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国家、社会と宗教  尾方尚晃 [2003年10月1日号(第73号)]

 最近の日本や世界の状況を見ると、国や政治・社会のあり方と宗教が無縁でありえない状況が進んでいることを感じ、少し意見を述べてみます。ご意見を賜りますとありがたいです。

 明らかに創価学会を支持基盤とする最近の公明党の有様は、権力に近づきたいものの見苦しさを端的にあらわしている観さえあります。

 少し個人的にやりとりのあったN市の公明党の市議とは、イラク戦争支持に関して党員であることの責任を話題にした途端、縁が切れました。当初は何らかの理念による政治参加だったのでしょう。いまや公明党は政権につくことだけが目的になってしまったように見えます(坂口厚生相を除く)。悲惨なことです。
 翻って私たち僧侶も社会的存在としての立場を、厳しく問われる問題がますます増えてくると思います。

ヤスクニ問題
 本願寺は戦後、靖国神社の国家護持的動きや閣僚の公式参拝に対しては、一貫して抗議をしてきました。

 若者を戦争に駆り立てる道具として使われてきた靖国神社、天皇の軍隊の戦死者を祀るための、それも宗教法人の一つに過ぎない靖国神社を国を挙げて護持するのは、理屈の上では明らかに無理があります。国家護持に反対することそのものには僧侶のほとんどの方は理解できることだと思います。にもかかわらず、全国の寺院ではそれほどの反応がない、むしろヤスクニ問題を避けているのではと思われる。そのことこそが問題だと思います。

 考えてみますと、戦没者や遺族と永く深く関わってきたのは私たち、寺院住職や僧侶たちです。神社の神主さんではありません。しかし、僧侶がヤスクニ問題に腰が引けるのは何故か。やはり靖国神社は大きいのだと思います。どういうふうに大きいのか。

 敗戦後、戦没者の遺族たちは、途端に最も弱い立場に立たされました。一家の柱の夫や父や子や兄弟たちを失い、将来のめどすら立たない状況になりました。

 そんな状況の中、遺族会として団結し、国の戦争でなくなった戦没者の遺族の生活を国が保障するようにという運動がおこりました。靖国神社を国家護持しようとする表向きの運動の裏には、多くの遺族の本音が、すなわち「身内の死が無駄死ではなかった。」という証がほしい気持ちがあり、国が遺族の事を見捨てない確約がほしいという気持ちがあったといえるでしょう。そのシンボルが靖国神社だったのです。そして遺族会は、戦争を正当化する人々や反省する人々やいろんな思いをその中に含みながらも、遺族の生活保障という点ではある程度の成果をあげてきました。

 遺族の不安や苦しみの外にいて、ヤスクニの非や戦争の無意味さを説いても聞こえるはずはないのです。外にいたら遺族の気持ちを逆なでするのではと、恐れるだけになります。気持ちを共有しなければ語れないことばもあるのだと思います。

 社会運動家に、時に僧侶にも独特の雰囲気や臭いを感じることがあります。教化者意識、無知な者に教えてやるという意識みたいな臭いです。もし、別の場所で戦争反対や、差別反対を説いても、自分のお寺で遺族のご門徒に話す内容とかけ離れていたらそれはうそ臭いことばでしょう。研修会のご講師も自坊での話しや生活とかけ離れたものでないことを願いたい。最近の、平和研修、同和研修のおもしろくなさの原因の一つはそういう部分もあるのかもしれないと思います。講師も参加者もよそ行きでない本音のことばで語り合える研修の場が増えればいいなと思っています。

 私は、教員をしていた時期に被差別部落の子供たちに数学の勉強を教えていたことがあります。そこには親の願い、『恵まれていなかった環境で、学習の遅れた自分の子供に学力をつけてやってほしい』という切実な分かりやすい親の願いと期待がありました。新米の教師に社会運動家のまねごとをしてほしい期待などではありませんでした。

 ヤスクニ問題は、私たちの生活の本音のところで取り組まなければなりませんが、何もしなければ進まないだけではなく悪化します。

 若い世代には、とても期待しています。上の世代は若い世代がのびのびと活動できるような土壌をつくる義務があると思います。

宗教は政治権力とすり寄るべきではないし、社会的にも安泰過ぎないほうがよい

 日本では江戸時代、仏教寺院は寺請制度により役所的な役割を担い、本末制度の完備により幕府権力の中に組み込まれてきました。

 このことで当然、宗教的には停滞することになります。

 私は、宗教は権力にすり寄るべきではないし、権力を利用しようなどとも考えないほうがよいと思っています。

 政治は宗教を自らの都合によって理解し、時には利用しようとします。小泉首相や、ブッシュ大統領、フセイン元大統領が仏教あるいは神道、クリスチャン、ムスリムを代表しているともよく理解しているとも思えません。気安く神の名を語り、戦争を実行しようとさえするのが政治だと思ったほうがよいのです。

 私の知っているアメリカ人はみんな気さくで気のいい人ばかりなのに、国になると何故あんなに傲慢になるのかなといつも思います。

 また、社会的にも安泰を貪るべきではないと思っています。

 現在、キリスト教圏のドイツや北欧では、教会税(年収の三~八%)が公の行政機関で徴収され、信者数に応じて教会に配分されます。勿論信者になることは自由ですので、わが国での神社費の強制徴収とは違います。稼ぎの一割を神に捧げるという教えが元になっているようです。最近は教会税の負担の重荷が、キリスト教離れの一因になっていると報じられています。最も熱心なキリスト教国の一つアメリカでは契約制度、毎月いくらを教会に納めることを自己申告する形をとっていると聞きました。当地の本願寺別院でも同じような形をとっていて、予算や計画をたてやすいということで羨ましいような気もしますが。

 国家予算にも匹敵するほどの莫大な資金を持ったキリスト教会は、多くの慈善事業やエネルギッシュな教化活動をする一方、時には不幸にも帝国主義の植民地支配と一体となり、侵略の旗印にまでされたのです。

 奈良時代、平安時代に国家仏教として栄えた寺院は今、文化財としてその姿を留めていますが、教化活動はほとんどなされていないと思います。権力と結びついた宗教のなれの果てと言えば言い過ぎでしょうか。

 現在少なくとも全国で教化活動をしているのは、鎌倉仏教を中心とする仏教であり、かっての国家仏教ではありません。
十年ほど前に、私の寺を訪れたアメリカ人夫妻がその後、京都に行くということで、次のような説明をしたことがあります。
「日本のお寺には二通りのお寺があります。観光のお寺とお参りのお寺です。その見分け方を教えます。観光の寺は、入口で料金を払わないと入れません。お参りのお寺は払わなくても入れます。本願寺は、お参りのお寺であり、金閣寺は観光寺です。観光寺の住職は、寺の住職であると同時に時には文化財の管理人です。」具体的部分は大いに納得くれました。(拝観料を取っている真宗寺院があったらすみません。)

寺院は経済的にも安泰すぎないほうがよい

 今、日本で寺が教会税のように資金を集めることはありえないでしょうが、そうなったらお念仏の教えはほとんどすたれてしまうのではないではないかと思っています。お布施をいただき、金銭に苦労しながら世間の生活をしている在家仏教である真宗のお坊さんが私は好きです。また、貧しい寺を逃げ出したい気持ちと、門徒の期待の間で苦悩をし、寺に戻ってきた新発意も好きです。幼少から自分の人生の決断を迫られるのは、過酷な行です。定年退職後に僧籍を取った人も好きです。

 あまりにゆとりがあり過ぎるとろくなことはない。ましてや先代から受け継いだだけの門徒数を誇ったり、贅沢な生活をしているお坊さんは真宗僧侶らしくない感じがします(個人的な好みですが)。

 高い寺班、僧班をお持ちの方は、宗門のために金銭の貢献をしていただいている方だと有難く思っています。それ以上のものではないと思っています。

 院号は遺族の見栄や亡き方に何らかの事をしてあげたいという気持ちに付け込んでいるような気もしますが、本山にご懇志をあげていただいた方だなというふうに見ています。

親鸞聖人はどうであったか

 歎異抄の流罪記録に明確に書かれていますように、流罪になるとき親鸞聖人は国から僧籍を剥奪されています。代わりに藤井善信という名前を与えられていますが、これはいらない「禿」という字をもって姓とする、ということを役所に申し出てこれを認められています。聖人はその後、非僧非俗として「愚禿親鸞」と名のられ、御流罪が解かれた後も同じ名前を使っておられます。その真意は憶測することしかできませんが、国が与える僧の資格など問題にもならないほどの念仏の行者としての意識があったことは確かでしょう。

 私の知るところ知らないところで多くの僧俗が素晴らしい活動をされていると思います。

 怠け者の私は、日々の法務の中でという言い訳をして何もしない恐れがいつもあります。ささやかな支援の一つに募金をしています。仏婦のダーナの他に当初は五ヶ所でしたが、今はダーナの他、二ヶ所を選んで半分づつ送金します。ユニセフ(組織の信頼性と子供支援を評価)とペシャワール会(活動のきめ細やかさと有効活用率の高さ)です。募金は、少しずつの気持ちを結集して少し大きな力にする場をつくる意味があると思います。

 思ってみますと、建前と本音の間で寺を維持し、お念仏の相続をし、かつ社会生活をしているのが僧侶の現実ですが、折角お念仏のご縁をいただいた私ですから、鎧を脱いで、素直に現実に向き合う工夫をしないと勿体ないなと感じています。 〔球磨組・忍成寺住職〕

民族という名の宗教―人をまとめる原理・排除する原理

民族という名の宗教―人をまとめる原理・排除する原理

  • 作者: なだ いなだ
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1992/01
  • メディア: 新書


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