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2013年4月1日号(第111号) ブログトップ

「自死」という課題―自らへの問題提起として  大松龍昭(こだま副編集長) [2013年4月1日号(第111号)]

1、なぜ「自死」の問題を問うのか?
近年、年間自死者数が3万人以上であること(昨年は下回ったが)は、勿論承知している。そして自らの現場においても、ご門徒の自死という現実を幾度も目の当たりにしてきた。したがって、この「自死」の問題は、私にとって喫緊の課題に違いない。実際、そう認識してきたつもりである。しかしこの「自死」という課題に、私は本当に向き合ってきたのだろうか。そういう自身に問題を提起するという意味で、しばらくこのテーマに我が身を照らしていきたい。

2、「自死問題実態調査」から見えてくるもの
宗門は、2008年に全ヶ寺に対して「自死問題実態調査」を行った(回答数は30%以下)。その分析結果の中から、ごく一部を紹介すれば、「自死は、命を粗末にしている」という設問に対して、68.7%の人が「思う」、「やや思う」と答えている。また、「自死は、仏教の教えに反している」との設問には、74.1%の人が「思う」、「やや思う」と答えている。恥ずかしながら、私はこの調査に回答したのかどうか、その記憶すら定かではない。それも含めて、この内容は私の現実を良く表していると思う。

3、私の立ち位置
藤澤克己師(「自殺対策に取り組む僧侶の会」代表)は言う。「僧侶の多くは『自死遺族の気持ちはなかなかわからない』とよくいいますが、それは遺族が話せないからなんですよ。お通夜や法要で、自殺で亡くなったと言えば白い目で見られるかもしれないと思って話せない。また、話したところでどうせ『命は尊いから大切にしなきゃいけなかったのに』と言われるのが関の山だから話すだけ無駄だと思ってるかもしれない。両方あって話せない」。
私はご門徒の自死者の通夜・葬儀の際に、その方が「自死」であったことを知らずに勤めた事が何度もあった。だから「言ってくれば良かったのに。どうして?」と私はずっと思っていた。しかしこれは、藤沢氏が指摘する自死遺族の感情を、私が看取し得ていなかったという事に他ならない。そういう私の立ち位置、それがまず問われなければならない。

4、自死者=仏教に反し、命を粗末にした人なのか?
「不殺生」という釈尊の戒めより、僧侶は「命の尊厳」を説く。私もその一人であり、それ自体は間違っているとも思わない。しかし「自死者」をも、その観点から「殺生した者、命の尊厳を知らざる者」と見てしまう傾向が私たちにはある。先の調査はそれを表しているし、私も自覚なき所でそれを内包していたのだと思う。だとすれば、こうした仏教的な認識は、「自殺=世間に顔向けが出来ない」として白い目で見る社会通念と、良く同居してきたに違いない。
自死者が一気に三万人に達したのは1998年。金融破綻が続発し、これに伴って企業倒産件数も負債総額も九十年代で最悪になった年である。これは家庭環境にも影響を及ぼしただろうし、将来への不安感は若年層の生きる希望も奪ったことだろう。
鍋島直樹師(龍谷大学教授)は言う。「(年間三万人以上という)この数は、2003年以降続いているイラク戦争による民間人死者数に匹敵する規模である。(中略)その意味で現代の日本は、いわば『戦場』以上に人命が危険にさらされている現場であるとさえいえるのかもしれない」と。すなわち、自死者とは「命の尊さを知らず」、「命を粗末にした」のではなく、生きたくてもどうしても生き抜いていく事が出来なくなるまで追い詰められてしまった、鍋島氏の表現に沿って言えば、その「戦場」に倒れた犠牲者、と言い得るのではないか。

5、自死者の「命の尊厳」
自死の原因は身近な人ですら全く分からない事が多い。それ故に遺族の方はその原因を自らに向け、更に苦しんでいく。だから私たち仏教徒は思うのである。私たちが頂いているその仏教をもって、何とか力にはなれないのだろうかと。私もそう思う。しかし、自死を生み出す構造的な背景と遺族の心情を看過したまま、ただ教義をもって相対するならば、これまでも、そしてこれからも、私は「命の尊厳」という言葉で、自死者そして遺族の「命の尊厳」を著しく踏みにじっていくことになるだろう。
「自死」についての僅かな問題提起も出来ぬまま、すでに一面を費やしてしまった。またの機会があればとも願うが、諸氏のご意見・ご教導を頂ければ幸いである。(種山組・大法寺住職)


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編集後記 [2013年4月1日号(第111号)]

◇昔、教区の大先輩から聞いた話「教区割り当ての大法要懇志をプール(本山に収めず)して東京に熊本寺(通称)を建てよう」と真面目に論議されたことがあったという。
 東京に出られたご門徒に寺の紹介を頼まれるたび、熊本とは違う「敷居の高さを」説明しながら、本当に熊本寺があったらなぁと思い出す話だ。
 過疎対策シリーズの一として、都市開教の現場の声を寄稿いただいた。簡単ではない都市開教の実情ではあるが、「敷居の低い」お寺、念仏道場のニーズは確実にある。

◇これも昔の話、故高千穂正史師が熊日紙の連載コラムに「いのち我がものに非ず、その意味で自殺と他殺に差異はないのではないか」と説かれた。後日話題にすると「難しか問題ばってん、若っかもんに云わなおれんでしょうが」と何度も繰り返された。
 「自死・自殺」について、編集子の問題提起に「こだま」していただけたらと思う。(甲斐)
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