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「物語」に寄り添う 中外日報記者  池田 圭 [2016年1月1日(第122号)]

「アイドル戦国時代」と呼ばれるご時世である。その代表格といえばAKB48。ワイドショーにそのニュースを見ない日はなく、新曲に参加するメンバーをファン投票で選ぶ「選抜総選挙」に至っては、NHKや朝日新聞までが報道する人気ぶりだ。

一方で、それほど高くはない歌唱力などから「素人芸」との厳しい批判もある。確かにどこかしら〝素人臭さ〟が漂うのは事実で、むしろそれを積極的に売り出しているようにも見える。公演の裏側をドキュメントしたDVDが発売されているが、舞台前の苦労や努力を披歴するのはプロの矜持とは言えない。

では、AKBの人気の源泉は何なのだろう。

AKBのコンセプトは「会いに行けるアイドル」。その凄味はファンとの関係を単に近づけるだけでなく、草創以来のAKBメンバーの成長の「物語」にファンやマスコミを巻き込むところだ。だからこそ本来は見せない舞台裏を惜しげもなくさらすし、ファンは彼女たちの成長を支える当事者として選抜総選挙の結果に一喜一憂する。

AKBに限らず、人は何らかの「物語」の中を生き、またそのように生きたいという根源的な欲求を持つ。それは極楽浄土や常寂光土といった仏教神話に基づく「大きな物語」であったり、村の伝承や家族の営みの中で紡ぎ出された「小さな物語」であったりと様々だが、「物語」の中に自らの生を位置付けることで、生の意味を確認したり、再定義したりする。AKBの商法は、そういう人間の本能に働きかけるものというのが私の理解だ。

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この「物語」は医療や福祉の分野では「ナラティブ」と呼ばれ、患者らへのケアにおいて重要な役割を果たすという。例えば、腰痛に苦しむ人生を送り、「痛い、痛い」と愚痴ばかりこぼしてきた人に「でも、その腰は長年、あなたを支えてきてくれたものですよね?」と語りかけることで、患者の腰に対する認識が改まる。もちろん、だからと言って腰痛がなくなるわけではない。しかし「腰痛の物語」が「腰に感謝する物語」に転換する。この変化がその人の人生観の形成にポジティブな影響を与えることは言うまでもないだろう。

「物語」の創出や意味の転換は古来、宗教が大きな役割を担ってきた分野だ。その働きは良いことばかりではなく、例えば、戦前の本願寺教団が「靖国浄土の物語」をねつ造し、門信徒を戦場に駆り立てたことは忘れてはならない。「戦争法案」の成立に伴い、国民を戦争に動員する「悪しき物語」が創出される恐れもある。宗教者はそうした動きに敏感に反応しなくてはならない。

浄土真宗に問われているのは、衆生をいかに「私の物語」から「阿弥陀如来から見た物語」へと転換させるかだと思う。そこに真の意味での感謝や寛容さ、謙虚さを実感する世界が開けてくるのではないか。

「物語」を希求する人間の性は不変だ。具体的に出合った一人一人をどのように「善き物語」に導くか。宗教者の方々には、人々がそれぞれに持つ「物語」に丁寧により沿ってほしいと願っている。AKB48の「48」に法蔵菩薩の四十八願を思う。
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