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やはり傍観者っであった―私にとっての恵楓園―  八代組・西福寺住職 山本隆英 [2001年10月1日号(第65号)]


 「国の隔離政策は著しい人権侵害であり、らい予防法は違憲」との判決が下り、元患者及びそのご家族に対する偏見と差別のみが大きく取り上げられていたようにも思うが(私はそう感じた)、国の強制隔離政策に我々真宗僧侶も大きく加担していたのだということに気付かなければならないことを『ハンセン病差別と浄土真宗』(永因文昌堂刊)の《「らい」と本願寺教団一福本憲応師述一》の強烈な文章から教えられた。

 恵楓園とのご縁は、療養生活を送っておられたS氏来年十七回忌)のお父さん(来年三十三回忌)のご往生から始まる。一週間の逮夜のこと、義母さまが訪ねて見え「一週間の通夜ですがお参りに来てもらえますか、Sも来とっとですが良かでずか?」とのこと。」二つ返事でお参りを引き受け、S氏、義母さまと三人での逮夜動めとなった。底冷えのする一月中旬、勤行中S氏は次の間の隅に正座しておられ、動行が済みお荼を頂戴する時になって、火鉢の横に私たけのお茶が用憲された。私は「Sさん、こっちにおいでなさいませんか」と火鉢へおいでいただき、Sさんと焼酎を汲み交わすことになる。私は「恵楓園での生活は如何ですか?」と切り出した。Sさんは「おまえはなぜ俺が恵楓園におっとば知っとっとか」と大声で詰間された。私も負けじと「この辺の者はだっでん知っとる」と切り返した。険悪な空気は、この前年地域上映に取り組んだ映画「あつい壁」を中心話題とすることで長時間の会話を可能にした。

 この上映活動に取り組んだこともあり、ハンセン疾に対する偏見のわずかなりは取り払っていたつもりだったので、私も口調で切り返すことが出来たのではないか.もしこの映面に出会わなければ、勤行後そそくさと帰宅したであろうことを恩えば冷汗ものである。

 やがて満中陰である。S氏から「仏事を朝の六時からお寺さんでさせてもらえませんか?」との話、「えっ、六時は未だ暗かですよ何故ですか」と問うと、「恵楓園の友逮を連れてお参りしたいので暗い内がいいのです」とのこと、今後は昼間に皆さんでお越し下さることを確認し引き受けた.料理は手作り煮しめを所望で、母と妻は嬉々として数日前がら二十名分の煮しめ準備をしていた。
寒い本堂で満中陰の勤行が終わる頃漸く朝日が射してきた.ストープもあり庫裏での会食は温かく清々しものがあった。こんな時必ず外野席に世話やきさんが存在する。その日の午後「食器は消毒しなったが良かですよjと忠告めいたことを言いに来た人に、妻は「何ば言いよっとですか」と応対していた。

 その後、当方からは小さかった子どもも連れて恵楓園を訪ねることもあり、恵楓園からも度々来訪があり、当山の法座にもお招きしたこともある。仏教婦人会の研修で訪ねたこともあっが、S氏のご夫人Hさんと、元「真宗報恩会」のリーダーであるM氏が中心だったこのメンパーも、毎年ご往生の方が増え、車椅子生活の方も多くなりだんだん疎遠となっている。

 交流とまではいかないが、こうしたご縁を結んでいたたいていることだけで、く俺はハンセン病を理解し、何の偏見もなく付き合っているから善し〉としていた、当に傲慢としか言いようがない。九五年頃「らい予防法廃止運動」が取り組まれたことはM氏から毎月恵送いただいている『菊地野』(恵楓園自治会機関誌)で知っていたが、一歩盤み込んで署名運動の一枚も協力しなかったことが悔やまれてならない.何もしないことは、体制に賛成であり協力していることに他ならない。恥ずかしながら、このことと、前述の福本師の文から、私もただ単なる傍観者の一人に過ぎなかったことに気付かされる。

 今後の活動を考えてみよう。
 ▲先ず前号寺尾師提案《入所者と元家の手次寺からのアクセス》
 ▲次は《提訴の手伝い》これは、元患者遺族と未入所元患者の提訴について<入所歴のない元患者や既に死亡した元患者遺族は「補償金支給法」の対象外>との閣議決定がなされたので、新たな裁判が始まる。門信徒やご近所でこの対象者の発掘と提訴を手助けしたい。
 ▲人権学習を積極的に積み重ねつつ《ハンセン病問題の啓発法話を行う》

楽々理解 ハンセン病―人生被害‐人間回復への歩み

楽々理解 ハンセン病―人生被害‐人間回復への歩み

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 花伝社
  • 発売日: 2005/08
  • メディア: 単行本


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真宗風土記(上) 熊本の巻  本田里一 [2001年10月1日号(第65号)]


 宗教と風土〔人情をも含めて〕との関係は必然的であるらしく、大ざっぱに見ても砂漠からマホメット教が、荒野からキリスト教が、草原から道教が、自然的風土から仏教が興っている。

 その仏教は中国本土に入って中国的性格に陶治されたが、更に日本に伝来して来ると日本の四季的風土に洗練されて、日本的性格を帯びるようになり、春(真宗)夏(日蓮)秋(浄土)冬(禅宗)の四季的特色を持ちながら、全く日本化するに至っている。

 「一粒の麦若し死なずば」、そして風土が快適であるならば一粒の麦は恐ろしい力を持って伝播して行く。真宗(本派)信仰伝播の状態を見ると、北越の地は一粒の麦は明るい陽光と豊かな沃土に育まれて、一面には関東地方に伝わり、今一つの面では北陸から山陽山陰を西走して、九州に届いている。そしてその伝播の道筋では、所々にいわゆる真宗王国といわれる黄金地帯・北陸門徒、加賀門徒、安芸門徒というような真宗盛行の地帯を造り出している。

 熊本県は他県に比べて盛んであるとは言えないらしい。最も真宗本派の寺院数は五百ヶ寺を越えているからむしろ多い方である。にも拘わらず盛んであるとはいえないのは、量はともかく、質において過去はともかく、現在においても法義尊重の志が余り厚くないからである。本土から真宗が渡って来たのはそう古くないらしい。県下の寺院の沿革などから推して400年以前までは溯らないようである。僅か300、400年の間に今日のように深く浸透したのであるから、その教化力の強さに驚かざるを得ない。

肥後轍人びと
 熊本は古来宗学の盛んな所で真宗学史上肥後轍として一異彩を放ったものである。肥後轍は環中師の開く所で、彼は慧雲や功存に学んで一家を成し、肥後に帰ってからは、懇ろに後進を誘掖したのであるがその轍を受けた門侶が毎年相集って講義対論をさかんに催した。これを龍北会と言い後世まで続いたものである。肥後轍の特色は、「肥後の会読」と言われた程で、華やかに弁舌を戦わして相手を論破するのが主目的で、従って微に入り細を穿って相手の虚を衝くのに忙しい。肥後轍が如何に論議が盛んであったかの一例として「法藏菩薩肥痩論」がある。因位の法藏が肥えていたというのが当時助教の鬼木沃州で、これに対して痩せていたとするのが当時得業の能令速満で、互いに論難往復して数年も続いたものである。環中に多くの門下があり到徹、慶恩、都西、戒定(都西ノ兄)などが最もすぐれ、到徹の同門に聞生があり、到徹と共に本派に学階の創設された時、最初に司教になった。到徹から更に速満が出て聞生からは沃州・道晃が出ている。慶恩からは断涯が出、この外に肥後轍をつぐ者に覚音・達善・達源・慶善の諸師があるけれども、その頃から肥後の宗学も空華派の影響をうけるようになって肥後轍の真面目は次第に失われてきた。

 近代の宗学者としては、僧亮、寛寧、針水がある。明治の初年針水が、明如上人を補佐した功績は大きく、昨春上人五十回忌の法要が営まるるや、そのお代香が本年十月針水和上の住持した光照寺にわざわざ差し向けられた程である。肥後の宗学はこのように歴史と伝統を以って盛んであったが、今やこれらの先蹤をつぐ者が少なく衰退の一途を辿っているのは残念である。わずかに佐々木憲徳、高千穂徹乗の二師がいるが、佐々木師は元来天台畑であり、高千穂師は杉勧学の後をつぐ西鎮教義の派内の権威者であるが、不慮の病に声を奪われて静養しておられる。しかし佐々木師は熊本女子短大で倫理を講じながら、毎月高千穂師の自坊で教行信證を講読して懇ろに後輩を指導している。高千穂師は静養中も研究を捨てず、最近「法然から親鸞へ」という研究を発表した。

 熊本の生んだ最も異色のある学僧に佐田介石のあることを忘れてはならない。彼は地動説の行わるるや、深くこれを憂えてあく迄須弥山説の天動説を守り、それを実証するために苦心して「視実等象儀」を著わしたことは有名である。〔熊本組・善教寺前住職〕

 これは1953(昭和28)年頃に執筆されたものと推測されます。また字数の関係で削除した部分もあります。
備 考(所属寺)
①益西組・東光寺・勧学
②託麻組・浄専寺・勧学
③益西組・延福寺・勧学
④益北組・明尊寺・勧学
⑤球磨組・善正寺・勧学
⑥山鹿組・光顕寺・勧学
⑦益北組・佛誓寺・勧学
⑧球磨組・善正寺・勧学
⑨緑陽組・善正寺・勧学
⑩益西組・正覺寺・勧学
⑪益西組・延福寺・司教
⑫種山組・光沢寺・司教
⑬緑陽組・雲晴寺・司教
⑭託麻組・専照寺・司教
⑮鹿本組・大光寺・勧学
⑯鹿本組・光照寺・勧学
⑰緑陽組・光恩寺・勧学
⑱坪井組・佛厳寺・勧学
⑲託麻組・正泉寺

『新仏教』論説集〈上〉第1巻第1号~第5巻第12号 (1978年)

『新仏教』論説集〈上〉第1巻第1号~第5巻第12号 (1978年)

  • 作者: 赤松 徹真, 福嶋 寛隆
  • 出版社/メーカー: 永田文昌堂
  • 発売日: 1978/03
  • メディア: -


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編集後記 [2001年10月1日号(第65号)]

◎今回は熊本組善教寺前ご住職の貴重なご玉稿をご提供いただき、掲載いたしました。
◎これは記述の内容から推測して、1953〔昭和28〕年頃に執筆されたものと思われますが、熊本の過去を見据え、現在、そして将来への歩みの大きな示唆を与えていただく思いがいたします。
◎備考欄の先哲の所属寺については、本願寺勧学寮勤務の武原順子氏〔坪井組・明専寺衆徒〕に確認をお願いいたしました。
◎尚、この文章は、紙面の都合により一部削除しております。ご了承下さい。
◎西福寺ご住職山本氏は早くから恵楓園の皆さまとの交流があり、私たちも今まであれこれとお話を聞いては参りましたが、一度恵楓園を訪ねたいと計画し申し込みをいたしました。しかし、最近は訪問の依頼が多く、当分は無理という返事をいただきました。
◎いずれ機会みて是非園をお訪ねしたいと思っていますが、同行ご希望のお方はご連絡下さい。
◎阿満先生を招聘しての「こだま公開講座」は、小泉首相の「人間死んだら皆ホトケ」という発言に象徴されるわが国の曖昧模糊とした宗教観・・、そして「真宗」を問う、という視点よりお話しをいただく予定です。皆さまのご来聴をお待ちいたします。


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