SSブログ
2016年7月1日(第124号) ブログトップ

あべ広美講演会講義録 憲法「改正」と信教の自由 [2016年7月1日(第124号)]

5月26日、くまもと森都心プラザにて、「あべ広美さんと語ろう!宗教者のつどい」が、非戦・平和を願う宗教者の会(遠山慈水代表)主催で開催されました。 あべ広美さんは、今夏の参議院選挙に向けて、全国初の野党・市民統一候補として名告りをあげられた方で、熊本から予定されている候補者の中でただ一人、安全保障法制に反対の意志を明確にしておられる方です。その講演内容の要約を事務局の文責で以下にご報告申しあげます。( 非戦・平和を願う宗教者の会・熊本 事務局)

CjYbfzJUkAEYINA.jpg

法律家(弁護士)らしく、憲法の話をさせていただきます。実は憲法について、私は司法試験の勉強を始めるまでは本当に知りませんでした。九条はさすがに知っていました。中学、高校の平和学習で、日本は憲法九条で戦争しないんだと習ったときに、戦争にならないんだ、安心して生きていけるんだって、子どもながらに思っていました。

しかし本当に憲法ってすごいなって思ったのは、司法試験の勉強を始めてからです。それ以前に九州大学法学部で一応の勉強はしていたんですけど、大学で勉強した法律って何だったんだろうって思いました。

憲法って、法律とはぜんぜん違うんですね。法律は国家権力が国民の権利を制約するためのもので、だけど憲法は、逆に国民の権利を守るために国家権力に縛りをかけるものなんですね。

その憲法で一番大切な条文って第十三条(すべて国民は、個人として尊重される。・・・)です。第十三条が憲法の核。一番重要なんです。

そして憲法には、立憲主義、民主主義、三権分立など色んなことが定められているんですが、その中でも一番大切なことって、やっぱり自由主義なんですね。自由主義って何かといえば、人権を尊重するっていうことなんです。国民が人権を守られて自由に生きていくということが憲法制定の最大の目標で、立憲主義も民主主義も三権分立も、自由主義の手段なんですね。それが全体としての日本国憲法になっている。

ところで個人の尊厳(第十三条)が一番大事ですよって言うと、わがままを許すのかとか、そういう言われ方をしてしまうんですね。憲法って、わがままを許すものではないんです。一人ひとり個人として尊重されるっていうのは、自分だけじゃないんですよね。必ず相手がいる。隣の人、周りの人、みんなが個人として尊重される。そこには、何やったっていいというわがままは絶対に通用しません。

それと、ちょっと前までは、全体主義って怖いねっていうような風潮があった気がするんですけど、最近は、みんなわがまま言うたっていかんもん、というような、なんか個人主義の方がむしろ悪いんじゃないかっていうような、そういう流れになっているような気がしてならないんですね。社会が全体主義化してるなっていうことを感じます。本当に怖いなって思います。

じゃあ私たちって、どうやったらそれを引き戻せるんだろうかって思うときに、人の意見を聞くっていうことが大事だなって思うんです。100%間違いとか、100%正しいということはないって思うんですね。謙虚であることって何より素敵だなって思っていて、それは自分が絶対正しいとは思わないというところから始まっていくのかなって思うんですね。信じた道を貫くっていう姿勢は絶対的に必要だと思ってますし、どこに軸足を置くのか、これはぶれてはいけない。しかし自分の信じた道を貫くために、どういう方法で実現していくかっていうところでは色々と悩むんですね。悩みがない人って怖いなって思います。だって、人の意見を聞かないんですもの。迷うことによって、より良い方法を選ぶということが政治には大事なのかなっていう気がしています。

そういう意味で、価値観の多様性を認めるということが、個人の一番の尊重だと思うんです。例えば信教の自由の問題として考えてみると、私たちは亡くなった方に対して畏敬の念をもって手を合わせる、それは人として当たり前の心だって思うじゃないですか。でも、よくよく考えてみると、死者に対する思いの表し方って、それ以外の形もあり得るって思うんですね。死者の弔い方も、必ずしも万国共通、人類普遍のものではない。信教の自由というのは、そういう意味では、そういう根本的なところから人は基本的に自由なんだということなんです。

01.jpg

このように考えると、信教の自由において、一番重要なのは政教分離です。過去の歴史から、政治と特定の宗教が結びつくことによって、他の宗教を弾圧し、迫害してきた歴史があります。そういう人間としての根本的な自由を脅かすことになるから、政教分離が重要なのです。

ところが自民党の改憲草案では、儀礼的な行為などへの国の関与は例外として認めますと明文化しています。これは、最高裁の判例に儀礼的な行為はいいというのがあるので、それを文章化しただけと言われる。本当にそうなんでしょうか。本来、宗教への政治(国)の関与は憲法上は禁止。その例外中の例外として、最高裁が儀礼的な行為への関与を一部、認めた。そこで、儀礼的な行為を明文で認めてしまうという。しかしこれを認めると、いま最高裁が認めている範囲を必ず超えてくるんですよ。だからこそ妥協すべきではない。信教の自由というのは、人がどう生きていくかという人間の根源に関わる自由だからこそ、絶対に自由でなければならない。国家権力による干渉があってはならないんですね。だから、明文で例外を認めていくということを許してはならないんです。

IMG_12938.JPG

そして憲法の話で、どうしても私がしておきたいのが、自民党の改憲草案の中にある緊急事態条項です。今回の熊本地震で、緊急事態条項が必要だというようなことを言われていた候補者がいらっしゃいました。私は被災地の方々の声を聞いて、憲法改正なんて思いもしませんでした。それよりも、生活支援制度の枠をもう少し広げられないのか、半壊でも支援金出せないのか、仮設住宅に入れないのか、仮設住宅に一旦入って修理ができないのか。そんなことをずうっと考えていました。

緊急事態条項って、権力を内閣に集約するってことなんです。そしたら地元の知事や市長、町長、村長には権限がほとんど無くなってしまう。全部、中央が決めたことが実施される。本当にそれでいいのでしょうか。やっぱりこういうときは、地元の市長、町長、村長が住民に責任を持って、何が足りないか、何が必要か、ということを、ちゃんとやっていく。そしてそれをきちんと中央に言えるようにしていくことが必要なのではないでしょうか。

緊急事態条項が通ったら、具体的にどうなるのか。先ず、自然災害なども含む有事の時に、緊急事態宣言っていうのを出すんですね。それを出すと、内閣は法律と同じ効力を持つ政令を出すことができるようになる。内閣が立法権を持つことになるんですね。そして内閣総理大臣は、自治体の長に必要な指示を出し、自治体の長はその指示に従わなければなりません。緊急事態宣言を出すには、一応、国会の承認が必要ですが、これは事後でもできます。また100日ごとに国会が承認しなければ緊急事態宣言を維持することはできないことになっていますが、しかしこの手続は、任期の特例が設けられている衆議院の優越が認められています。つまり、とんでもない独裁のスイッチなのです。一度押されると、私たち一般の国民は止める術がない。人権は抑圧され、表現の自由も制限される。私たちの反対集会も弾圧される。選挙もできません。

ヒトラー時代の全権委任法と同じ道を、いま、この日本は辿っていこうとしています。今こそ私たちが声をあげなければ、この怖い改憲の動きを止めることはできません。その意味で、今夏の参院選は非常に重要な意味を持った選挙であり、負けられない選挙なんです。
nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学問

編集後記 [2016年7月1日(第124号)]

先日(六月二十四日)の宗派公聴会での藤岡議員の質問に対する総局の
答弁を聞くにつけても、我が宗派の憲法をめぐる状況に対する危機意識の希薄さには唖然とするばかりである。あべ広美さんの講演は私たちに、現政権による「改憲」の策動がいかに危険であり、また切迫した問題であるかということをあらためて示してくれている。

カワバタ マイさんの文中にある「ロスジェネ世代」とは「ロストジェネレーション」=「失われた世代」、いわゆるバブル崩壊のあとの就職氷河期に社会人となった世代のことである。概ね三十代半ばから四十代半ばのこの世代が「心ならずも」実社会の中心を担いつつある。まさにその世代の筆者は、この震災という過酷な現実に直面して迷いながらも、母として、表現者として希望を見出していこうとしている。尚、今回掲載したのはウェブマガジン上に発表されたものの抄出である。全文をお読みになりたいかたは以下のサイトにアクセスして下さい。

http://blogos.com/article/177468

〈古井〉
nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学問
2016年7月1日(第124号) ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。