編集後記 [2006年10月1日号(第85号)]
◎安倍新総理は、五年を目処に憲法改正、教育基本法改正は最優先課題だ、と言っています。
◎真宗関係者でも教育基本法を改正し、公立学校で宗教教育をすべきだという考えを持った人は多いようです。しかし、改正の音頭を取っているのは神道政治連盟であり、伝統・文化という名目のもと、記紀神話にもとづく神道教育を目指しているのは間違いないことです。
◎真宗の伝道は、他者に頼らず、真宗にご縁をいただいた者が、「全員聞法・全員伝道」の道を一途に進む、これが基本であります。
◎シリーズ「『自信教人信』の願いに燃えて」には、熊本市春日在住の緒方教意師に執筆いただきました。
◎別院職員の方より、師は毎朝3㎞の道のりを自転車を走らせて、別院のお晨朝に参詣されると聞きました。念仏者としての報恩行実践の行者であります。
◎師のご専門故、カットもお願いしましたが、早速お孫さんをスケッチしデザインされたものを頂きました。
◎お彼岸の時期を告げてくれる彼岸花も、まさにひと時の花の時季が過ぎて、もう木犀の香り漂う秋の旬を迎えました。〈崇信〉
憲法改正の問題点<20条・89条について>(上) 藤岡崇信 [2006年10月1日号(第85号)]
1945(昭和20)年8月の敗戦を境に、わが国の旧制度の抜本的改革が行われたが、その中の一つが国家神道の解体であります。
その改革は同年12月15日、連合国軍総司令部(GHQ)が、わが国及びアジア諸国の人々を、永年にわたり暗く押し包み、悲惨な状況を生んできた元凶・《国家神道》の解体を命じた、いわゆる「神道指令」(国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保障、支援、保全、監督並ビニ弘布ノ廃止ニ関スル件)を出したことに始まりますが、その趣旨について、概ね次のように示されています。
①国家指定の宗教(国家神道)の強制から日本国民を解放するため
②神道の教理、信仰を歪曲して日本国民を欺き、侵略戦争へ誘導した宗教教育の防止
③永久の平和及び民主主義に基礎を置く、新日本建設の実現に対し、日本国民を援助するためと。
そしてその目的実現のために、「神道及び神社に対する公の財源よりのあらゆる財政的援助及び公的要素の導入を禁止し、即刻の停止を命ずる」と政教分離の大原則を命じたのです。
①宗教と国家の完全な分離 ②宗教を政治的目的に誤用することの防止 ③全ての宗教を同じ法的根拠の上に立たしめる等々を指示したこの「神道指令」は、GHQが、わが国の暗黒の時代の状況を冷静な眼で分析し、その原因を摘出し改善を命じたものであります。また同時に、強力な国家神道体制の下、思考停止状況に追い込まれるか、反対の意思表示が出来なかった日本国民の悲痛な思いを、GHQが代弁していると読み取ることができます。
この指令によって、わが国民は真の宗教・思想・信条の自由獲得の礎を築き、また、「日本の天皇、国民はその家系、血統、或いは特殊なる起源の故に、他国の元首、他国民に優るとする主義を剥奪する」という指令の条文は、国家神道の教育を受けて、他国民を蔑視し、従属せしめてきたわが国民の過ちの原因を明示して、その悪しきマインドコントロールから解き放つ警策の役目をするものでありました。そしてわが国が多大の迷惑をかけた国々に対し、心からの反省と謝罪の思いを表明して、国際社会の一員としての第一歩を促すものでもありました。
このように国家神道の暴走を自らの手で止めることが出来ず破局を迎えたわが国に対し、GHQにより出された「神道指令」の精神は、更に新憲法における二十条、及び八十九条の信教の自由と政教分離の厳格な規定として盛り込まれたのです。
このような経緯を経て制定された現憲法の理念を今日、国民は自覚し、尊重しているかといえばそうと言えない現状があります。
つい先日も革新系のA県議より届けられた議会報告書の中の一コーナーに「A氏は、地元のカラオケ大会に出場し『九段の母』を歌った。“神と祀られ勿体なさに、母は泣けます嬉しさに・・”」という一文がありました。
他人の言動に制限を加えるつもりはありませんが、その人の確固たる宗教・思想・信条の上から日常生活の中では「歌えない歌」「使えない切手」「出来ない行為」等々があるのではないでしょうか。
61年前、私たちは永い国家神道の呪縛からやっと解放されたにもかかわらず、そのことを自覚しない無関心の人が何と多いことか・・、神道非宗教の思想、靖国神社、天皇制等々、戦前の国家神道の中核部分が今日も連続している、そこに何の違和感を持たない頭脳には驚かされます。
この間隙をぬって、今憲法改正に向けた動きが着実に進められていますが、その改正草案によると、二十条三項を「国及び公共団体は、社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超える宗教教育その他の宗教的活動であって、宗教的意義を有し、特定の宗教に対する援助、助長若しくは促進又は圧迫若しくは干渉となるようなものを行ってはならない。」という条文に改正し、これに連動して、八十九条も「公金その他の公の財産は、第二十条三項の規定による制限を超えて、宗教的活動を行う組織又は団体の使用、便益若しくは維持のため、支出し、又はその利用に供してはならない。」と改正するとしています。
かっての帝国憲法においても信教の自由は保障されていましたが、神道は「非宗教」(一般宗教とは異なるもの)、「超宗教」(宗教を越えるもの)、または「国民道徳」という詭弁を弄して、伊勢神宮、靖国神社をはじめ神社信仰と参拝は国民の義務として強制してきたのです。
最初に記した通り、その反省に立って生まれた憲法二十条を草案通りに改正するなら、国が「社会的儀礼」「習俗的行為」であると判断すれば、宗教ではないとして国民に強要し、八十九条は、国が宗教ではないと判断すればそこに公費の支出が可能となるのです。
「一億総火の玉」「国民精神総動員」体制を生んだ国家神道、宗教的装いをもって戦争を正当化し、戦死者を英霊と讃え、天皇の参拝により、遺族の悲しみの感情を「誉れ」、「慶び」に転化させる装置・靖国神社・・・それもこれも国家神道教育の所産でした。
その時代への逆行、それを可能にする憲法二十条、八十九条改正、その背後にはこのような大きな問題が潜んでいるのです。(託麻組・真行寺住職)
「『自信教人信』の願いに燃えて」4 浄土真宗に出遇えて 緒方教意 [2006年10月1日号(第85号)]
私は中央仏教学院の通信教育部で学習課程(3年)と専修課程(3年)を学ばせて頂きました。そのテキストの初めに「宗教は人間生活の危機的情況に根ざす」とありましたが、今顧みますと、まさに平成二年、父を亡くした時が、私にとってその時だったのかと思われます。
通夜、そして葬儀、仏事と一連の流れの中で、仏教・浄土真宗のことにあまりに疎かった私は悩み、困惑することばかりでした。
例えば、納棺の時の六文銭のことや、法名の字数の多少にうるさく注文する伯父の意向に同意する等々、それは真宗門徒とは名のみの有様でありました。しかし、それもこれも偏に五十代まで仏法に背を向けていた私のお恥ずかしい実情であります。
父が亡くなって数年間は、仏教書を買って読んだこともありました。しかし、今ひとつ胸のつかえが残ります。
その頃の私は仕事と二人の子供が学業の最中でもあり、お寺参りは母にまかせっきりでした。今思えばこれが大変な間違いだったのです。 折角父からの仏縁を頂きながらも、それを見過ごしていました。
しかしその頃、母の病が重くなり、そのため私がお寺参りをさせて頂くことになって、この母の病気がまた私を浄土真宗へと後押ししてくれたのです。
その頃、ふと目にしたのがお寺から頂いた本願寺新報紙の、通信教育生徒募集の記事でした。
早速、学習課程で浄土真宗を体系的に学びたいと始めました。入学式も本山まで行きました。
その時の総長は松村了昌先生でしたが、ご挨拶の中で「あなた達は、自分がいかにバカであるかを勉強するのです」と言われた時のショックも懐かしい思い出です。
六年間の学習期間は、まるで少年のごとく新しい知識と未知の世界に胸踊りました。五十歳を過ぎての記憶力や、試験、声明の練習には苦労もしましたが、すべて楽しい思い出となっています。
学院の先生方はとても熱心で、学習課程がすめば、引き続き専修課程へとのお勧めがあります。
しかし、一つの難関があります。それは専修課程を終えれば得度考査と教師試験が免除になります。
そこで最初にご住職の同意の印が必要です。これがないと先に進めません。私の同行でこの同意が頂けず得度を断念せざるを得なかった方がかなりありました。理由は様々ですが本当に悲しくお気の毒でした。
私の場合は、ご住職のお計りで教師まで頂けました。
扨、その後が大変です。僧侶に成らせていただき、袈裟の重みと使命の重大さに身の引き締まる思いで自信を深めて、聞法に励むべしと、聖教に学び、お聴聞をし、伝道布教へと胸は膨らみました。
しかし、現実は、知人や友人、親戚までも、寺族でもないのにその年で何故僧侶に、と・・・、これには正直参りました。最初はなかなか理解してもらえませんでしたが、私自身は一度限りの人生で浄土真宗に出遇い、そして真宗僧侶になって本当によかったと慶んでおります。
私は、いま真宗のご縁をいただいた以上、「全員聞法、全員伝道」の道を一歩でも前にと思っていますが、先輩の僧侶から、そう簡単なことではないよと、私の歩みの確かさの再確認を促されているところです。
思えば、この私が煩悩具足・罪悪深重の身であるという信知も、常々お聞かせ頂き、お育て頂いたお蔭であります。
重ねて、親鸞聖人の「誠に知んぬ、悲しきかな愚禿鸞・・・」のお言葉と、「慶ばしいかな、心を弘誓の仏地に樹て・・・」とのお言葉は、私への聖人直直のお言葉と頂いております。
慚愧・悲嘆のうちにも、阿弥陀如来さまの深いお慈悲を賜り、お念仏申しつつ、一日一日を力強く、そして心豊かに生かされてゆく念仏者でありたいと思います。〔熊本組・専崇寺衆徒〕
親鸞の教行信証を読み解く〈5〉化身土巻(後)似て非なる「仏教」―許すべからざる詐称
- 作者: 藤場 俊基
- 出版社/メーカー: 明石書店
- 発売日: 2001/03
- メディア: 単行本