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1998年1月1日(50号) ブログトップ

こだま公開講演会要旨 小山一行 [1998年1月1日(50号)]

 今年の十月、筑紫女学園大学の国際文化研究所の主催で『現代の不安と宗教』というシンポジュームをやりました。その時、講師の山崎龍明先生が「非常にショックだった」と紹介された話があります。オウム教の若者に「人生に悩みを感じ、生きる道を探求したいと思った時に、お寺はたくさんあるのに、どうしてお寺の門をたたかなかったのですか」といった時に、「私にとってお寺は単なる風景の一コマにすぎませんでした」と言われた。

 また、小沢浩氏の『新宗教の風土』の中に、親鸞会に入信した早稲田大学の学生がでてきます。彼は、大学のキャンパスを歩いていたら、後ろから呼び止められて、「あなたの人生の目的は何ですか」と聞かれて、ドキリとしたと語っています。ドキリとしたことは、宗教的に深いものがある。

 今、沢山の若い人たちが、新宗教に入信しています。

 それをどのように受けとめるのか。あんなものはいかがわしいんで、つまらんと片づけてしまえば簡単ですけど。現代の若者たちが、人生に疑問を感じ、深い精神的な充足を求めた時に、全国一万ヶ寺のお寺は対応する力を失いつつあります。


   現代の問題
 それは、実はいまに始まったことではなくて、明治時代からおかしくなっている気がします。大江健三郎さんが、ノーベル文学賞を受賞した時の記念講演の題は、「あいまいな日本の私」でした。その言葉が象徴しておりますように、西洋の文明を取り入れているうちに、日本人が長い間育ててきた精神的回路、日本文化の根底にあった仏教というものを、見失ってしまったのじゃないか。

 実は、西洋のほうでは、三十年前ぐらいから、現代文明が宗教を考えていくうえで、大変な問題を含んでいると考えられるようになりました。

 ハーヴェィ・コックスは『セキュラー・シティ(世俗都市)』を書いています。キリスト教の場合、天地創造の神に、「天にましますわれらの神よ」と祈りを捧げ、神のみ心に従って生きよう、という形でやってきた。

 「天にまします」という感覚はイスラエルの荒涼とした乾燥地帯のものです。現代の世俗都市では、「天にまします」といっても、天など見えない。ビルの谷間から見えるのは、狭い空です。

   非神話化
 天地創造の神話に基づいて、バージンマリアから神の子イエスが誕生して、人類の救済を行ったというキリスト教の枠組みが、現代文明の若者たちに説得力を失っている。 そこで、神話のもっている宗教的意味をもう一度とらえ直すという取り組みをしたのが、ドイツのブルトマンの「非神話化」です。物語が伝えようとした宗教的な中身を現代に通じるように取り出していくことが必要なんです。

 私は真宗においても、同じ課題を問われている気がするんです。

 法蔵菩薩が願を建て、阿弥陀仏となったという「法蔵神話(物語)」がもっている宗教的な内実をどのようにとらえるか。真宗を学んでいる人々の間では、ブルトマンがいっている危機感を持ってとらえられていないのではないかと思います。

 これまでの浄土真宗の学び方は、聖道門と浄土門、自力と他力などの真仮廃立で、浄土真宗の独自性を強調してきた。他との違いを強調する教判も教団を作り上げるうえには必要だったでしょう。

 うちの学校の入学式は、袈裟・衣をつけて『讃仏偈』をお勤めします。入学してきた学生は、腰をぬかさんばかりに驚きます。めでたい入学式に、なぜ葬式のお経をあげるんだ。何人かは、退学届けを出そうかと思ったといいます。

 仏教に対して、白紙ならいいけど、奇妙な先入観をもっている。そういう若者に、十八願と二十願はどう違うんだという話をしても説得力はない。

 私たちは、浄土真宗の独自性、卓越性を強調するあまり、人間の生き方として普遍的なものがここにあるんだというアプローチができていない。


   世界の浄土真宗
 何年か前、京都で龍大創立三百五十周年記念のシンポジュームがありました。そのとき、ハーバード大学の神学者、カウフマン先生が「浄土真宗に対する問い」という提起をなさいました。

 例えば、法蔵菩薩は一切の衆生を救うという願を建て、願が成就しなければ仏にならないとお誓いになって、阿弥陀仏になられている。しかし、世界中にはまだ救われていない人がいる。とすると、法蔵はまだ弥陀になっていないのか。なっているなら、救われていない人がいるのはどうしてでしょうかと質問になった。

 答えにたたれた真宗学者は、十劫久遠の安心論題の話をされた。

 カウフマン先生の真意は、法蔵菩薩が願を建て阿弥陀仏になったという物語が、現代の生活実感のなかでどのように受けとめられる可能性があるのかということだったのです。

 世界の中の浄土真宗であらねばならないのです。

 世界の人々が、一人の人間として人生を生きようとする時に、どのような立場の人もうなづくことができる普遍性があるかどうかです。


   仏教の根本原理
 そもそも仏教とは何だったんだろうか。釈尊の目覚めの中身は何だったのかという根本に立ちかえって、そこから浄土真宗を考えるという作業が必要なんではないかという感想を持っています。

 龍樹菩薩は、『中論』の最初にある「帰敬偈」に、ブッダは縁起をお説きになった、仏教の根本は縁起であるとおっしゃっています。

また、因縁によって生じることは無自性、空なんだと教えられています。

 私どもも、様々な因縁によって生かされている、おかげさまでといっています。しかし、私という人間がいて、様々な因縁によって支えられているということだったら、お釈迦さまが覚ることもいらないのじゃないでしょうか。

 「私が縁起である」と考えてしまうんですが、「縁起が私」なんです。様々な因縁によって、揺れ動いて活動している、それが私であって、因縁を一つ、二つととってしまうと何も残らない。空なんです。それが宇宙の真実のすがたであって、そこに目覚めるのが仏教です。如来の本願というのは、そこに目覚めてくれといっているんです。

 それがわからず、私がおかげさまで生かされているというのは、かなり危険なんです。「如来さんのおかげ」とよく聞きますが、我を前提にしていると、我の都合が悪くなると「神も仏もあるものか」となる。
    
 浄土真宗が現代の課題に応えられなくなった原因の一つは、私たちの学び方が、これまでは行信論が中心であったことにあります。これから、浄土真宗が普遍性を回復していくためには、仏身、仏土が中心にならなければならないと思います。信心が大事といってきたが、その根本になっている仏とは何なのか。超越的人格的な阿弥陀仏が彼の土にましまして、その本願を信じて救われるんだという図式で真宗を理解してきたが、現代の苦悩している人々にどれほど説得力をもちえるのか。


   釈尊と阿弥陀仏
 阿弥陀仏とは何かがあいまいであることは、釈尊をどう見るかがあいまいであったからではないかというのが、私の感想です。

 それで阿弥陀仏が、「阿弥陀如来の袖にすがる」と、人間のようになっている。

 大乗仏教は、歴史上の一人物としてのブッダのなかに、普遍的なものを感じるところから出発している。それは、ブッダの死を通して深められた仏身観といっていい。

 『大パリニッバーナ経』の人間ブッダから『大般涅槃経』の一切の罪深きもののために死なないという久遠の仏への深まりだ。

 その中間に『仏遺教経』があります。お釈迦さまが亡くなられる時、「汝ら展転してこの行を行ぜば、如来の法身常住にして不滅なり」とご遺言なさった。父母から生まれた身体はなくなるけれど、法身は常住で永遠に残る。この法を依りどころとして生きなさい。

 この法のはたらきを具体化しようとして出てきたのが、阿弥陀仏なんです。お釈迦さまのさとりの中身の法を伝えようとする枠組み、桐渓和上は「象徴」とおっしゃっています。

 私は縁あって私となっている。ゴキブリは縁あってゴキブリとなっている。そこにはきたないとか、きれいとかいうものはない。すべてのものは因縁によって生じている。それを知らないで、我というものがあるとしがみついて、握りしめているから苦悩が生じる。

 阿弥陀仏というのは、あなたがおれのものと握りしめているのは空しいことなんですよと、目覚めさせようとする法そのものの働きのことをいっているだけです。親鸞聖人は「阿弥陀仏は自然のやうをしらせんれうなり」とおっしゃった。

 なのに、人格的な救済者ということで、ありがたい阿弥陀様、お慈悲を喜べということだけで、真宗を語ってきたのでした。


   浄土の問題
 仏教の根元にもどって考えてみますと、お釈迦さまは死後の世界を説かないですね。十四無記といいまして、この世は永遠であるか、世界に果てがあるか、死んでからどこに行くのか、そういう問題にお答えになっていません。

 我という霊魂に執着するから、死んだらどうなるのかと、丹波哲郎みたいになる。

 魂とか我とかはない。因縁によって生じた、いただいたいのちだということですね。そのことに本当に目覚めた時に、私とか、あなたとか、勝ったとか、負けたとか、きれいとか、きたないとかから解放される。

 それを浄土というんです。

 天親菩薩は「観彼世界相、勝過三界道」、お浄土は私たちの思いによって作っていくものではない。

「究竟如虚空、広大無辺際」はるかに超えていると言われている。

 しかし、私たちは「お浄土でまた会いましょうね」という。これは、先祖の霊を供養して、子孫が栄える、供養をしないと霊がたたるという、日本人の考えてきた霊魂の問題です。仏教ではなくて、バラモン教です。浄土真宗が、仏法の根源に立ち帰って普遍性を回復できなければ、真宗に未来はないのではないか、という問題提起をさせていただきました。(文責記録者)
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差別法名に学ぶ<差別法名・過去帳調査にあたって>2  島北皎誓 [1998年1月1日(50号)]

 1983年1月28日、矢部同和教育研究サークルが、おおよそ一年に亘る調査の結果として、《本派門徒墓石に「釈尼妙 信●(1)」と刻字されている》と問題提起したことにより、宗門の本末共にはじめてその存在を知った。

 このことは、教団の同朋運動の不徹底さと僧侶の差別体質を問うものであった。

一、あなたが同朋運動と言われる 運動は、現に差別の苦しみにある人と共にある運動ですか。 差別の事実の上に立った運動ですか。

二、あなたはあなたの門徒やあなたと共に在る一般社会人が、墓や墓に刻されている文字に、どのような考えを持ち、どのような思いを抱いているか知っていますか。

と問われている。

 しかし、同朋運動の不徹底さゆえに、又僧侶の差別体質ゆえに、その問いを問いとして受けとめることができなかった。

 最初のボタンを掛け損ねたが故に、次々と同朋運動の底の浅さと僧侶の差別体質をさらけ出し続けることとなった。

 問われていること その二

 同年2月14日、同朋運動本部と教務所関係者、そして所属寺と調査に関係のある本派住職によって、第一回目の現地調査が行われた。

 そして「一見して奴と読める」「これは差別を温存し助長するものだ」との見解が出された。

 第二の問いとして、
一、あなたはこの「釈尼妙 信 ●(1)」を見て、どう思い、どう感じ、どう考えますか。
二、あなたは、いま被差別者側に立ってこの墓の前に立っていますか。
三、あなたは、いま自らの差別性 見えていますか。
と投げかけられている。

 この問いも、ほんの限られた少数の人の問いにしかならなかった。

 それよりも、この調査は連絡不充分ということで、矢部同研サークルの人も部落解放同盟矢部支部関係者も不参加のまま行われた。今から考えると同朋運動の弛みと言えるこのことが、当時は何の不審もなく終わっているのである。

 差別法名の墓石ありとの問題提起に対し、「問題にしてはならないの思いか、「問題にしたくない」の思いか、あるいは本当に「何の問題もない」の思いか、さまざまな思いが絡み合って、自らの責任ある判断を放棄した状態であったと痛く思い出される。

 教区の同朋運動が問題を明確に受け止め、正しく判断し、迅速に運動化するに至っていなかったと言える。このことが本部と教区の温度差・不統一となって表われ、問題を益々困難なものにした。

 同年2月15日、矢部同研サークル機関誌21号が発行された。

 『矢部町にも「差別法名」の疑い―急がれる本格調査―』と題して、「釈尼妙 信 の他に異体文字・判読の難しい不明文字・字画の足りない文字三十基。なぜ被差別部落に集中してあるか。」と記され発表された。

 教区はこのような度重なる刺激と本部の要請を受け、3月31日に「矢部町墓石問題調査委員会」を発足させた。

この会を中心に現地懇談会・研修会・学習会・解放運動行事参加等々の運動がなされ、同朋運動の活発化が見えた。

 しかし、この活発に見えた同朋運動も、問われている第一・第二の問いに目覚め、真摯に応えるものではなかった。それ故に、宗門のガード固め・組織を守る・自己保身の運動とならざるを得なかった。

 一方本部の方では、4月28日、部落差別と宗教研究会において再度の問題提起を受け、7月上旬に関係者並びに関係運動体と連絡を十分とって、現地調査を行い、しかるべき運動の展開をする旨の約束がなされた。

 6月26日、教区の調査委員会は「現段階における確認事項」をまとめ、本部に提出した。それは

①墓石の「釈尼妙 真●(1)」は過去 帳の記載と異なり、過去帳には 差別的表示はされていない。したがって差別法名とは即断できない。 推測の範囲であれば様々な可能性も考えることができるが、いずれも現段階では決定的根拠を示し得ないものである。従って差別墓石として規定する。

②このような墓石が長い間現存していることは事実であり、そのことに気付かないまま今日まで来たことを真摯に受けとめ、同朋運動不徹底を反省せねばならない。であった。(山鹿組・光正寺住職)

(1)「奴」に点を付した文字

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変革上人の御法要は宗祖の思いに還る変革で  禿 浩道 [1998年1月1日(50号)]

 本願寺新報に、組巡教に於ける法座の、物忌みしない真宗で、ご正忌や年忌と「忌む」文字を使うのは何故か、との質問へ、本願寺の担当者の答えが載って居た。(一九九四年三月一日号、新報二面
を御覧下さい。)

 それに納得しない備後教区の住職が担当者に問うた答えのゆきかいは、本願寺新報には載りませんでした。

 従いまして、「こだま」の使命として、広くさまざまな声を、こだまさせ合う所に出発しました季刊紙として、その問答のさわりを御紹介します。

  新報に載らなかった問答のさわり
 質問二の⑤ 親鸞聖人は「死穢」などの「忌み」思想がひろまり、中陰・年忌等の追善供養が勤められていた時代に、まったく「忌」という言葉をつかわれていませんが、あえてつかわれなかったと私は思いますが、どうでしょう。

 この他に⑬項目の質問を列記されて、最後に、書面にてお返答いただければと切に願うものです。と問われ

 本願寺担当者は私信として
 先日から大変有り難うございました。ご要求の文は書かないことにいたします。(中略)何よりも負担が重すぎてへしゃげそうですのでお許し下さい。と答え、問答にピリオドが打たれている。

 このような問答がゆきかっております。こうした問答を通して読者の頭の整理にお役に立てればと存じます。もう少し全体の問答の詳細をご希望の方は、お申し出下さい。

 結局、この問答であきらかになった事は、宗祖の思いから、かけはなれた、長い歩みを歩み続けて来た歴史を背負って居る本願寺がその歴史の足かせによって、答えに窮したのでありましょう。

 法座の問いに於ける、物忌みしない真宗で、ご正忌や年忌と言って忌む文字を使うのは何故か?という門信徒からの問いに対して、その答えを引き出すには、宗祖の著述から引き出すのが本来でありましょう。
 宗祖の思いのあらわれた所は、御消息四三通(注釈版八〇八頁)をお読み頂きたい。

 法然上人のご命日を、念仏につながる良き御縁の日として集い、自覚覚他の目覚めの場となる法事にされていらっしゃる。

 この事を通してうなづける事は、注意深く忌の言葉をさけて表現されている。

 その他一切の宗祖の著述に「忌」という言葉は登場して居ない。

「親鸞聖人著作用語索引・教行信証の部・和漢撰述の部」でも索引する事が出来ない。という事は、一生涯意識して、この言葉をお使いにならなかったのだなあ!と強固な意思に感動を覚ゆる事です。

 真宗に於いて、是非とも、日本古来の習俗にしばられた世界から脱却したいという強い意思が読み取れます。真宗であればこそ脱却出来る、阿弥陀如来の救済があるから習俗との決別が出来るとのお手本を、その生涯を通してお示し下さって居る証拠でしょう。

 如何に習俗が民衆を誤らせたか、苦悩に陥れたか、その苦悩を乗り越えて行ける道が真宗にある。忌むという文言を必要としない宗教が親鸞聖人によって登場したのであります。ところが本願寺教団としての歩みの中でこの親鸞聖人の思いが、どこへやら抜け去った反省すべき時を過ごしてしまった。
 来る、変革上人の御法要は、是非当初の宗祖親鸞聖人の思いに還える法要に致したいものであります。
 都合よく変革の上人と特色される上人の法要です。最も大切な変革を起こしましょう。宗祖がなさった法然上人の御法事のように、単なる行事の消化ではなく、自らも大衆も物忌みからの決別を遂げる法要に致したい。つまり遠忌という言い表し方を止めた大法要で新生の本願寺と成る事を切に念
願する次第です。(小国組・善正寺住職)

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編集後記 [1998年1月1日(50号)]

◎今年は蓮如上人法要の年、「蓮如を」学ぶによい機会である。
 蓮如上人に関する多くの出版物の中、「蓮如」への〈批判・鑽仰〉の論が交わされた『続・蓮如への誤解』(永田文昌堂)の、次の一文(要旨)が目にとまった。

 「親鸞から二百年も隔たりがある蓮如は、親鸞の言葉のオーム返しをしなかった。なのに今、五百
年前の蓮如の言葉を繰り返している」、「最重要な問題は、相手にどう伝えるかということ以前に何を伝えるかである。よりラジカルには何をどう生きるかだ。それが親鸞と蓮如とは違う」と。

◎この指摘の賛否はそれぞれあろうが、法座の最後に「肝要はご文章で」と拝読する慣習が象徴しているように、今日の教団・教学は間違いなく「蓮如」である。

 私には、一体この路線の彼方に「真宗の未来はあるのだろうか?」という思いがつきまといます。

◎この問題を抱える中、小山氏の公開講座が催された。本紙にその要旨を掲載したが、遠藤師のお便り、禿氏の提言、また島北氏の報告も、その延長線上で示唆に富むものであります。

 皆さまのお考えもお届け下さい。

◎今号で五十号を数えることになります。今日まで皆さまのご援助で発刊できましたことを心より感謝申し上げます。(藤岡)

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