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2005年7月1日号(第80号) ブログトップ

非戦・平和を願う宗教者ウォーク・イン熊本2005報告  遠山慈水(非戦・平和を願う宗教者の会・熊本代表) [2005年7月1日号(第80号)]

 先ず、表題の行事を報告する前に、その行動基盤を書かせていただく。

 戦後60年、政治家・官僚の言葉に代表されるように、物事をうやむやにすることが美徳であるかのような「確かに、はっきりと自分の意思を言葉に出して言わないことが国民性である」という前提に立ったと仮定して、長いものには巻かれろという発想の中、あるいは時の権力を持つ者からの押し付け、またそれを社会生活・人間関係の知恵とする方が、より自分が傷つかない、また相手を傷つけないという立場をとってきた我々…。そのツケというか、その在り方が、今まさに問題となっている。特に戦後処理の問題(靖国・歴史教科書・領有権など)に関して言えば、その矛盾が新聞の一面に大きく報道される毎日が続く。このことは戦後処理の問題が、そのまま今の問題でもあるということであって、今を生きる我々一人ひとりに突きつけられたものでもある。

 果たして、我々は長い歴史の中で、自ら考え、自ら行動するというあり方を、今までとってきたであろうか。現実に起こっているイラクへの自衛隊派遣、着々と行われている憲法の「改正」・教育基本法の「改正」などの問題に関して、沈黙することは賛成することと同じではないのか。或いは、このような私と、私どもの命・生活・環境・思想信条・宗教を否定されうる行為に対して、平たく言えば、私が大事と思うものを強制的に手放し私が私であろうとすることを否定するようなことに対し、全くの生活保守主義(己が身と己が身近なものさえ幸せであればよしとする考え)や、無関心・傍観的態度に居座ることのほうが居心地がよい。その居心地のよさを与えてきたのが、我々の言葉でいうなら真俗二諦の論理であったのではないか。果たして釈尊や親鸞は、その立場をよしとするのであろうか。少なくとも親鸞は『御念仏こころに入れて申して世の中安穏なれ、仏法ひろまれとおぼしめすべし』と仏法を根底にすえ、時の権力や社会と常に対峙したのではなかったのか。およそ真の宗教というものは、その教えに自らを問い、その教えに生きていこうと発意するところに、自分の生き様を形成させうるものであろうと思うが如何なものだろう。

 さて、一昨年のイラク戦争開戦時の一連の行事や、昨年一月の仏教者ウォーク・真宗者の会の立ち上げを通して、思いを同じくする人々と共に行動・学習を深めてゆく過程の中で、いよいよ憲法「改正」が具現化されようとする動きに対して「くまもと九条の会」が発足した。ご存知のごとくこの会は、思想信条・宗教・政党を超えて「この国を戦争の出来る国にさせない」という一点で連帯する会であるので、我々真宗者の会としてもその運動方針に賛同しうるものとして、「くまもと九条の会」の賛同団体として登録させていただいた。そこには、それぞれの宗派・教団に属する方の名前が見うけられ、その方々とのコンタクト・会合を重ね、本年四月二十九日「非戦・平和を願う宗教者の会・熊本」が結成された。その折の案内・結成宣言文・賛同登録書などはすでに各寺院に配布してあるが、本会の最初の行動として、先般5月30日、11宗派・団体120名ほどに参集いただき宗教者ウォークを実施させて頂いた。それぞれの教えは違えども、非戦・平和を願い行動していくという思いは同じであることを確認できた喜びや、いかに今までの自分自身が『我が』という殻の中に安住していたのかということを、再度問われた思いがする。

 一方、世界に目を転ずれば、宗教や民族の対立が、あたかも戦争や紛争の直接の原因であるかの如く標榜され、いつの間にか宗教(者)自らがその構図に絡めとられ、果てることのない対立へと発展する現実がある。また、戦争を遂行しようとする権力と宗教が結びつく時、ジハードやヤスクニに代表されるように、「死後の保障」を確約することによって、死の恐怖や悲しみを、名誉や喜びへと転換する役割を担う。その結果、国のため、宗教のために死を選ぶ多くの人々を生み出している。宗教の名の下に戦争を賛美し協力するのは、常に宗教者であることを、私たちは忘れてはならない。

 今後、より多くの方々に賛同登録を働きかけながら、我々を取り巻く環境はまさに正念場との思いを込めて、声を発し、行動に移して行きたいと考えている。   (熊本組・廣徳寺住職)

非戦と仏教―「批判原理としての浄土」からの問い

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護持口数調整作業を振り返って  安養寺前住職 隈部真澄 [2005年7月1日号(第80号)]

 熊本教区は自主的に「護持口基本数調整」の作業を、蓮如上人五百回遠忌法要の後から取り組んだので、通して言えば七~八年経過して、漸く本年三月、臨時教区会で承認を受けた。満場一致でなく付帯決議「二年を目処に三年以内に見直す」をつけての承認である。この結果を受けて、調整委員会は、三月末をもって任期途中の辞任を取り纏めた。

 当初、議長を中心に組長を委員として調整作業を始め、後に相談員を交えて頓挫し、最終的には、宗門の護持口数調整作業に沿って、一言で言えば「数合わせ」で終了したことになった。何れの場合も、寺院の実態をを把握し、格差をなくした平等の負担を目標としたが、具体的な作業に入れば「自利利他」の理念は飛散し、「自利々々」に執着したことに終始したとしか言いようがない。

 そもそも、1951年、新しい「宗教法人法」が施行された時、「届出」門徒数とした辺りから基本線が間違っていた。組長の認識、各寺院住職の認識がまちまちで、実数と届出数との格差は夫々に違っていた。

 その後、1968年に「護持口数」として、各寺自主申告した数値が基本的には賦課基準とされてきた。松村総長は、九州組長会で「賦課基準の見直しには、護持口数は調査しても減るばかりなので賦課の要素にはしない」と発言された。しかし武野総長は「蓮如上人五百回遠忌法要に関する懇志進納状況を分析すると、近畿周辺が負担が多く、地方が軽くなっている点は今後見直すべき」と発言された。

 今回の調整では、教区全体の口数は中央で決定され、総数八十万口は変えず、教区によって増減調整がなされ、熊本教区の場合、43324口から30184口に1314口(30%)減は歓迎されたが、寺班賦課の廃止、僧班賦課は上部は減じ、下部は増す等、複雑な賦課基準になり、実態は告知書を見るまで不明という状況になっている。

 さて、今は情報の公開性が要求されている。熊本県は公開性ではワーストの部類に報道されている。そのような県民性からか、私たちの寺院の情報公開を問われたら、むしろ閉鎖の状況ではなかろうか。寺院運営の基本的財務に関わる「護持口数調整作業」が僧侶のみで、門徒の参加がない点も考えてみれば不思議なことである。各寺院が「宗教法人法」に則り、何時情報公開を求められても常に対応できる体制を整えることが大事と思われる。釈尊の時代、修行僧は早朝に托鉢に出向き、佛さまに敬供し、その中から一日のいのちをつなぐ最小限の食事を頂いたと聞きます。この事は宗教法人運営の基本を示唆しています。

 今後、新しい護持口数調整委員会が発足しても、実態をそのまま報告するという簡単で基本的な事が遵守し、実施されなければ、永遠に格差への不満は解消されないと思う。

 昔から寺院にあった機能、地域での学習指導(寺子屋)、福祉(駆け込み寺)、住民の把握(門徒届け)等々が消え、最後に残った儀式執行も形骸化し、都市化の中で寺院無用の「お別れの会」をホテルで開催する傾向に、どのように対処していくのか、今問われている課題である。真摯に寺院の本来性を思考し、地域に開かれた活性ある寺院を目指す課題を、門徒の方々と共有することが、「御同朋、御同行」に連鎖することと思います。

 親鸞聖人は『顕浄土真実教行証文類』総序に「・・・・ああ、弘誓の強縁、多生にも値ひがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。もしまたこのたび疑網に覆蔽せられば、かへってまた曠劫を経歴せん。誠なるかな、摂取不捨の真言、超世希有の正法、聞思して遅慮することなかれ。」(注釈版132頁)と提示されています。今まさに、すべての行動を検証し、「正法」に恥じない私たちでありたいと思います。  (長洲組)

浄土三部経 現代語版

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  • 出版社/メーカー: 本願寺出版社
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編集後記 [2005年7月1日号(第80号)]

◎今号は、最近結成され、早速活動を開始された非戦・平和を願う宗教者の会について、代表者の遠山師に、またシリーズ・護持口数問題については、その委員として永らく関わってこられた隈部師に原稿依頼をいたしました。ご繁多の中、お二人とも早速ご玉稿をいただきました。

◎球磨組のご住職から、「清風新聞(四月二日「熊本北」局消印)に、「こだま」所載の宇ノ木師の文章の件を取り上げていたが、その記述は、球磨組の総意であると誤解されかねない内容になっている。あれは組の総意ではありませんので・・」という電話がありました。また宇ノ木師ご自身も一住職のお考えを纏めておられるのです。その点ご理解の程をお願いいたします。

◎尚、この紙面に掲載した文章の内容は、編集局で話し合ったもの以外、「こだま」の基本姿勢とは限りません。皆さまのお考えを自由に発表し合う場にしたいという編集方針を「こだま」 というタイトルにしたことでもあります。特定の人物を故意に誹謗中傷する意図をもった文章以外は紙面の許す限り掲載する心算です。皆さまのご投稿をお待ちしております。

◎いよいよ猛暑の時期を迎えますが、ご法体ご自愛下さい。 〔崇信〕


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