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菊池恵楓園を訪ねて  村田幸子 [2002年7月1日号(第68号)]

 幾度か恵楓園訪問の機会はあったが果たせず、やっと参加することができた。私の中の「らい予防法」とは、ハンセン病が蔓延しない様に強制隔離で集中治療を行い、完全治癒した人を社会復帰させるための国の政策だと思っていた。関連ニュースを耳目にする様になって初めて自分の無知と、「あつい壁」の上映会すら他人事として心の片隅にも留めなかったことの傲慢さに気付いた。

 講師(自治会役員)の方々が、それぞれ入所時のことを淡々とお話し下さったが、入所時〈本名か、園名(偽名)か〉を選択しなければならない事実。〈死後の献体同意書〉を幼い子どもにも強制した事実。恵楓園の門をくぐったとき、今まで生きた世界を捨て、隔離世界で終身生きねばならない事を宣告されたと気付いたこと等々、胸が痛み、涙なくして聞けない話しばかりであった。

 講師の方々も殆んど病気の後遺症が判らない方もいらっしゃったけれど、お顔に引きつったケロイド状の傷跡があったり、手の指先がなくなっていらっしゃったり等、人の目に触れる箇所が病魔に冒されることが多いのでないのだろうか、ある面では惨いことなのだ。「私たちは、見かけは良くないかもしれないが、みんな身も心も美しいのです。」と話された言葉が印象に残る。

 恵楓園に入所しているというだけで、タクシーの乗車を断られたり、郵便物を出すと「恵楓園のは消毒せんばいかん。」と言われたり、お金も「贋金」(園内だけで通用する金券)を持たされたり等の話に、その差別の大きさを初めて知った。元患者の方々は大きな差別と偏見に耐えて耐えて永い年月を生きて来られたことを思うとき、私たちは何をしてきたのか、何をなすべきだったのか等考え込んでしまう。

 納骨堂には小さな骨壷が並んでいたが、家族に引き取られることなく安置されているのであろうか、この方々は差別と偏見を受けたまま苦難の生涯を終えられ、国が、「強制隔離は間違いであった」と、法を廃止し謝罪したけれど、この方々は生きてその喜びを肌で受けることは出来なかったのである。謝罪の証というのであろう、坂口厚生労働大臣の記念植樹の桜が、納骨堂と道路を隔てたすぐそこにあった。

 お話にあった園の周囲に掘られた深い堀は見ることが出来なかったけれど、高いコンクリートの壁は残されていた。『山椒大夫』に出てくる高い塀、家族恋しさにその塀を越えようとし酷いお仕置きを受ける場面に戦慄したことがあったが、恵楓園の塀の前に立ち、その小説の場面と重なり身体の中を冷たいものが走った。強風のためねじれた桧の大木の近くには園専用の火葬場跡があり全体的に寒々と感じた。後方で「この空き地に石蕗を植えたらよかですね」という声、「藤岡先生の所には沢山石蕗がありますよ」との相槌。春になれば新芽をにしめに、秋には華やかな黄色の花が、広い葉は年中艶やか、一年中こころを和ませてくれる石蕗、それも藤岡先生の庭から移植されるとしたらなんと温かい話ではないか。

 礼拝堂に入り、一同勤行を行い手を合わせてほっとした。朝な夕な園の皆様は信ずるそれぞれの神仏の前で安心を得ておられるのだろう。講師の方々のあの穏やかなお人柄に接し、社会から隔離された状況の中で、あの教養と知性を育まれたことに感服したが、礼拝堂があるので、きっとそれぞれのご法話をお聞きになっておられるのだと思った。

 解散の後、私たちは園内のSさんの奥さん宅を訪ねた。Sさんは私たちと同郷で、昨年が十七回忌だったとのこと。突然だったが穏やかなお優しい笑顔で迎えてくださった。私たちはご仏前に合掌し夫々の思いを廻らした。私は青年団時代のソフトボール試合の一コマをよく聞いていた。Sさんがライトで主人がセンターを守っており、打球が二人の真ん中に飛んできたので、二人はぶっつかりながら捕球するがボールはすっぽりSさんのグローブに収まったとのこと。私は〈Sさん、あなたはその時、とっさにボールを持った手を高々と差し上げ「チロリットチーッチ」と叫ばれたそうですね、その後この言葉が青年団で流行語となり、ファインプレーではこの言葉を発したそうです。ほんのいっときでしたが、あなたを囲んでの楽しい時期もあったんですよね.〉と心の中で呟き、仏前で手を合わせた。「チロリットチーッチ」とは、これしきのことオチャノコサイサイという意味のようである。今ここに奥さんと接してみて、お優しい伴侶とめぐり逢われ、厳しい中にもお幸せであったのだと感じ取らせていただいた。

 最後に「監禁室」を見学したが、なんと酷いことか、冬は凍てつく寒さ、夏は焼け付く暑さの中、病体を横たえておられた情景を想像するだけで身の毛がよだつ。世間一般では常識的な行為でも罰せられたとのこと、板壁には無念の落書きがあったそうである。

 国は謝罪し補償を行ったが、取り返しのつかない苦難の永い年月をどう補償するのであろうか。また、無関心であった我々は今後どう対処すべきなのか、私にとっての「ハンセン病」は今始まったばかりなのだ。(八代組西福寺門徒)

父からの手紙―再び「癩者」の息子として

父からの手紙―再び「癩者」の息子として

  • 作者: 林 力
  • 出版社/メーカー: 草風館
  • 発売日: 1997/08
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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ご支援頂いた皆様へ  佐賀県『自治会神社費徴収拒否訴訟』 原告A [2002年7月1日号(第68号)]


 今年も春がめぐってきました。2002年4月20日午後2時、花吹雪の中で「神社費を自治会費で強制徴収するのは違法」「信教の自由を侵す」という判決を頂きました。足腰も痛み、80の坂が目前ですが、日本で初めて「信教の自由」について憲法判断が下されました。私は親鸞さまの「神祇不拝」を貫き得たことを嬉しく思っています。

 私が提訴した原因は、1992年4月、私の住む儀徳町自治会総会でY区長が「天満神社の建物のみを自治会の財産に取り戻し、伝統を守るために地域法人にする」と提案されました。

 日頃から国家神道の教育のもと学徒動員として侵略戦争に駆り出された私は神道護持の意志はなく、またこの提案に疑問を持った私は、福岡の倉岡雄一弁護士に尋ねに行きました。倉岡弁護士は「氏子以外は神社について権利がありません。信教の自由の問題がからみますから事は複雑です」と申されました。早速私はその旨を区長に知らせようと訪問しましたが不在で、奥さんに弁護士さんの申した通りを伝えたら、いきなり「神様に反対するなら此の町を出てゆけ、神様の居ない町に出て行け!」と啖呵を切られました。私はムッとしましたが、無言のまま帰宅しました。その後、かって私の教え子であった警察関係の方にこの天満神社の件を尋ねましたが、弁護士の説明と同趣旨の返答でした。

 1993年4月の自治会総会で「私は事情があって天満神社の件には参加しないが、今まで通り自治会員として認めてほしい」と申し出たところ、区長は「慣習だから〈信教の自由は〉認めない」と言われ、それ以来私は儀徳町区から「除名」され村八分にされました。一方的に非区民扱いが進行し、私は区長に「神社維持運営費を除いて区費を納入させて下さい」と申し出たが、拒否されました。

 そのため1994年10月佐賀地方法務局人権擁護課に救済を申し出ました。しかし何ら解決することなく、1996年9月から3度、佐賀県弁護士会人権擁護に人権救済を申し出ました。

 やっと1991年1月28日付で佐賀県弁護士会会長の「人権救済の勧告」が出ました。翌日新聞やNHKテレビに報道されましたが、当区長は「これは明治時代からの慣習だ。今後も続けていく」と信教の自由を認めないコメントをしていました。この新聞記事を目にした藤岡崇信氏は何なりと力になりたいと私に会いに来て下さいました。そして直ちに郡島氏、久保山氏らに連絡を取り、藤岡直登氏らと支援に動いて下さいまして、「信教の自由を考える会」が結成されました。私はその後も、東島浩幸弁護士とともに勧告に沿う協議を区長に申し入れました。しかし「A氏は儀徳町の区民ではない」という回答がありました。

 ついに1999年12月24日訴状を佐賀地方裁判所に提出し、翌年2月4日午后1時20分より、第一回目の裁判が行われまりました。その夜「裁判をやめろ」としつこい電話があったのを皮切りに、無言電話のいやがらせが続きました。

 そのような周囲からの強圧の中、私は佐賀駅を歩きながら全身の力がスーッと抜け、身体がくずれおれて横たわるという事態もありました。

 しかし、それらに屈することなく基本的人権の中で最も重要な「信教の自由」について救済を求め続け、今年2002年4月12日、やっと「信教の自由」の正しい判決が出て、4月27日確定したのです。

 日本では、これまで神道は伝統的民族宗教みたいに申されてきましたが、よく調べてみますと、弥生時代以降に朝鮮半島を通して流入伝来したシャーマニズムといえるようです。仏教公伝後、約四十年ごろ『日本書紀』用明天皇の巻に初めて「神道」の文字が見えるようです。明治以降天皇制の強化のなかで国家神道になり、軍国主義のバックボーンになりました。

 これからは日本では、正しく「信教の自由」を守り、維持し、運営されなくてはなりません。戦後50数年たって、やっとここまでたどりつきました。浄土真宗の私を含め、神道以外の異教徒の方々は、精神的重圧として踏み絵のような心の苦しみを毎月味わってきましたが、やっと一息つくことができました。共に喜んで下さいませ。 

 ご支援いただいた方々に心から厚くお礼を申し上げます。


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編集後記 [2002年7月1日号(第68号)]

◎遅咲きの桜の花に迎えられ恵楓園を訪ねました。いつも訪問しておられる西福寺山本隆英住職のお蔭で、会場も準備し待っていて下さいました。
○参加出来なかった方のために「訪問記」を村田さんにご執筆いただきました。

◎佐賀「神社管理費訴訟」の判決内容についてはご存知と思いますが、原告ご本人の思いを書いていただきたく依頼いたしました。早速膨大な紙数の玉稿を送付いただきましたが、紙面の都合で全文の掲載が出来ません。これは支援のお礼と裁判の経過の一部を抜粋した文章です。ご本人の思いを十分表現出来なかった点、文章の脈絡に不都合のある点等、全て編集者の責任です。
○右翼等からの嫌がらせが懸念されますので、今回も本名は伏せました。

◎いま国会では「有事法制」法案が論議されています。この戦争を仮定した法案は、佛の教えを機軸に生きる人と社会を目指す私たち真宗者の願いとは対極的立場にあると思います。
○去る土曜日の午後、私は熊本市の辛島公園で立法化反対の座り込みに参加し、マイクを持ちましたが、立ち止まり聞いてくれる人もなく、一体どちらを向いて訴えたらいいのか、と戸惑ったことでした。
○この国は今サッカー一色に塗りつぶされているようです。(崇信)


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