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戦時教学について(二)  宇土北組 光国寺住職 源 重浩 [2014年7月1日号(第116号)]

前回の原稿の末尾で、「戦時教学について大きく云えば、真相を知らされなかったため、本山の要職の宗政家、著名な研究者、末寺の住職寺族は心ならずも戦争協力してしまったと考えられます。」と書きました。傍線部分に異論のある方もおられると思うので、今回はこの問題について少し書きます。

当時の国民、教団の関係者すなわち我われの父、祖父などや、教団上層部および門主と呼ばれる人たちが、真相すなわち「あの戦争が侵略戦争だということ」を知っていたか否かということは重要な問題ですから、普通の学問研究と同じくしっかりした根拠を踏まえて発言すべきだと思います。私自身とても興味のある点なので、確固とした根拠があれば認めることにやぶさかではありません。

十五年戦争については、時間をかけて自分なりに調べてみたいと思っていますが、現在の私の考えを少し述べます。まず前回少し触れましたが、学徒動員で戦争に関わった、東京でまだ存命の叔父を含めて私の周りの家族親戚のレベルでは真相を知っていた人はいないと思います。皆さんの場合も同じでしょう。教団上層部、門主(註①)と呼ばれる人たち、また真宗学の巨匠と云われる人たちの中から二例を考えてみたいと思います。西本願寺の光照門主の陸軍入隊は資料によって知られます(註②)。また東の真宗学の巨匠金子大栄は満州に講演に招聘されています(註③)。

しかしだからと云って、この人たちが真相を知っていたとは云えないと思います。例えば、当人の日記に知っていたことが明白に書かれていたというようなことであれば話は別ですが、そのような資料は無いでしょう。陸軍に入隊していたから知っていたということも、確固とした根拠にはならないでしょう。陸軍は最大時550万の巨大組織です。真相を知っていたのは参謀本部(海軍は軍令部)およびその関係者と政府の要人たちだけでしょう。それより下の階級の兵士は上からの命令を受けて動いてるだけです。

近年の研究で、ある時期から新聞記者たちが知っていたことが明らかになりましたが、一般の国民が真実を知ったのは戦争が終わってからのことです(註④)。

しかし、たとえ侵略戦争だということを知らなかったとしても、即ち聖戦だと思っていたとしても、又軍からの圧力があったとしても、阿弥陀仏と天皇を一体化する教学は語るべきではなかった、と思います。時流に乗っての勇み足、あるいは軍からの圧力に屈したということかもしれません。しかしそのような教学を立てることは断固として拒否すべきだったと考えられます(註⑤)。

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註①…門主と呼ばれる人たちや大谷派の金子大栄の戦時中の動向を詮索するのは不遜不敬なことかもしれません。しかし当時影響力のあった人々の歴史の事実を知ることは、これから未来に向かって私たち自身がどう生きて行くべきかを考える上で重要な資料になると考えます。また、この小論の性格上登場人物の敬称は省略します。

註②…昭和11年(1936)本願寺光照門主、第1師団鯔重兵(しちょうへい)第一大隊に入隊。『戦時教学と真宗』第3巻(「戦時教学」研究会編集、福嶋寛隆監修、27ページ 1995) 尚、『日本軍隊用語集』(寺田近雄著、立風書房、1992)によると、鯔重兵とは陸軍の兵科の一つであるが、鯔重隊は輸送と補給を任務とした。日本の陸軍の特性は正面戦闘兵科を重視し、必然的に後方支援兵科を軽視する風潮があった、とあるから、そのような部隊に配属された光照門主が、ことの真相を知っていたとは考えられない。(同書33ページに「昭和12年(1937)10月法主、幹部候補生勤務演習のため世田谷の重兵第1連帯に入営(11月’日退営)」とある「重兵」は「鯔重兵」の誤りか。)

註③…金子『拾二抄』(「雄渾社」昭和49年、1974)には、満州国の建国大学に招聘され、「新京の郊外、寛城子と南嶺とに、満州事変の戦跡を訪う。説明の小娘、当時の戦況を詳細に語る。・・・」(一六四ページ)とあり、現地に滞在し説明を聞いているから、真相が分かっていた、と見る人もいるかもしれない。しかし、それでも真相は見抜けなかったと見るほうがむしろ自然な見方であろう。

註④…『日本人はなぜ戦争へと向かったのか』下、NHK取材班編著、17ページ、2011 .

註⑤… 例えば『国家理想としての四十八願』(昭和10年)参照。


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集団的自衛権の行使は日本国憲法上許されるのか、 私たちの命や自由を守るのか    弁護士 福永紗織 [2014年7月1日号(第116号)]

 今、安倍政権は、集団的自衛権を行使できるようにするため躍起になっています。しかし、憲法上、集団的自衛権は認められません。憲法は、国民の権利自由が権力の濫用によって侵されないよう国家を縛る法です。違憲である集団的自衛権の行使を権力の側から進められている今、権力の濫用によって、私たちの命や自由が脅かされようとしています。

 安倍政権は、日本の安全保障のために集団的自衛権が必要だと言っています。安倍政権のいう安全保障は、「日本」という抽象的な価値を守るためのものといえるでしょう。「日本」があってこその国民という価値観が根底にあるようです。しかし、憲法上最も重要な価値は、憲法13条が「すべての国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については…」とされているように、私たち個人、そして私たちの命です。安全保障は、まず私たちの命を守るものでなければなりません。

 以下、憲法上集団的自衛権の行使が許されないこと、集団的自衛権の行使は私たちの命を守るものではないことをお話したいと思います。

一 憲法上集団的自衛権の行使が許されないこと

(1) 憲法上個別的自衛権の行使が許されること
個別的自衛権とは、自国に対する武力攻撃に対して、自国を防衛するために必要な一定の実力を行使する権利をいいます。
9条1項で放棄されているのは、侵略戦争ですから、個別的自衛権の行使は、憲法上は禁止されていないということになります。
個別的自衛権の行使というのは、①防衛行動以外に手段が無くやむを得ない場合、②不正の侵害が現実に存在し又は差し迫っている場合に、③侵害を排除するのに必要最小限の防衛行動に限って認められるものです。このように非常に限定された範囲では、国家が当然有する権利といえます。また、憲法13条や人権保障規定からすると、国には国民の生命や財産を守る義務があり、個別的自衛権を行使することは憲法で禁止されていないため、日本国憲法上も認められているということができます。
ただし、個別的自衛権の行使のために保持できる実力の範囲には争いがあります。
また、国際法上は、国連憲章において、武力攻撃があった場合でも、原則として安保理決議に基づく軍事措置がなされるべきであり(国連憲章42条)、その措置がとられるまでの間、例外的に自衛権が認められるとされています(国連憲章51条)。

(2)憲法上集団的自衛権の行使が認められないこと。
前述のとおり、個別的自衛権が国家であれば当然有するとされるのは、現実に国民の生命・財産に危険が生じていることが明らかで、国がこれを行使できないということは考えられないからです。
政府によれば、集団的自衛権とは、自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもって阻止する権利とされます。
外国に対する武力攻撃は、国民の生命・財産に対する危険が必ずしも切迫しているといえませんから、国が当然有する権利ということはできません。もし、憲法上、集団的自衛権の行使が認められているのであれば、その旨の明文があるはずです。
また、そもそも国民の生命・財産に危険が生じているのかが明らかではありませんから、それを誰が判断するのか等決定手続きを定めているはずです。しかし、憲法にはそれらの規定がありません。ですから、集団的自衛権の行使は、憲法上認められていないのです。
そして、集団的自衛権は、第二次世界大戦後に生まれた概念ですが、以後、アメリカやソ連、イギリスなどの大国が他国に軍事介入をする口実として利用されてきた歴史があります(ベトナム戦争など)。侵略戦争の反省のもと生まれた憲法下においては、積極的に国外に出て行くという点においても、集団的自衛権の行為は認められないといえるでしょう。
安倍総理や国会議員らには、憲法を尊重し擁護する義務(憲法99条)がありますから、憲法上認められない集団的自衛権の行使を解釈改憲で進めていくことは許されません。

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二 集団的自衛権の行使容認が私たちの生命を脅かすこと

(1)集団的自衛権を行使できるようにしたい背景
安倍政権が、集団的自衛権を行使できるようにしたい背景には、アメリカとの同盟関係を強化したいという考えがあります。
今や中国がアメリカと肩を並べる大国になり、アメリカは日本ではなく、中国を東アジアで最も重要な国と位置づけるようになりました。これは、「日本は米国と緊密な関係を構築すれば日本の繁栄がある」と信じてきた日本にとって受け入れがたいもので、集団的自衛権の行使は、なんとかアメリカとの関係を強化しなければならないという考えが背景にあります。
また、尖閣諸島などの領土問題から、武力衝突が起きた場合に、米軍に味方として加わってもらいたいということも背景の一つでしょう。

(2)日本がアメリカの戦争に利用されること
しかし、集団的自衛権の行使をできるようにしたとしてもアメリカの中国重視の姿勢 が変わるとは思えません。実際に、中国と日本の武力衝突が起きた場合、アメリカが中国と軍事的に対決することはないといえます。
アメリカは、超大国としての自国の地位を十分な軍事力で永久化することを望む一方で、財政的に逼迫していることから軍事費等を抑える目的で、日本の軍事強化を望んでいます。日本が一方的に、アメリカの戦争に利用されるという可能性は大いにあります。
アメリカの戦争のため、日本人の生命が犠牲になってしまいかねません。また、アメリカと一緒に戦争をするということは、テロの標的になる可能性を高め、日本人の生命を危険にさらすものだといえます。

(3) 周辺諸国との緊張関係を高めること
そして、日本が、集団的自衛権の行使ができるようになれば、中国や韓国、北朝鮮との緊張関係が更に高まり、武力衝突の危険が高まります。この点でも、むしろ、国民の生命を危険にさらすものだといえます。
さらに、中国の防衛費支出は日本の10倍であるところ、防衛の質の近代化が図られた中国に、日本が軍事的に中国に勝つことはないといわれています。

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三 最後に
国としては、どうすれば国民一人の生命も犠牲にすることがないかという方向で、安全保障を考えるべきではないでしょうか。今の集団的自衛権の議論は、まずそうした努力を尽くした上での議論とはとてもいえません。
国際貢献のためにも集団的自衛権の行使を認めるべきだとする議論がありますが、日本が武力行使をしない国であることで、他国にはできない国際貢献ができます。
集団的自衛権の行使は、憲法上認められない上、むしろ国民の生命を危険にさらすものです。個別的自衛権が行使できるのであれば、集団的自衛権行使の必要はありません。皆さんで断固反対していきましょう。

四 最後の最後に
おすすめの本をご紹介したいと思います。
木村草太「テレビが伝えない憲法の話」PHP新書
若手憲法学者の著書で、憲法とは何のためにあるのか、憲法9条の話も、大変分かりやすく解説されています。

孫崎享「不愉快な現実~中国の大国化、米国の戦略転換」講談社現代新書
元外交官の著書で、日本を取り巻く情勢について解説し、日本がどのような戦略を持つべきが見解が示されています。

松竹伸幸「集団的自衛権の深層」平凡社新書
ジャーナリストの著書で、集団的自衛権がいかに濫用されやすいものか解説されています。



テレビが伝えない憲法の話 (PHP新書)

テレビが伝えない憲法の話 (PHP新書)

  • 作者: 木村 草太
  • 出版社/メーカー: PHP研究所
  • 発売日: 2014/04/16
  • メディア: 新書




不愉快な現実  中国の大国化、米国の戦略転換 (講談社現代新書)

不愉快な現実 中国の大国化、米国の戦略転換 (講談社現代新書)

  • 作者: 孫崎 享
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2012/03/16
  • メディア: 新書




集団的自衛権の深層 (平凡社新書)

集団的自衛権の深層 (平凡社新書)

  • 作者: 松竹 伸幸
  • 出版社/メーカー: 平凡社
  • 発売日: 2013/09/17
  • メディア: 新書



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編集後記 [2014年7月1日号(第116号)]

安倍政権の取り組む「集団的自衛権」の問題について、弁護士・法律家の立場から様々な問題点を指摘されています。解釈改憲にて突き進もうとするその政治手法が、民主主義と立憲主義をとるこの国の根幹において、如何に危険を孕む手法であるかが確認できます。
特に「九条一項で放棄されているのは、侵略戦争ですから」というご指摘にはハッとさせられました。集団的とか個別的という言葉の粉飾に惑わされ、問題の本質が見えなくなっていたことに気が付いた瞬間でした。改めて『集団的自衛権の行使』という言葉の本質に触れた思いがしました。
 
「粉飾」と言えば、やはり表面の事に惑わされて事の本質が見えていなかったことがありました。
人気漫画「美味しんぼ」において、社会問題とまでなったいわゆる『鼻血描写』です。最後は政府閣僚までもが批判をしていた事は記憶に新しいかと。丁度その頃でした、美味しんぼ「休載」の報道に触れたのは。
だからスピリッツ編集部に電話をしました。政府閣僚の批判に応えるかのようなタイミングでの休載は、「表現の自由」を自ら差し出すようなものであり、休載しないで欲しいという旨を伝えました。
しかし、その時たまたま出られた編集部の方の対応はとても普通で、とても自然な対応でした。つまり本当に、「当初の予定通り」休載しただけなんだろうな、というやり取りでした。
受話器を置いて考えました。私は向かうべき相手を間違えていたのではなかったかと。この問題は作者ではなく編集部でもなく、事の原因を作り、放置していたのは国(政府)と東電ではなかったかと。その事を誤魔化すために、粉飾するために、閣僚は批判を繰り返していたのではなかったかと。

福永弁護士の貴稿には、まず法律家として解釈改憲(憲法違反)を許さない、という職業的使命を感じます。それも現・日本国憲法の精神を誇りに思っている法律家の思いと生き様に、触れる思いがします。
問うべきはそこではないか、と自身に問うことであります。
編集部・橘孝昭
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