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2013年10月1日号(第113号) ブログトップ

自死遺族をさらに苦しめる政府と社会  野田正彰 [2013年10月1日号(第113号)]

自殺への矛盾した構え
仏教では自殺はどのように考えられていたのだろうか。
重病で苦しんでいたヴァッカリ・ビク(比丘=修行僧)がいった。
『我が身は苦痛極まり、堪忍すること難し。刀を求めて自殺せんと欲す。苦しみつつ生くるを楽(ねがわ)ず』
そこでヴァッカリは刀をとって自殺した。かれの魂がどこへ行ったのか、ということをビクたちが問題にしたときに釈尊は、
『かれの魂はどこかにとどまることなく、完全にときほぐされたのである』と答えた。

これは中村元教授が紹介する『サンユッタ・ニカーヤ』(『雑阿含経』)に出てくる話である。中村教授は、他にも修行僧が病苦で自殺する話があるが、世俗人については書かれていないと述べている。ともあれ、ここでは今日の「安楽死」が、釈尊によって肯定的に語られている。

しかし日本の仏教は、アニミズム、神道、儒教と融合しており、ゴータマ・ブッダの説く自殺観とは違っている。さらに近代の国家主義は、国家の命令からそれた自殺、例えば兵士の自殺を犯罪扱いし、逆に国家のための自殺、例えば特攻隊員としての強いられた死であっても、あたかも後の仏教が肯定する「捨身」であるかのように賛美してきた。こういった雑多な自殺観の上に、さらに1980年代になると歪んだ自然科学主義が割り込み、「自殺はうつ病のため」という間違ったキャンぺーンまで拡がっている。そのため、私たちの社会は自殺について矛盾する構えを取り続けている。

だが私は、それぞれの人の自殺には理由があり、彼をとりまく社会には大小、直接的か間接的かの差はあれ、責任があると考えてきた。

どうして死んだのか、自殺した人の精神鑑定(民事)を頼まれたとき、私は故人に向かって語りかける。どんなに無念の思いを残して亡くなっていったことか、私たちの社会は貴方の苦しみを聞きとる力がなかった、私は少しでも貴方の死の意味を知り伝えます、と手を合せる。

日本社会は毎年、三万人ほどの老若男女を死に追い込んできた。ところが故人を苦しめただけでなく、亡くなった後、遺族をさらに追いつめる社会であることを知っておられるだろうか。遺族は故人の思い出を整理しながら、喪失の悲哀に耐えていかねればならない。同時に経済的な困難にも耐えていかねばならない。

  死後も補償請求
精神的にも、社会=経済的にも、二つの喪の仕事をやりとげねばならない遺族に、私たちの社会はさらに非情な仕打ちを今も加えている。

そのひとつは、家族の誰かがアパートの一室で自死した場合である。事例を五つ挙げよう。

京浜のアパートに住む大学生が縊死(いし)。保証人である父親は、すぐ部屋の補償として80万円支払うよう請求された。その二週間後、一階に住む大家の家族五人への慰謝料250万円(一人50万円×5人)とお祓い料10万円の請求が来た。「息子の死で責めたてられるのは、あまりに辛い」ので支払った。

東京の大学に通う娘がアパートの一室で自死。娘と連絡がとれなくなった父親が上京して確認。亡くなって五日ほどたっており、警察署で死体検案の後、東京の火葬場へ。この火葬場へ不動産業者が押しかけ、今後の家賃の補償として五年分(600万円)と全面改修200万円を、今すぐ現金で払うように迫られた。

ひとり娘の死に絶望する父親は、「迷惑をかけたのだから、仕方がない」と思い、止むなく、「手持ちがないので、自宅に帰って送金する」と応えたが、「今すぐ」と執拗に責めたてられた。やっとカードローンで手つけの現金を出して払い、残金を自宅から送金することで同意してもらった。地方都市にある自宅へもどり、送金している。

東北の賃貸マンションに住んでいた長男が、七階のエレベータ前で縊死。連帯保証人の父親に、管理会社からエレベータ周辺の改修費用と7階の共用部分の蛍光灯を増やすための費用として、七十五万円を請求されて支払った。見積書での請求で、領収書は受取っていない。さらに部屋の所有者から、家賃補償費として350万円の請求があり、「迷惑をかけたから仕方がない」として支払った。家賃は月75000円なので、3年10ヶ月分を超える。領収書は受取っていない。

いずれも死亡すぐの請求であり、遺族は「家族の死のことで争いたくない」、「カネを払って自殺ということから離れたい」と動揺しており、「迷惑をかけたからしかたがない」として請求内容を検討せずに支払っている。誰に相談すればよいのか、判断停止の精神状態で取立てが行われている。
しかしあまりに請求額が多く、遺族が払えないために裁判になる場合も少数ながらある。

近畿の賃貸マンションの浴室で男性(40歳)が練炭による一酸化炭素中毒で自殺。彼は大手企業に勤めていたが、七年前に畑違いの職場へ配置転換され、退職。経済苦による自殺と推測された。連帯保証人の姉が一ヶ月後にマンションに呼び出され、弟の家賃(月65000円)と隣室や他階の部屋の家賃など七室分の家賃補償として約700万円を請求された。この時、「家族なら、防げたんとちゃうの」と言われた。

三ヵ月後、弟の部屋のリフォーム代220万円、二年分の家賃と他の六室の一年分の家賃、および心理的な毀損として、総計約九二七万円の支払いを求め、家主が提訴。被告には「自殺を予見し回避できたはずであり、過失がある。部屋を毀損しないように見守る注意義務がある」と主張していた。

もう一件、東京の大学に通う息子がアパートで縊死。すぐ父親に、補修費百万円、近隣住民への精神的苦痛への慰謝料300万円(10件×30万円)、アパート住民への家賃下げの補助、お祓い料が請求され、支払った。一ヵ月後、「気持ちが悪いので、誰も借りなくなる」ため、築27年のアパートの建て替え費用として2億2000万円の請求が来る。和解交渉により、数百万円を支払う。


 寺へのお願い
多くの遺族が請求されるままに、密かに支払っているのであろう。2006年に「全国自死遺族連絡会」が作られ、かなりの事例が相談されるようになっている。

借主が損耗したものを回復するための費用請求は当然のことであるが、それをはるかに超え、お祓い料、過度のリフォーム費、精神的苦痛への慰謝料、近隣への慰謝料、数年にわたる家賃補助金等が請求されている。これらの法令上の裏付けとなっているのは、国土交通省による「賃貸契約にあたっての重要責任事項説明書」であり、心理的瑕疵(かし)は告知しなければならないことになっている。自殺は、心理的瑕疵は、告知しなければならず、告知すれば大きな損害が生じるというわけだ。国交省の法令は、自殺は心理的瑕疵とする最高裁の判例によるとされている。

自殺がなぜ心理的瑕疵なのか。病死や孤独死した場合と、どの様に違うのか。ここには、死を差別し、自殺を穢れた死とする考えが流れている。遺族がなぜお祓い料を支払わなければならないのか。一体、何をお祓いし、何を清めているのか。家主や不動産業者は借り手が遠のくことを理由に、過剰な補償を求めているが、それを動機づけているのは彼ら自身の偏見でないか。さらに、自殺のあった建物を特別に忌み嫌う人びとは、それを理由に振り返ってみたことがあるのだろうか。病院に近づくのを恐れず、人の亡くなったベッドや病室で治療を受けることを拒んだり、入院費を減額を要求しないのは何故か。国交省や裁判所は、自殺をなぜ心理的瑕疵と主張するのか。私たちは切腹や特攻隊の自爆死のような権力によって強いられた死を美化しながら、私たちの社会の負荷や矛盾が強いた悲しい死をこれほども差別するのだろうか。

多くの宗教者は葬儀にたずさわっている。とりわけ僧侶は、徳川時代からの宗門改め制度により、ほとんどの日本人の葬儀で読経などの重要な役割を果たしてきた。1998年度より2011年度まで、13年間、毎年3万人を超す自殺者を出してきた日本社会。昨年度は少し減ったが、なお3万人近い。自殺された人の葬儀で読経し、遺族と会話をもたれたお坊さまは少なくないと思われる。

これらの亡くなられた人が、なぜ死ななければならなかったのか。そして遺族はどんな社会的、経済的負荷をかけられているのか、関心を持っていただきたい。亡くなられた人の悲苦を想うことが少く自殺を穢れた死とする慣習がどれだけ遺族を苦しめているのか、各宗教教団で調べ、それはいけないと教えてほしい。各宗門、寺院がそれを教えるだけでも、大きな力になるだろう。

残された遺族への重圧は、借家の場合に尽きるわけではない。自宅で死亡し医師に診療してもらっていなかった場合、検死となる。県によっては十数万円の死体検視料を、即金で要求することもある。葬儀の後、遺族が子育て支援、奨学金申請、債務整理の相談、労災申請の手続き、法的な相談などを求めても、自死遺族と告げるだけで精神保健センターへいくように言われ、結局、うつ病あつかいにされると訴えている。

私たちの社会は亡くなった人に対してだけでなく、遺族に対してもあまりに理不尽である。せめて遺族への負荷を少しでも減らすことで、故人に「安らかに」と手を合わせられる社会に変わっていこうではないか。(精神病理学者)


うつに非ず うつ病の真実と精神医療の罪

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明治初年の東アジア平和外交論 ―佐田介石の建白―  梅林誠爾(熊本県立大学元学長) [2013年10月1日号(第113号)]

佐田介石は、幕末明治初年の文明開化の時代に、伝統との連続において新しい時代を生きようとした熊本出身の学僧である。介石は、文政元(1818)年に、八代郡種山村(現八代市東陽町)浄立寺廣志慈博の長男として誕生している。幼名は觀靈といい、後、飽田郡小島町(現熊本市小島町)正泉寺佐田氏に入り、娘薫を妻とし、佐田介石と名乗る。

少年の頃儒医斎藤宗元から漢学を、眞覺寺了玄から仏教を学んだといわれる。数え年18歳で京に上り、本願寺學林の法雲、南渓のもとで仏教学を研鑽し、25歳で帰郷、30歳の頃(嘉永年間1848―54年ころ)、再び京都に上っている。


この後、介石は、京・大坂や東京において西洋近代化を批判する言論活動を繰り広げることになる。仏教擁護の護法の精神から、近代天文学(地球説・地動説)に対抗して、旧式の仏教須弥界説の地平説、地静説に立つ仏教天文学(梵暦)に積極的に関わる(『鎚地球説略』文久2二(1862)年、『視実等象儀記初篇 一名天地共和儀記』明治10(1877)年、『視実等象儀詳説』明治13(1880)年などを刊行)。

維新後は、人と自然を育てることを旨とする経済思想(「栽培経済論」)を唱え、江戸期の伝統的な生活文化を擁護し、工業化と外国交易に反対する言論を繰り広げる(「建白[二十三題の議]」明治7(1874)年、『栽培経済論初篇』『同後篇』明治11年、12年(1878・9年など)。

介石は、政治的事件にも幾らか関わり、時の政権に建言してもいる。元治元(1864)年の第一次長州征討の前、文久3(1863)年12月、介石は、一橋慶喜らに建白し、長州藩への寛大な処置による戦乱の回避を願い出ている。廃仏毀釈が激しかった明治3(1870)年には、介石は西本願寺から派遣されて一派一寺の合寺令を出した富山藩との交渉に当たっている。

さらに、明治7(1874)年、近代日本の最初の海外派兵(台湾出兵)が日中開戦へと至ることが危ぶまれた時、介石は「征支那建白」を太政大臣三條実美らに差出し、台湾出兵に義なしと批判し、開戦を回避し、「日清修好条規」に基づく話合いによる問題解決を主張している。また、朝鮮政府が維新政府からの国書の受け取りを拒否したことで日朝の対立の危険が高まった時も、介石は建白「朝鮮事件献策」(明治8年)を書き、五山の僧も関わった江戸期以来の日朝の交流の伝統に沿った問題の平和的解決を献策している。

介石は、宗教者であるとともに、日本の言論社会を開き担った言論人の一人であった。政府への建言や、単行本、雑誌の発行の他に、民衆に語りかける演説会を各地で開いている。言論人介石の社会経済説は、中村正直などキリスト者からの賛同も得ている。介石は、そうした遊説活動の中、明治十五(1882)年12月9日、越後高田に病没している。

幕末明治初年、東アジア的伝統の日本社会は、西洋近代という全く異質な文明との出会いを体験した。その出会いを、福沢諭吉は「極熱の火を以って極寒の水に接するが如く、人の精神…の内部の底に徹して転覆回旋の大騒乱を起こさざるを得ざるなり」(『文明論之概略』)と語っている。この出会いは、一人一人に、ものの考え方、その暮らしぶり、さらにはその生活世界の変更を迫る根本的なものであった。福沢諭吉は、この変革をまたとない好機として捉えることが出来た明敏な人であった。福沢は、この歴史的変革の時代に生きる自分たちを、「一身にして二生を経るが如く、一人にして両身あるが如し」と評している。二つの文明の優劣を、自らの体験を通して確実に知ることが出来る好機だと言うのである。福沢は、この好機を捉え、「西洋文明を目的とする」という選択をしたのであった。

しかし、「改革」についていけない人も多くいたであろう。文明開化の路線によっては暮らしが立ち行かず、没落を余儀なくされ、近代化への抵抗という形で、この改革に関らざるをえなかった人々がいた。明治初年、全国各地で頻発した文明開化に抵抗する農民騒擾が、そのことを物語っている。佐田介石は、恐らくはそうした人々と思いを共にしていたであろう。そして、西洋近代の産業化社会がもたらす生活世界の変容に対して強く抵抗し、これまでの伝統的な生活世界を擁護しようとしたのである。

なるほど、介石の西洋文明批判は、頑迷・固陋の謗りを免れない。しかし、介石は、日本の近代を全否定しているのではない。むしろ、介石は、「西洋ニハ西洋に固有する処の文明開化あり、日本ニハ日本に固有する処の文明開化あり」(「建白[二十三題の議]」)と述べている。すなわち、伝統の否定による近代化ではなく、伝統との連続による文明開化というものを、介石は構想していたように思われる。介石による伝統と連続した日本の開化の構想は、「西洋文明を目的として」突き進んだ実際の日本の姿とは異なるものを含んでいるが、却ってそのことによって、近代日本の実際の歩みを逆照射し、それを改めて問い直す力を持ち得ているように思われる。

今回の報告では、伝統との連続において近代日本を生きようとした佐田介石による、東アジア平和外交論を紹介しながら、近・現代日本と東アジアの平和について考えてみたい。


生命の時間 社会の時間 (シリーズ現代批判の哲学)

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お寺ステイ熊本―特に平商業高校ソフトテニス部の受け入れについて 大松龍昭 [2013年10月1日号(第113号)]

「夏休みお寺ステイくまもと」とは、東日本大震災被災地の子どもたちの心身の保養のためにと、教区内寺院にホームステイしてもらうという内容。二回目の今年は、「教区重点プロジェクト」の中心事業として、また七教区が協力して行う全国プロジェクトの一つとして実施された。そしてこの度の「お寺ステイ」は、本来この形一つで行う予定だった。

しかし、福島県立平商業高校女子ソフトテニス部の受け入れ案が浮上。いわき市内にある同部は県内屈指の実力校ながら、原発の影響で練習環境に問題を抱えていた。実は昨年、北海道教区有志が同部の夏季合宿を支援したという経緯があり、今年のソフトテニスのインターハイが大分で開催されるという事もあって、「お寺ステイ熊本」と繋がったというわけである。実行委員会は、お寺でのホームステイを夏季合宿日程に組み込んでこれを受け入れ、この二つのプランを並行させて今年の「お寺ステイ」は行われたのである。

ただ、このソフトテニス部の受け入れについては、「趣旨と反するのではないか」等の意見が出され、未だ充分な理解を得ていない面があると認識している。そこで、滞在中に託麻組同朋講座(公開講座)として、テニス部監督・水野谷先生が講演をされた、その内容の要点を参照しつつ、同部との出会いの意味をしばらく考えてみたい。

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一、「分からない」ということを分かっておく
彼女たちが被災者であるという事は、ある程度分かっていたからこそ「単なる運動部の合宿」としてではなく、被災者支援として受け入れたわけだが、今回参加した生徒の三分の一は津波によって自分の家を失っていて、その生徒達は仮設住宅あるいは借り上げ住宅に住んでいるという。また、原発から五キロ地点に住んでいた子もいて、その子の場合は恐らくもう戻れまい、と。しかし、印象としては生徒達は「想像よりはとても明るい」だろうと。なぜなら「後ろ向きになっても仕方がない」し、「前に進むしか方法はない」と考えているから。でも本当は見えない色んな傷を抱えているはずで、「そこに立ち止まって今でも怯えている子がいるのも現実」だと。なるほど、私たちが出遇った部員たちはみな明るくてハツラツとしたスポーツマンだった。その印象と言動からは彼女たちの痛みや不安は、確かに見えないし分からない。そもそも短期間の関わり程度で、それが容易に私に「わかるはずがない」のだ。それはもう一つのプランで参加した子ども達や保護者にも言えるはずで、「お寺ステイ」に関わる上でこれは重要な事だと思われた。

二、「原発」の影響に向き合う苦悩
また講演では、放射線量の安全基準について、水野谷先生が国や県と種々に戦ってこられた様子が語られている。「教育の上で何を大事とすべきか―それは子ども達の命」と考える先生は、安全ではない場所で教育をしようとする無責任な現場と厳しく対峙してこられたのである。しかし、その安全基準については年間と毎時、あるいはミリ、マイクロ等の表記・単位の違いがあり理解しづらい。そもそもその安全基準そのものが混乱している、それも現実である。だから、水野谷先生の考え方は福島においても決して「当たり前」ではない。そこに水野谷先生の苦悩がある。しかし、先生は一方で言う。「福島は安全だという人の気持ちも分かる」と。福島=放射能というイメージは、すでに様々な偏見と差別を生んでいる。先生もその事は我が子が受けたいじめを通して、身に染みて分かっている。また風評被害がなくならなければ、生活が成り立たない人がいる。原発で働いてきた人がいる。「福島は安全だ」と信じようとする人たち、そこにもまた深い苦悩があるのだ。

三、まだ終わってはいない
それ故に、「福島では大人達もすごく疲れている」と。つまり「考えるのはイヤだから流されて生きていこう」と考える人も増えているのだと。だから自分自身も言い続けていかねばならないと思っているが、その「まだ終わっていない」という事を、ぜひ「外からも言って頂きたい」と。「そういう思いをもって福島を見てくれている人がいる事が、福島の人たちを助けてくれる事になるのではないか」と、講演の最後に語られた。

四、おわりに
「講師」という形でなければ、先生もこのような話はされなかった事だろう。主催の託麻組に感謝せねばならない。平商業高校ソフトテニス部との出会いは、このようにして「お寺ステイ」だけに留まらない学びを得る機会となったのであり、そこに私は大きな意味を感じている。先生から頂いたメッセージも含めて、今後の課題としていきたいと思う。


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編集後記 [2013年10月1日号(第113号)]

○東北地方で、超宗派・超宗教的ケアを行う「臨床宗教師」が養成されていると、新聞に掲載されていた。東日本大震災の「犠牲者の集い」や「遺族のグリーフケア」を宗派・宗教を超えて行うことが多く、布教でない、超宗派・超宗教的ケアの必要から考えられたという。

○これを読んで、熊本で早くからホスピスに取り組まれた葉山医師から言われたことを思い出した。「僧侶や牧師は末期ガンの人にすぐ教えを説きたがるが、そんなことは必要ない。教えを説きたいなら、元気な人にすればいい。下通りには元気な若い人がいっぱいいる」

○青木新門さんは『納棺夫日記』で、死に直面した人に言葉はいらない、死を本当に受け取っている人がそばにいればよいという趣旨のことを書いておられた。

○自死に対する偏見が自死者の遺族を苦しめていると野田師は指摘されている。私自身を振り返ると、自死にあまりふれないようにしてきた。それは子どもの死と百歳の人の死との対応の違いにもつながっている。死をどう理解し、受け止めているのか問われている。
(編集長)
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