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編集後記 [2016年1月1日(第122号)]

11月に起きたパリ同時多発テロで妻を亡くした仏人ジャーナリストがフェイスブックにのせた文章が話題になりました。
「君たちを憎まない。金曜の夜、君たちは素晴らしい人の命を奪った。掛け替えのない人、私の最愛の人、息子の母親を奪った。
君たちが誰か知らないし、知りたいとも思わない。君たちは死んだ魂だ。憎しみという贈り物を君たちにはあげない。怒りで応じてしまったら、君たちと同じ無知に屈することになる。
今朝、彼女と会った。金曜の夜に出た時のまま、そして私が恋に落ちた十二年以上前と同じように美しかった。もちろん悲しみに打ちのめされている。君たちの小さな勝利を認めよう。だが、それはごく短い時間だけだ。妻はいつもわれわれと共にいて、再び巡り合うだろう。君たちが決してたどり着けない自由な魂の天国で。
息子と二人になった。もう、君たちに構っている暇はない。メルビルが昼寝から目を覚ますから一緒にいなければならない。まだ17ヵ月。この子がずっと幸せで自由に生きていけば、君たちは恥を知ることになる。だから、君たちを憎むことはしない」

これに対して、日本を含めて世界中から賛同のメッセージが届いているということです。

この文章を読んで思い浮かぶのは『ダンマパダ』の言葉です。
「この世において諸々の怨みは、怨みによって決して静まることはない。けれども諸々の怨みは怨みのないことによって静まるのである。これは永遠の真理である」
法然上人が出家された動機となったのもこの言葉でした。わたしたちになじみの言葉ですが、ただ知っているだけで、実戦的に受け止めたことがなかったと反省させられます。

ナチスによってユダヤ人が大量虐殺されたアウシュビッツを生きぬいた哲学者のヴィクトール・E・フランクルは『意味への意志』において次のように書いています。
「いま必要なのは、悪の連鎖を断ち切ることでしょう。あることにそれと同じもので報いること、悪に報いるに悪をもってすることではなく、いまある一回限りの機会を生かして悪を克服することです。悪の克服はまさに、悪を続けないこと、悪を繰り返さないことによって、つまり『目には目を、歯には歯を』という態度に執着しないことによってなされるのです」

悪に悪で対応しない、怨みに怨みで対応しない、武力に武力で対応しない、それだけが問題を解決する道だというのですが、具体的にどうしたらいいのでしょうか。

フランス大統領は「イスラム国を壊滅することが問題の解決だ」と演説し、空爆を強化しました。安部首相は「テロに屈しない」と強調しました。私の接する人の中にも「武力でやっつけるしかない」という意見があり、「日本が攻撃されたら」という恐れの声もあります。

ダライラマは「私たちの心が平和でなければ、世界の平和はない」と説き、敵対する人にも平和の心が生まれるように対することを教えています。しかし憎しみや恐れを離れられない凡夫はどう実践できるのでしょうか。

今年は集団的自衛権を認めた安保法制が可決されました。それに対して若者たちを中心にした平和運動が注目されました。教団の実践運動では社会に貢献することが求められています。しかしそれは社会の要請にただ応えていくことではないでしょう。仏教者として、念仏者として何ができるのか、どう社会に関わるのか、そこから運動は展開していくべきと思います。来年以降、私たちのあり方が問われる状況がやって来るように思われます。(外海卓也)
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