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信心のしるし(下) 本多靜芳(東京教区万行寺住職 アーユス仏教国際協力ネットワーク理事) [2015年4月1日(第119号)]

・二元論から一元論へ
親鸞聖人の教えは、「真俗一貫論」です。一貫ということですから、仏法の原理と世俗の原理、信心と生活には一つのものが貫いているのです。これを「行信一如」の教学と言ったりもします。

行というのは生活です。信は仏法です。台所と仏壇は別の原理ではないのだということです。

生活と仏教が重なる、そのことを親鸞聖人は、生活の中に「信心のしるし」が生まれるでしょうとおっしゃっていると信楽先生は教えて下さいました。私は、このことを次のように受けとめています。

ちょうど味噌汁のお碗の中にワカメが入っていたら、味噌汁にワカメの香りや味やコクが、出るのと同じように、普段から仏法を大切にする生活をしていたならば、どこかその生活に、仏法らしい、真宗らしい香りや味が出るのだといえないでしょうか。

「信心のしるし」は親鸞聖人のお手紙に出てくる言葉です。人によってその「しるし」の表れ方は違いますので、親鸞聖人は決して、何々せよ、何々してはならないという「掟」を一つも示さなかった聖人であったと信楽先生から教えて頂きました。

私はその「しるし」として、「念仏者・九条の会」や「浄土真宗・反靖国連帯会議」、そして、「アーユス仏教国際協力ネットワーク」という仏教NGО団体に関わるような生き方が生まれました。「しるし」ですから、一人ひとり違う形で表れるわけです。

世界の宗教には、多くの場合、掟のようなことをいう宗教があります。あなたがこの教えに生きるのだったら、この掟を守らなければいけない、と説く訳です。しかし親鸞聖人はそうではない説き方をしていらっしゃるのだ、ということを信楽先生から繰り返し教えて頂きました。

そのような教えを「一元論」だと学びました。二つの原理を使い分けるのが「二元論」の立場であるのに対して、二つの生活の中に一つのものが一貫しているというのが、「一元論」の立場です。


・あなたの「しるし」を示せ
その後も、先生のご著作や論文を読み続けましたが、時々、京都の「聴石の会」や、広島の「甘露の会」にも参加するようになりました。また、東京で「念仏者・九条の会」の東京大会を開催する折にも、ご出講いただき、直接お目にかかる機会が増えました。すると、お念仏の信心に生きる先生のお姿を通すことで、書物だけで学んでいる以上のことを教えて頂いたと感じます。

先生は、仏法が、生活の中に貫くことは、大変、厳しい、辛い出来事であるということを、「靴の中の石粒」というたとえで、教えてくれています。靴の中の石粒は、時々、足の裏をつついて痛いことがある。先生にとって、親鸞聖人の教えは、丁度、そのようなものである。石粒は取り除いたら、もう痛くはないが、それを取り除いてはいけないと思う、と熱い心情で語ってくれました。

今、あの時、「それで、結局、あなたは、どう生きようとしとるのか」と語りかけて下さったのは、「あなたの、信心のしるしを示せ」と仰って下さっていたのでした。ようやく、その真意に肯けるようになれました。相手を選んで方向をつけてくれたのでした。

親鸞はどこにいるのか

親鸞はどこにいるのか

  • 作者: 信楽 峻麿
  • 出版社/メーカー: 法藏館
  • 発売日: 2015/10/10
  • メディア: 単行本



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