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宗門を憂う  大友見正 [2002年4月1日号(第67号)]

 今、国会が揺れに揺れている。派閥、族議員、利権、口利き料等々。予算委員会のTV中継は、かってない高視聴率だという。しかし、対岸の火事とばかり眺めていていいのだろうか。ふりかえれば我が教団は如何であろう。

 蓮如上人五百回遠忌にイノベーションという流行語がやたらと口にされたが、いつのまにかぱったりと消えてしまった。莫大な金は集められたが、何がどう変革したのか、末端の我々には全く理解できないままもうすでに次の宗祖七百五十回遠忌に向かって事が進められている。今度はどんなうたい文句ができるのだろうか。そこで一草の根僧侶の提案として「自信教人信」はどうだろう。現在の教団にとって最も相応しい言葉だと思うのだが。

 本宗を聞法教団というが、果してそうであろうか。お参りが多すぎて三日間の法座を五日間に、五日間の法座を七日間に増したという話しを残念ながら聞いたことがない。逆に減らした話しはよく耳にするのだが。

 教団興隆の土台は法座活動の推進にあることはいうまでもない。先ずその手始めに全寺院が一斉に御正忌報恩講をお勤めしてみたらどうだろう。勿論、参詣があろうとなかろうと八日間の法要を、それこそ報恩行として厳修する。きっと念仏の声が国中に響き渡ることだろう。年末だったかと思うが、本山の御正忌に参詣を促す通知があった。一体何を考えているのか。「お仏米料」の依頼と合わせて理解に苦しむ。末寺は御正忌法要を勤めるなとでもいうのか。或いは、本山の法要期間中を避けろとでもいうのか。いかにも中央集権的な発想としかいいようがない。因みに、昔から本山同様にひたすら八日間の法要を続けている身として、かって一度も本山の御正忌にお参りすることができなかった。恐らくこれからもないだろう。しかし、それは先代共々自身誇りにさえ思っている。末寺振興など口先では唱えながら、その実やることは逆行している。ビハーラ運動も尊いことだし、阿弥陀の森も素晴らしい事だと思う。ただ、それが法座活動を削ってまでもとなると頭をかしげたくなる。

 当宗は、聞法教団であると同時に御同朋、御同行の集まりでもある。元々差別を拒絶するところに、浄土真宗の浄土真宗たる所以があるといえる。なのに寺班、僧班が歴然として存在したり、僧侶がお互い「先生」呼ばわりするのはなんとも可笑しい。教師修礼の折、僧班についてたずねてみたら、本山出勤で混乱を防ぐ為の席次であり、決して位とか階級といった類のものではないとの答えであった。だとしたら前もって寺院名簿に記載する必要はなく、クジとかジャンケンで決めたらどうかと糺したが返事はなかった。僧班問題こそ真宗教義を否定し、真宗僧侶を骨抜きにする悪の根元だと思うのだが、撤廃できないのは何故なのか。例えばそれぞれの寺が、懇志の額に応じて参詣人の席を決めたとしたら一体どうなるだろう。なにごともそうだが、発展途上にあるときは常にきびしく反省をしながら前向きに実践を怠らない。しかし、一旦型が整うというと維持することにのみ汲々として、保身にまわってしまう。

 昭和五十四年六月の総参拝で、不公平な護持口数問題について質疑をしたが、今後善処するよう努力するということでその場は終わり、後年当組全寺院で申請書を提出したが、ひとたび決定したことは変更不可とそっけなかった。爾来、当教区に於いて何度が討議されたと聞くが、当事者を交えずいくら検討してみても前に進む筈がない。枝葉末節だけをいじくりまわしても解決できないことは誰れもが承知しているし、現状に満足している寺もかなりある訳だから。元々護持口数なるものは昔はなかったのだから、本気で改善しようと思うのなら、一度思いきって白紙にかえし、有識者の意見などを取り入れながら、全く新しい誰もが納得できる型にしたらどうかと思う。蓮如上人五百回遠忌までにはといっていたのがいつのまにか宗祖七百五十回遠忌までと変わり、このままでは次は蓮如上人五百五十回遠忌となるのは眼に見えている。行政に関係する人達は上の方にばかり眼をむけるのではなく、一般門信徒の方にこそ眼を向けるべきで、山の中に埋もれると麓が見えなくなる。

 水の流れは止まれば腐るというが、別冊宝島の「西本願寺スキャンダルの真相」は何たることか。真偽はともかく、火の気のない所に煙は立たずという。もし謂われなきことであれば反論なり告訴なり手を打つべきだろう。頭の上を風が通り過ぎるのを待つ感がある。少なくとも全末寺に真相を明らかにする責任はあると思うのだが。当然、宗会に於いて協議はされたことだろうが、政党を真似た派閥が存続する限り期待は持てない。少なくとも宗教者であるなら、派閥など即刻解散し、宗門発展の為一人々々が智慧を絞り、「自灯明 法灯明」を旨とし一丸となった時、末期症状的な現状を脱却することができるだろう。 〔飽田組・蓮光寺住職〕

西本願寺「スキャンダル」の真相!―日本最大仏教教団の

西本願寺「スキャンダル」の真相!―日本最大仏教教団の"経済犯罪"から"セクハラ暴力"まで

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  • 出版社/メーカー: 宝島社
  • 発売日: 2001/11
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流されないための努力  甲斐晃裕 [2002年4月1日号(第67号)]

 

 昨年の暮れのことです。電話で呼び出されて、とある会合に行きました。聞き覚えのある甲高い声が、会場の外まで響いていました。カナダ人のMです。熊本弁を無理やり混ぜるヘンな日本語で、アメリカのアフガン空爆を激しく非難していました。フランス系カナダ人のMは、大のアメリカ嫌いなのです。しかし、よく聴いてみると、彼の非難の対象はアメリカではなくて日本人のようなのです。

 「日本人には空爆停止を強く訴える権利と義務がある。その義務を果たさないのは、アメリカの強大な軍事力、経済力の前に、モノ言えずにただ祈るしかない人々に対する裏切り行為である」というようなことを言っていました。

 「権利と義務とはどうゆうことですか」ご婦人が落ち着いた声で、興奮気味のMに質問しました。この一言で発火寸前だったMはプッツンしてしまい、机を叩き、目を潤ませて「何でわからないの、目を覚ましてよ」と、太平洋戦争で日本が焦土になった様子をまるで見てきたかのように訴えるのでした。

 「あなた方の両親や、おじいちゃんおばあちゃんがやられたんですよ、体験した人もこの中にいるじゃないですか、兵士がやられたんじゃないんです、子どももお年よりも関係ない、無差別です。機銃掃射はおんな子どもを狙って、ゲームのように殺したのです。そして原爆、あれは実験です。日本だからやられたんですよ、アジアだから・・。当時の欧米人は東洋人を使用人くらいにしか思ってないんです。今でもそうゆう部分がある、あんな無残な事は日本とベトナムしかやられてないです。アフガンでも新型爆弾の実験をしてる。思い出してください、200年前のことじゃない、60年もたってない、経験した人たちが大勢残っているじゃないですか。日本は特別な体験をした唯一の国なのです。言う権利があるし、義務がある」

 Mは1959年生まれで、私より若い。彼に叱咤された気持ちになった私は、自坊の御正忌法要の最後に、政治的な話をしますと断って、そのままMの受け売りをしたのでした。かなり丁寧に話したつもりでしたが、反応はいま一歩、結局残った総代たちに再び話しをむけたのですが・・。「よく解るし、その通りだと思う、しかし私達にとって、60年はやはり長い、アメリカを憎む気持ちはもうない。アフガニスタンはどこにあるのかよく知らなかったし、遠い国というのが正直な気持ちだ」という感想でした。

 Mは日本酒が好きで、近所の居酒屋に出没します。後日、戦中派総代たちの反応を伝えると、「時間が憎しみを癒すことは理解できるし、怨みを捨てることは尊いと思う。しかし一方で、アフガニスタンは遠い国だから苦しみを共有することが難しい、それでいいのか。」と諭すように言うのでした。アフガニスタンで永年、医療活動をしている中村医師が「アフガニスタンは物理的な距離以上に、先進国世界から遠い。これ以上悪くなりようがないという生活環境が何年も続いているのに、光があたらない」と、言っていたのを思い出しました。*このあと、Mの奥さん(日本人)も交えて、イスラムの話になりました。貧、病、争の苦しみのなかでは、イスラム教が絶対に強い。苦しみを共有する仲間の連帯感、生きている間も、いのち終わっても、いつでもアッラーと伴にあるという安心感、アッラー神との距離の近さが宗教としての強さなのだろう。日常の礼拝はアッラーとの繋がりがより強固になるように、ラマダン月の断食などは、同信の仲間と苦しみを分かち合い、お互いの信仰を確認して喜びに転化する意味をもつといいます。

 イスラム教徒は信仰(アッラーとの結びつき)を保つための努力を厭いません、一人で出来難いことなら仲間と共にやります。年寄りも子どもも同じように努力します。それを怠ると自分が悪しき方向へ流されてしまうからです。

 カナダ人Mもアフガンが自分にとって遠い国にならないように努力しているそうです。毎朝の祈り、被災した子どもたちと米軍の爆撃機の写真、パキスタンから届いた義弟からのハガキ、それらをいつも目に付く処において思いを新たにするというのです。

 一段と階層社会化が進んでいるアメリカでは、社会的マイノリティのあいだで、イスラム教徒が増えています。ビンラーディンは間違ったようです。アメリカを憎むのではなく、自らアメリカ人となり、その資金力、組織力を使って、多数のアメリカンマイノリティをイスラム教徒に改宗することを目指すべきでした。

 少数の裕福なキリスト教徒・ユダヤ教徒を支える多数の清貧なイスラム教徒、という構図をアメリカの中に創ればよかったのです。アメリカは民主主義の国だから、その時、合衆国大統領はアッラー神に宣誓することになったでしょう。

 信仰のためには命さえも捧げるというイスラム原理主義の人々も、祖国を遠く離れ反戦アピールを続ける活動家も、大切なことからこころが離れないように、悪しきに流されないよう不断に努力しているという事実に、深く考えさせられたのでした。(託麻組・専念寺住職)

戦争の世紀を超えて―その場所で語られるべき戦争の記憶がある

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  • 作者: 森 達也, 姜 尚中
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2004/11
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時代が要望する教化センターの内容を問う 禿 浩道 [2002年4月1日号(第67号)]

 本年2月28日 布教団第一・第二支部 合同布教大会が熊本別院本堂で開催された。約200名の聴聞者は『七高僧を親鸞聖人に聞く』を終始なごやかに真摯に聞き入った。

 主催者からアンケートの報告があった。その中の注目したい一つの意見を紹介し教区内ご一同のご意見を広くこの「こだま」紙上で公論して頂きたいと存じます。

 アンケートへの応答
 若い先生方のすばらしいお話しを聞かせて頂きましたが、駐車場の案内、又駐車場がせまいので多くの人を誘いたいが誘えない。交通の便が悪い所は車で来るしかない。(門信徒)というご意見があった。

 このご意見は御法義を繁盛させる上に於いて大切なポイントをおさえたものでありましょう。駐車場の心配なく法友を心おきなく誘える体制が別院の必要最低条件ではないでしょうか。教区の法義繁盛発展をはかる中の一つとして、これを整える事も教区にとって大きな大切な課題ではないでしょうか。

 この課題を乗り越えるには時期と教区内の意気込みの熟するのを俟たねばなりますまい。時期としては宗祖750回会の大法要を待ち受ける体制作りを考える今日この頃です。今教区の取り組むべき課題の一つとしてこれを掲げ、考える資料を提供し教区構成員御一同の御意見を募りたいと存じます。

 昭和39年9月21日付け、熊本日日新聞に『本願寺別院は要らぬ』「50ヶ寺が脱退を決定」との見出しで大きく報道された問題に対し、翌年2月25日付け本願寺新報に『総局・離脱寺院へ最後の呼びかけ』という見出しで書かれた記事に小見出しで「別院設立はなぜ必要か 教化センターは時代の要望」と説得の記事が載せられていた。

 これらの離脱側の主張と総局側の主張の問題点が、44年経過した今、どう解決されているか点検してみる必要がありましょう。

 先ず「教化センターは時代の要望」という点に関して「本願寺会館」に建て替えられて来ている点は一応の評価は出来るであろう。しかしながら、前記アンケートの御意見のように手狭な駐車場では時代の要望を満たしてはいない。まして本願寺会館と別院本堂での催しが重なった時等は尚更その機能は麻痺状態となる。この現状を総局は認識して居るだろうか?

 今は別院として先日のような布教大会も開催されている。しかしその実情は総局が離脱した寺院に対し説得した機能をアンケートに示されように未だ果たせないでいる。44年が経過した今、未だこのような状態である。総局に於いては説得したとおりの機能がはたせるように別院の機能を整える義務がある。

 離脱寺院を切り捨てておいて説得した内容は未だ果していないのでは説得は言葉だけだったのかの非難をあびても仕方ないのではあるまいか。

 総局側が採った決着は、離脱寺院を生むという汚点を残してでも別院を設立したのである。そうであるからにはそのアフターケアとして、教区民、離脱寺院の納得するような『時代が要望する教化センター』の内容を宗祖への報謝行の見本として示してほしい。

 それに基づき教区民もあるべき教化センターへの思いをのべて750回会に向けての取り組みのありかたをさぐりたいものと思います。

 ともかく別院は本願寺直轄寺院。住職は御門主である。ご門主の認可をへて宗会の議もへて別院の機能充実を訴えて頂きたいという声がアンケートの言葉ではなかったかと受け止める事であります。(小国組・善正寺住職)

飛雲閣ものがたり

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  • 作者: 荒木 経惟
  • 出版社/メーカー: 本願寺出版社
  • 発売日: 2005/06
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「宗教の「倒錯」と「軽視」の世情に<真宗の今日と明日を問う>(こだま公開講演会要旨)  阿満利麿(明治学院大学教授) [2002年4月1日号(第67号)]

   精神主義
 清沢満之は他力の信心に基づいて生きていくのを精神主義と呼んだんですね。絶対無限者に支えられた完全な立脚地にたった精神は、どこまでも発達し、展開していく。従って精神が発達していく筋道がはっきりと見える。

 なぜ彼は信心主義と言わずに精神主義と呼んだのか。信心というのは阿弥陀仏の十八願に対して存在する。彼が精神と言ったのは、信心に基づいて人生の様々なことに処していく主体のことではないか。彼は精神主義を「世に処するの実行主義」と言っています。   清沢満之は精神主義には二つの作用があると述べています。一つは自分のなかには完全な立脚地があるので、外のものに引きずり回されることはない。もう一つ強調していることは、共協和合によって社会国家の福祉を発達せしめんと思うことである。

 別のところでは他力の行者は人生の正道を践行する。人生の正道とは世界の進歩と改良に努力するようになることである。清沢満之が強調しているのは、親孝行しようとか、他人にやさしくとか、個人的な徳目じゃなくて、社会のあり方に関わるようなことを指摘しているんですね。

   高木顕明
 高木顕明は清沢満之と同世代の人です。愛知県のお菓子屋さんに生まれ、お東のお坊さんになって和歌山県新宮にあるお寺に住職として派遣された。そこのご門徒はほとんど被差別部落の人で、悲惨きわまりない。こういう人たちからお布施はもらえないと、マッサージを学んで食べていく。

 彼は焼身供養したテック・ハン・ドクさんと同じで、彼らの苦しみをわが苦しみとしてしまう。そこから廃娼運動や部落解放運動を起こします。日露戦争のとき、仏教界や本願寺でも戦勝祈願をする。しかし彼は「親鸞聖人のお書きになったもののどこに戦争に勝つために経文を読むのがよろしいと書いてあるか」と拒否し、寄付にも応じなかった。そうしていくうちに社会主義者たちと交流するようになる。折しも千九百十年、大逆事件が起き、彼は連座して死刑判決を受ける。彼は逮捕されてもなぜ逮捕されたかわからない。彼は堂々と「自分の社会主義は阿弥陀仏を信じるところから生まれたもので、マルクスの社会主義とは違うんだ」と述べています。

 高木顕明の残した拙い文章には「自分の行動は阿弥陀仏の慈悲を受けるようになってからのものだ。阿弥陀仏の慈悲を体認した者は阿弥陀仏の慈悲を他に及ぼしたいという気持ちになるのはあたりまえのことだ」とあります。特に彼は向上進歩と協同生活が念仏者の目標だ。向上進歩とは戦争や差別のない社会を作りたい。協同生活とはわれわれの労働は労働することによって仏教の教えを実践できるような暮らしを実現することで、人が人に踏みつけられるものでなく、自分たちが仏法を心から喜べるような生活を実現したいということなんですね。

 高木顕明は仏教者は世俗の問題に目をそらしがちだけど、それでいいのかと問うている。

 エンゲージド・ブッディズムの批判としてよく出てくることですが、仏教はあくまで心のなかの問題で、歴史上の釈迦は心のなかの無明の克服を説いたのであって、社会変革を目指すのは仏教の役割ではない。しかし、大事なことはティク・ナット・ハンや高木顕明あるいは清沢満之が目指したことは、仏教は世俗道徳とは違う社会的実践を持っているということです。仏教は仏教特有の社会的実践を生み出すものだ。仏教の社会的実践は根本的には苦からの解放です。浄土真宗はしばしば仏教であることを忘れている。

 浄土真宗は確かに現実の人間が行うことには懐疑的な宗教です。凡夫がこの世をよくしようとしても、血で血を洗うことではないのかという深い懐疑心を大事にしている仏教ですが、あらゆる存在が苦から解放されることを願う宗教であることには変わりはない。

   願いの実践
 ティク・ナット・ハンはアフガン戦争反対のために断食しましたが、断食したからといって何の役にも立たない。

 しかし絶望することはないんです。政治運動においては目的のために殺人が肯定され、差別を助長するということがある。しかし仏教に基づく運動では殺人や差別は容認されない。

 本願念仏の社会的な実践はあくまで願いの実践である。願いに倦まないということが特徴である。

 本願念仏宗においては社会的実践は画一的なものではない。すべてが高木顕明のようなことをする必要はない。阿弥陀仏の慈悲と出遇うことでそれぞれ願いを持つ。その願いに忠実であればいい。本願寺が上から下に向かって門信徒はこういうことをするべきだとスローガンを掲げることは反本願念仏的あり方です。

  〈質疑応答〉
問.信心の社会性というのは新しい真俗二諦ではないのでしょうか。
答.社会性というとらまえ方が今の社会秩序を前提とするものなんですね。小泉批判や靖国反対というけれど、みんなが言える状態だから言えるんですよ。もしも言えなくなったら言いますか。そういう脆さを抱えた社会性なんですね。信心の社会性はそう言わないと現代に生きていけないから言っているんじゃないですか。お東の同朋会運動は親鸞に帰れと言ったが、お西の門信徒会運動は蓮如に帰ったのじゃないですか。

宗教は国家を超えられるか 近代日本の検証

宗教は国家を超えられるか 近代日本の検証

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編集後記 [2002年4月1日号(第67号)]

○地球温暖化の所為でしょうか。もう桜は満開を迎えました。

○わが宗門は、ご法義も財政も冬の時期を迎え、こちらはいつ春を迎え得るのか厳しい状況下です。

○この現状に、大友師は、宗門人皆が真の「自信教人信」の姿勢に立ち返ることを提言され、禿師は、熊本別院がご法義発進の場として、現代の教化センターとしての機能充実を訴えられました。

○やがて迎える宗祖の法要を機縁に、私たちは何をなすべきか、その思いや願いをお寄せ下さい。

○甲斐師は、「テロ撲滅のための聖戦」説や「宗教戦争(宗教は怖い)」というわが国の単純な話の次元ではなく、もっと複雑な今日の戦争の構図を示して下さいました。

○昨秋の阿満先生の「こだま公開講座」を聴講された方々より、あのお話しを是非活字にして欲しいとの声があり、先生のご了解を得て、現在出版の準備中です。本になりましたら、当日ご縁のなかった方々にも、活字を通してご縁を結んでいただきたいと願っております。

○「こだま」の編集と印刷・発送の準備と作業のスタッフをお願いいたします。お出来ますお方はお電話にてお知らせ下さい。


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