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1998年4月1日(51号) ブログトップ

韓国ナヌムの家 「日本軍慰安婦記念館」支援のお願い  藤岡直登 [1998年4月1日(51号)]

 ナヌムの家については、若き映画監督ビョン・ヨンジュによる同名の作品で広く知れ渡り、またそ
のパート2も既に上映中でありますので、どんな所か、すでにご存知の方も多いと思います。

 それはかってのアジア・太平洋戦争において日本は、当時植民地支配をしていた朝鮮から、まだ幼
さの残るような少女達を女子勤労挺身隊等の名目で動員=連行して「従軍慰安婦」を強要したのです。「従軍」と言われるように、前線の各所まで連れ回し、あげく日本軍敗走の際は足手まといになる、と戦地に放り出し、または秘密を守るためと処分をしたのです。

 このようにして「従軍慰安婦」を強要された多くの朝鮮人女性が悲惨な死を遂げる中、辛うじて生
きて故国に還ることの出来た少数の人達、祖国の解放=光復後五十年、韓国社会を生き存え、今おばあさん=ハルモニとなった彼女たちが共同生活を営む施設、そこが「ナヌムの家」なのです。

 私が何故これに関わるようになったかと申しますと、それは1995年、ナヌムの家から元慰安婦のお二人をお招きしての証言の会計画を報道する新聞記事で、ナヌムの家が韓国の仏教団体によって開設された事を知ったのが始まりでした。

 私はその前年、まだソウル市内にあったナヌムの家を初めて訪問しているのですが、その時は一緒
に暮らしているお坊さんがいるらしいが、今は不在、ということを聞いたにすぎませんでした。そん
な中で、来日されるお二人のハルモニの宿舎を私が住職をする寺で引き受けました。というより是非
うちの寺に泊まって貰いたかったのです。そしてその機会に、私が属する真宗遺族会の仲間と共に、
寺での「お二人を囲む会」を呼びかけました。その時の模様は「遺族のひとりから遺族のひとりへ」
第十九号(真宗遺族会機関誌)に記述されています。少人数での膝つき合わせての会で、後から振り
返ってみると、私はハルモニお二人にすっかり魅せられて、思いを固めつつあったと言えます。

 今は亡きカン・ドッキョンハルモニは、開口一番「お寺に泊まったことは今回が初めてで、とても
感謝をしています」。キム・スンドクハルモニは「私は小さい時から仏教徒で、今もこの腕に数珠をはめています」と語られ、質問に答え、最後に一言として話されたこと「韓国人も日本人も本当に一つの家族として韓半島で暮らしてきました。だからこれからも仲良くしていきたいのです」。

 最近好適な本が出版されました。大韓曹渓宗僧侶でナヌムの家院長ヘジン師による「ナヌムの家のハルモニたち」(人文書院)です。これは題名どおりハルモニ一人ひとりのエピソード、共同生活の中の出来事などを記したもので、まさに煩悩具足の凡夫たるハルモニたちの生々とした姿を身近かに感じとることが出来ると同時に、徐勝(ソスン)さんの解説は仏教人権運動などを知る貴重な資料をなし、新たな視点を提示しています。

 さて、日本軍慰安婦記念館は、ナヌムの家敷地内にその姿を現しました。その意義は「自分達は死
んでもいいんです。死んでもいいから歴史を正さないといけないんです。運動はこの問題を若い世代
に受け継いでもらうため」(キムスンドクハルモニ)の拠点を築くことにあるのです。そのためには加害国日本の側の協力が必要であり、特に資料に関して、そして事実をこじ開け、掘り起こすには財政面での充実が必要なのです。

 真宗遺族会では、困難の中で記念館を建設し支える韓国の仏教徒市民を支援することにしました。皆さん方の支援とカンパをお願い致します。(佐賀教区・佐賀組・真覚寺住職)
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忌むということ  禿真理子 [1998年4月1日(51号)]

 ふとしたことから『こだま』第50号を拝見するご縁を賜わりました。

 一周忌とか七回忌という言い方を疑問に思ったことがなかった私ですが、このたび禿浩道編集長の「変革上人のご法要は宗祖の思いに還る変革で」を拝見して、忌むということについて色々と考えさせられました。

 かって浄土真宗が盛んで、親鸞聖人の御教えが人々の心に根付いていた時代、門徒衆は物忌みをしないことから、《門徒物しらず》と言われていたそうです。

 親鸞聖人は物忌みされず、忌むという言葉は、イミ嫌う、いやなものごとを避ける意味に使われていることは明らかであるのに、私は浄土真宗のお寺に生まれ育っていながら、これまで、法事の年回に忌むという言葉が使われていることに対して、何の疑問も持たなかったことが我ながら不思議でもあり、恥ずかしく思いました。

 「こだま」を拝見させて頂いた、その前後に、四、五人のお年寄り達が人里離れた山の中で、日の出とともに起き、田畑を耕し薪で煮炊きをし、日が沈んだら寝るという自給自足の暮らしをしている姿をテレビで見ました。

 昔から伝わっている風習、習慣を忠実に守り、自然と一体に生きている姿が、とても印象的でしたが、その生活の様子を見ながら、しきりに親鸞聖人のことが思われました。きちっと営まれる祭り事や風習は、災いから身を守ってくださいというものであったり、豊饒を祈るものであり、科学技術が発達せず、自然に脅かされていた親鸞聖人の時代は、今よりもっと迷信がはびこり、加持祈祷や占いが盛んであったであろうと想像されました。

  かなしきかなや道俗の
  良時・吉日えらばしめ
  天神・地祇をあがめつつ
  卜占祭祀つとめとす              (『正像末和讃』)


 災いを祓い、福を呼び込もうとすることにつながる、お祭りごとや風習をきちっと営むことが良いことであり、当たり前と思われている時代に、そんなものは必要ないと言うことは、かなり勇気のいることですし、親鸞聖人の凄さを、再確認させられました。弥陀の本願に出遇われ、信じれる世界があったからこそのお言葉なのでしょう。

 蓮如上人のように、一人ひとりが変革をというスローガンのもと、何の変革も出来ないまま、今、蓮如上人の五百回遠忌法要をお迎えしました。私はなかなか行動出来ない性格なので、『忌』という言葉を使わず他の言葉に言い換えているご住職さんがおられることに、感動致しました。しかし、それは熱心に教化されご門徒さんが十分に理解されているから出来るのではないでしょうか。『忌』という文字を用いなくなっても、一人ひとりの認識が変わらなければ、あまり意味ないことに思えます。

 以前、ある熱心な御門徒さんが、「月参りの時、住職さんに、色々質問しても返ってこないし、法話もなく、物足りないので、親鸞会に行くようになりました」と言われるのを聞いて、とてもショックでした。熱心な御住職も多いのでしょうが、法話をしてもらったことがないという話は、よく耳にします。

 もし、法事、葬式だけで、法を説くというお寺の本来のあり方がなされてないとしたら、まず、僧侶が仏法を伝え、親鸞聖人の御心を伝えるという姿勢が先決なのではないでしょうか。そして、仏法を伝える中で『忌』という言葉から、親鸞聖人の御一生がどういうものであったか、浄土真宗の教えはなぜ、物忌みしないかを話したり、みんなで考えていく過程が必要なのではないでしょうか。

 蓮如上人の法要をお迎えしても、私は表面上は何も変革できないのですが、『こだま』のお陰で、考えさせられ、少しずつ意識の変革をさせられていることに感謝しています。(「響命」編集者)

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差別法名に学ぶ<差別法名・過去帳調査にあたって>3  島北皎誓 [1998年4月1日(51号)]

一九八四年六月二十六日付で、熊本教区矢部町墓石問題調査委員会は同朋運動本部へ「現段階における確認事項」を提出した。

 その(一)は
 墓石の「釈尼妙 信奴」は過去帳の記載と異なり、過去帳には差別的表示はされていない。従って差別法名とは速断できない。推測の範囲であれば様々な可能性も考えることが出来るが、いずれも現
段階では決定的根拠を示し得ないものである。従って差別墓石として規定する。
というものであった。

 これは、三月三十一日に熊本教区矢部町墓石問題調査委員会が発足して以来の、約三ケ月間の学習会、研修会、懇談会の答えである。



 新たな問いが発生した。

 墓石の文字が過去帳の記載と異なったら、なぜ法名でないのか。又、そんなことを誰が決め、我々(僧侶でない者)はなぜそれを認めなければならないのか?


 僧侶達は一九八三年から一九八六年にかけて行われた、第一回差別法名調査以来『過去帳に差別的記載がありはしないか、あったら責任が重大で大変面倒なことになりはしないか』というような危機
意識をもっていて、それが、その宗教のみに通用する過去帳絶対主義を突然のように持ち出し、責任のがれをしているのではないか?。


 この新たな問いに、熊本教区同朋運動は不幸にも気付かず、責任について、法名について、文字について益々盛んな論争を行った。

 誰が見ても奴隷の奴と読める刻字を前にして、『非常に大切で尊いもの(それはお墓の姿形と共に、刻字された文字により感受されるもの)として、お参りしていたのに奴とは・・・』と、絶句し、悲しみ苦しむ被差別者を忘れて、責任論・法名論・文字論を闘わせたのである。

 同朋運動本来の、さまざまな学習活動を通して、差別の実態を学び、自らの差別性に目覚め、一切の差別を許さない運動とは場違いの作業を行ったと言える。


 
 僧侶が過去帳を大切に保管することは重要な務めと言える。しかし、その絶対視は通用しない。

「過去帳と異なる文字は、たとえ墓石といえども法名とは言えない。」とする主張は、一般社会には通用しない。

 このような場合僧侶は、一般社会の場に立つことが不得手であり、努力しないし、できない。逆に一般社会の者を「寺参りしない分からん者」と片付ける。

 それで、一般社会から見る僧侶は、何かむつかしい事を言って、人を見下したように見える。僧侶に差別性を見るのである。

 現実に、熱心な門徒でも位牌や墓石を「ご先祖に対しての有難い文字が書いてある」と、亡くなった人そのもののように礼拝供養している光景はよく見かける。よく見かけながら僧侶は、そのことに
慣れてしまって、何の痛みも感じなくなっていはしないかったか。

 当時の私は田舎の一住職として「墓石に書いてある文字を差別文字と思える文字がある。僧侶の差別だ」と一方的に決めつけて言われても困る。過去帳には差別性は認められないのだから、いわれのない責任のなすりつけではないか。」と思っていた。そして「調査委員さんたちは大変だろうぁ。」と人ごとみたいに思っていたのである。

 被差別者の悲憤とは全くかけ離れたところで、何の問題も感じず差別を克服した人としていたのである。(山鹿組・光正寺住職)
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