念仏奉仕団、次いで連研ではないかと思います。中央教習に参加して、靖国や神の問題について、まさに筋金入りの門徒になって帰ってきた人たちがいます。連研で神、靖国の問題をやらないと、おざなりの研修になるのではないでしょうか。
もう一つは、以前の基幹運動の進め方にも問題があったのではないでしょうか。権力主義であったり、言葉狩りになったことで、みんなの支持を得られなかった点は、反省すべきであると思います。
こだま…実践運動になるとき、その反省からみんなで参画してやろうとなりましたが、どう変わってきたのでしょうか。

藤岡…社会の問題については発言しない、穏健な話し合いの場にしたいということではないですか?
こだま…国民が歓迎することはやるが、反発することはしたがらない印象があります。
藤岡…浄土真宗として避けて通れない大切な問題、そこを避けて安易な道を歩こうとする。しかし、その最後は自分の首をしめる結果になると思います。

こだま…この変化は実践運動に変わったころから出てきているようです。
藤岡…戦前、各宗教教団も、国の意向にそわなければ潰すという大弾圧を受けて、それに従ってきたという過去があります。そのことをもう一度考えてみなければ、いよいよ大きな深刻な状況になってから、あとがえりは無理だと思います。
 戦前の宗教政策は今もまだ生きています。真宗の本堂で神の問題等は語れないという雰囲気が十分にあります。そこをクリアしなければ、本当の真宗に入れない。この暗い過去の歴史に思いを馳せる時、特に今日声高に叫ばれる集団的自衛権や国家神道「靖国」への回帰に対し、私たちは信教の自由を護る立場からも断固反対の意志を表明しなければならないと思います。

註①…総長名で出された声明は2010年10月18日「アメリカ合衆国における臨界前核実験に対する声明」が最後のものとなっている。

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