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戦時教学について(三) 宇土北組 光国寺住職 源 重浩 [2015年10月1日(第121号)]

十五年戦争では幾つか重要な分岐点があり、その都度強硬派が穏健派を押し切るかたちで、戦争の方向へ、破滅の方向へ進んで行きました。

第一の分岐点は、(昭和6年9月)満州事変勃発時です。日本の陸軍(陸軍中央)も日本政府(若槻内閣)も押さえにかかっているにもかかわらず、関東軍の参謀板垣征四郎、石原莞爾は強引に事変を引き起こしてしまった。

第二の分岐点は、(昭和8年3月)国際連盟脱退。全権大使松岡洋右はジュネーブ会議の始まる前、英国の外相サイモンから根回しの相談を受けたことが分かっています。英外相の提案は「満州の宗主国は中国に管理運営は日本に」というものでした。英国は香港のイメージで日本は満州を管理したらよいと考えていたと思われます。松岡はこれはいい案だと本国に打電しますが、外相内田康哉の対応は本土を焦土と化しても満州を日本の領土とする、というもので、松岡の再度の説得にも耳をかしませんでした。英国の案を受け入れていたら、日本は国際連盟を脱退し世界の中で孤立することもなかったでしょう。

第三の分岐点は、(昭和13年)盧溝橋事件。この時、満州事変を強行した石原莞爾でさえ中国中央部への更なる兵力の展開に反対しています。第四の分岐点は(昭和16年12月)日米開戦時です。

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以上四分岐点の中で、第二の国際連盟脱退という日本の選択は、その後の悲惨な敗北に至る道筋を作ってしまったという点で、十五年戦争全体を俯瞰する時、重要な分岐点であったと考えられる。この時期の日本の政治状況について、緒方貞子は次のように云います。

「ここで注目すべきことは、連盟脱退は、支持者と反対者との間ではげしく討論された結果採択されたような政策決定ではなかったことである。首相をはじめとする政府責任者、後に連盟脱退の立役者となった松岡洋右をはじめ、連盟の日本代表部、西園寺を中心とする宮中関係者中、日本を連盟から脱退させようと望みかつ画策したものは一人もいなかった。それにもかかわらず日本が連盟を脱退するようになったのは、彼らの日和見主義あるいは不決断、あるいは消極性が強硬論者に道を譲る結果となったからである。」

このように緒方貞子は、強硬派に連盟脱退の路線で押し切らせてしまった「首相をはじめとする政府責任者、後に連盟脱退の立役者となった松岡洋右をはじめ、連盟の日本代表部、西園寺を中心とする宮中関係者」などの穏健派に対しても批判の眼を向けている。批判すべき時に批判しておかないと時局はますます悪化して、取り返しのつかないことになるというのが、歴史から学ぶ教訓であると考えられます。

戦時教学の反省として、私たち仏教徒(真宗者)は、政府や軍国主義者たちのデマや情報操作に振り回されずに真実(事実)を知る努力と、発言(批判)すべき時にはしっかりと対応することが大事である、と考えられます。
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