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2012年7月1日(第108号) ブログトップ

映画「311」とその講演会で・・・  益西組・正善寺住職  川田 晃映 [2012年7月1日(第108号)]

 私は「非戦・平和を願う真宗者の会・熊本」(略して「非戦の会」)の一員として、六月二十三日開催の「311」上映会・トーク311の男たち2/4」に関わった。その経緯と感想を紹介したい。
 「非戦の会」は2003年3月20日に開始されたイラク戦争に対し、真宗者として戦争を止めてほしいとの一点で、街頭で辻立ちを始めた。現在も月に一回、非戦平和への願いや気づきをリーフレットに仕立てて配布を続けている。

 その活動の中で、2006年6月2日イラクの被爆した家族を取材した綿井健陽監督の「リトルバーズ」の上映会や、2009年8月22日マスメディアの有り様を糺弾し続けておられる森達也監督と元拉致被害者家族会の蓮池透さんを招いての講演会も開催してきた。

今年3月3日綿井・森両監督も制作に関わったドキュメンタリー映画「311」が東京で公開され、3月14日朝のFM放送で森監督へのインタビューが流れた。この映画撮影中に森監督が感じた、被災現場でのトリアージでより多くの命を救うため、「放置した」命があったと歎いた医師の話や、マスコミは野次馬の先鋒なのかと悩んだこと、たまたま被災しなかった者の後ろめたい気持ち等々、短い時間だったが、とても心に突き刺さった内容だった。ぜひ見てみたいとの思いでいたら、藤岡崇史さんが実現のために動いてくれていた。都市部では上映されるが、熊本の映画館での上映はなさそうとのこと、では自主上映かとの話の最中に、綿井監督から配給会社に掛け合ってみるとの連絡が入り、この度の上映の実現となった。それも両監督の来熊・対談も含めてで。

 6月23日、会場となった国際交流会館ホールはほぼ満員となった。まず311の上映。内容は四人の監督が一台の車に乗り、それぞれビデオカメラを持ち、震災後の3月26日から31日まで被災地を縦走して取材した映像をまとめたものだった。放射能測定器の数値が跳ね上がる中、福島原発に近づこうとするお互いの怯えた姿、その後津波の被災地に向かい、被災した建物・避難所・捜索している人への取材が撮られていた。その中身は、これまでテレビで見てきた俯瞰的な鮮明な映像は一切流れず、四人の大人が現場に行って撮影してきた、ごく一部の被災地の映像、という感想だった。正直、鈍感な私には良さが分からず、終わった時、うーんと唸ってしまった。

 しかし、その後の対談で、その感想を産み出す正体を森監督から明示してもらった。「これまでに見たことのない映像を期待してきた私とは何なのか?」私達には、最終的には被害者を心配し支えるための場合もあるが、メディアを通じて、より被害の強いところ・より壊れてるところ・より悲しんでる人・より泣いてる人を探す野次馬根性があるのではないか。そして、それに応えるべく、より悲惨な現場に赴き、「お気持ちはどうですか?」と問う馬鹿さ加減を、メディアに関わる者の良心として敢えて正直に表現したかったと監督は語った。その良心は一方で優しさとして、小学校で津波にのまれた我が子を探す母親に向かって、憤りを「もし今言葉にできるなら、僕にぶつけてください。そういう役目ですから。」と告げるところに現れていたように感じた。

 改めて、私の有り様を問い直してみる。「被災地を視ては夫婦で涙ぐむ温き部屋にて熱き物食べ」(朝日歌壇昨年3月 草田礼子さん)の歌が示したように、悲しみの涙が嘘ではないが、自分を幸せの中に置きながら、悲しさを眺めている後ろめたさが、確かに有る。それが何かせずには落ち着けない思いから義援金等の支援につながったと思う。動機はお恥ずかしい気がするが、それを認めつつ、末永く被災地に思いを馳せたいと思う。そして良心ある届け手に教えていただきながら、諸問題に敏感でありたい。原発の放射能・被災者支援・日本や世界の辛い立場に居る人のこと・平和・・・。

この映画を通して両監督が我が身をさらけ出して、被災地や被災者と関わる有り様を考えさせてくれた。今度はそれを我々がどう受け止め、願いと行動につなげていくかが問われている。


311を撮る

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  • 作者: 森 達也
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
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仏青活動を通して、念仏するということを考えてみるの巻  熊本教区仏教青年連盟前委員長 川上真由美 [2012年7月1日(第108号)]

熊本教区仏教青年(以下、仏青)連盟委員長の任期が終了し、副委員長に降格した川上真由美です。こちらには初めて登場いたします。どうぞよろしくお願いします。

任期中に親鸞聖人750回大遠忌法要がありました。仏青連盟でも大遠忌に合わせて「全国真宗青年のつどい(以下、全国大会)」が本山で開催されました。私は参加できなかったのですが、熊本教区からは10名程の参加がありました。「若い方にお寺に足を運んでもらえるようなきっかけとなるような大会を目指している」と熊本教区の中央委員(当時中央研修委員長)から聞いておりました。東日本大震災が起こった事で開催を検討する会議も行われたようですが、内容や期日等の変更無く、震災から約五ヵ月後の八月に開催となりました。

さて、そのように仏青連盟では大遠忌をお迎えし、来年度熊本教区で全国大会が開催されることになりました。教区仏青役員は現在、実行委員会立ち上げの為の準備を始め「どのような趣旨でどのような大会にするか」という点を検討中です。例年の大会を見てみますとたいてい1泊2日の大会期間となっているようです。私が参加した事のある三回の大会ではウォークラリーが二回、運動会が一回メインの行事で入っていました。個人的な感想ですが、お寺には法話を聴きに行くという感覚で参加したので、本山(大会)に行ってまでウォークラリー?わざわざ真宗の大会でなぜ。と大会の趣旨に疑問を持ったものでした。前記した教区の中央委員にその疑問を伝えたところ「お寺が堅苦しいところではなく、若者が初めてでも行きやすい場所だと知ったという感想もあります。」という返答。(この場合、お寺ではなくウォークラリーした街が対象になりかねないな、とも思いましたが)確かに、今までご法義に縁がなかった方に縁となる大会は意義深いものです。が、そのような「楽しさメインの大会」が何年も繰り返されている事について、きっかけの提供だけで終わってしまっていないかと、疑問を感じたのです。この思いを背景に私の「どのような趣旨でどのような大会にするか」探しが始まりました。

まず、真宗の教義から確認し、慈悲とは、お念仏するとは…など、そうですね、看護師一年目の時くらいに本やテキストを机に広げて考えました。親鸞聖人は往生を死とは考えずに「不退転の境地に生きること」と考え、積極的に現世を生き抜くことに主眼を置こうとされたそうです。積極的に生きるということは、750年経った現代でも同じです。みんな悩んで、苦しんで一生懸命に生きています。そんな私の姿をなぜ仏は悲しむのか。仏を悲しませる私は一体どんな姿をしているのか。ふむふむ、これはテストに出そうなくらい大慈いや、大事ですね。そして教義にある「人々を教化する」という課題。親鸞聖人曰く「不退転の境地に生きる」私が人々を教化するのは死んでからの話ではないようです。お念仏するとは「その思いに生き続ける」という事みたいなので、こりゃこりゃ、たった今私に課されている事ではないですか。それを踏まえたうえ考えると、やはり仏青の大会の趣旨は教化を含まなければなりません(仏青活動自体が教化活動なんだから当然と言えば当然)。南無阿弥陀仏と我が口から出とるんですもん。

つまり、大会当日の一日や二日だけでは難しいと、寺院が楽しい事が出来る場所だという印象を残す事が目的の大会ではPRであり、教化とはまるでベツモノ。そんな大会を見直す時期に来ていると思ったのです。その気づきが、私を主体的に仏青活動に取り組ませてくれている様です。きっかけを提供する大会から一歩踏み出し、真宗を通して我を、社会を見る事ができる。そんな熊本教区仏青連盟のスタートとなるような大会づくりができたらいいなと、厚かましくも委員長を差し置いて思って(いる気で)います。

最後に、「慈悲の中に生きる私」に気づくと、他者にもっと優しくなれるかもしれないな~という気がしてきた原稿作成でした。以上。(坪井組・見西寺)


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あとがき [2012年7月1日(第108号)]

◇川田師の原稿にあるように、〝誰も、覩たくなかったはずのドキュメンタリー”「三一一」の上映会が行われました。ロードーショー中の上映会ということで一般の方々の関心も高く「こんな早い時期に熊本で見れるとは思わなかった」「次のイベントの時には直接連絡して欲しい」など、うれしいリクエストをたくさんいただきました。この映画を楽しみにして来てくれた若い人たちとともに宗教者(宗教)の存在意義を考えていければと思ったことでした。

◇また上映会前日に川内原発と水俣(ほっとはうす)、当日は石牟礼道子さんの取材に同行できたことも深い学びとなりました。特に大菅真也さん(芦北組・正善寺)のご尽力によって実現した石牟礼さんの取材は石牟礼さんが森監督をご存知だったこともあり、終始リラックスムードで行われ、石牟礼さんの「最近は言葉が情報になってしまっている。言葉は本来布地のように手触りがあるものなのだけれど、それが包装紙のようにツルツルになってしまっている」という言葉が印象に残りました。

◇石牟礼さんの本棚に真宗関係の書籍・論集が何冊も並んでいることを尋ねると「私の実家は真宗門徒で、父は酔うと幼い私に向かって『今からお経をあげるから後ろに座っとけ』と言って「帰命無量寿如来』」ってお経をあげていました」とおっしゃっていました。

◇仏青の場合、大きな大会を「きっかけ作り」と定義するのが伝統となっているのですが、その「きっかけ」作りが機能していないことは、単位仏青活動の現状を見れば明かなことです。もう一工夫した大会を期待したいところです。(藤岡崇史)


なみだふるはな

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  • 作者: 石牟礼 道子
  • 出版社/メーカー: 河出書房新社
  • 発売日: 2012/03/08
  • メディア: 単行本



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