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2005年10月1日号(第81号) ブログトップ

宗教者と憲法問題①  元龍谷大学学長 信楽峻麿(文責…編集部) [2005年10月1日号(第81号)]

 戦時下の三つの問題
 私は若い時から、一貫して戦時下の教団を批判してきました。例えば、かの戦争への加担・教導を説いた前門主の消息。あるいは、天皇を批判したような聖教の文言をカットした、いわゆる「不拝読の通達」。さらにはまた、聖徳太子と七高僧の安置を逆にするよう指示した「奉安様式変更の達示」などについてです。この「奉安様式」について具体的に言えば、内陣に向かって右の方が上、向かって左の方が下になっているのですが、聖徳太子は江戸時代から左余間に安置してきました。ところが、教団は戦争および皇室賛美へと向かう中で、天皇の血を引く聖徳太子を下にすることを憚って、教団自らこのような指示を出したわけです。教団は、ようやく昨年になってこの三つの過ちを認める「宗令」「宗告」を発布しましたが、しかし実際は変わっていません。どうやらこれは、式務部の意向のようですが、要するに「誤った、間違った」と言うだけで中身を伴わない、結局はそれが今の教団の現実です。

 私が戦争を問う背景
 私がこのように戦争の問題をひたすら問うてきたのには理由があります。私は十八歳で徴兵されたのですが、敗戦後しばらくしてから故郷の広島へ帰りました。実家の数軒隣りに、小学校時代に仲の良かった友達の家があったんです。その家の前を通りかかった時、その友達の母親が私に「あんた、生きて帰って良かったなぁ。うちの子は死んだよ」と。この言葉は大変こたえました。私も命からがら戻ってきたんですが、「生きて帰ってきたというのは、罪の深いことをしたんだなぁ」と、私はその母親の嘆きの顔を見て思いました。「生きて帰ってきて悪かったんだ」というのがその時の私の実感…、それが私の生涯を決定したんです。

 いったい何がこうさせたのか、何が原因なのか…私はそれから学問の重要性を痛感し、宗祖に関するものはもちろん、とにかく手足を広げねばならぬと様々な雑学まで学びました。「世俗の話は関係ない。お念仏一つでええ」と真宗の学者は言う。でも、そのお念仏で戦争を始めたんです。だから、私たちも様々な角度から学ばなければならない。そうでなければ必ず足下をすくわれるのです。

 「人土成就」の願―私と社会のあるべき理想像
 さて、私の見方で申せば、阿弥陀仏の四十八願は、以下の三つに分類できると思います。一つは第一願から第十一願まで、これはいわば「人土成就の願」。そして第十二願から第十七願まで、これはいわば「仏身荘厳の願」。つまり、法蔵菩薩がどういう仏となるかという願い・計画です。それから、第十八願から第二十願まで、これはいわば「衆生救済の願」。そして第二十一願から四十八願まで、これはいわば「救済利益の願」。つまり救済によって、この世と死後にどのような利益を頂くのかということ。それで、私がここで問題としたいのは、その最初の「人土成就の願」のところです。人間と国土、それがどのようにあるべきか、その理想像がまずここで描かれているわけです。阿弥陀仏は、私たちを救うについて、まずこれを問題としたんです。

 具体的に言えば、第一願とは「無三悪趣の願」。三悪趣とは地獄・餓鬼・畜生のことですが、それは要するに私の心を象徴化したものです。すなわちそれは貧欲、瞋恚、愚痴であり、そういう悪心とそれが生み出す悪世界が仏国にはないことを願ったわけです。第二願とは「不更悪趣の願」。これは今の内容を重ねて誓うんです。つまり一度三悪趣を離れたらそこには二度と戻らないということ。したがって、この第一と第二の願とは、私たち人間一人ひとりの理想的なあり方について願ったものであります。

 そして、第三の「悉皆金色の願」とは、その仏国に生まれれば人々は皆金色に輝く人になるという願いであり、第四の「無有好醜の願」とは、そこには美醜、貴賎の差別がなく、すべてが平等であるというわけであります。したがって、この第三と第四の願いとは、この現実の人類社会の理想的なあり方について願ったものであります。後の第五から第十願までは、それをもっと具体的に明かしたものに他ならず、そして最後の十一願は、それらの理想の完成を示したのです。

 要するに私がここで申し上げたいのは、この四種の計画(第一~第四願)が、阿弥陀仏の我々を救うというそのスタートであり原点であるということ。真宗では第十八願から二十願だけを問題にしがちですが、しかしその前もしっかりと見なければなりません。ここをきちっと踏まえてお念仏を捉えないからおかしくなるんです。これから現代に、そして若い人たちに仏教・真宗を語る時にはぜひこのことを念頭において考えていただきたいのです。

教行証文類講義 (第9巻)

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  • 作者: 信楽 峻麿
  • 出版社/メーカー: 法蔵館
  • 発売日: 2006/06
  • メディア: 単行本


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新護持口数調整を顧みて―一委員の感想―  玉関組委員 加藤慧雲 [2005年10月1日号(第81号)]

 一、はじめに
 今回の新護持口数の調整には結論が出て、教区内全寺院に数値資料が公開されました。
 今更申すこともありませんが、「こだま編集局」から依頼がありましたので、調整委員会審議を通して感じた一端を述べて、責めを果たしたいと思います。

 二、現行護持口数について
 審議資料の公開後、これは、新護持口数(以下「新口数」)の審議ではなく、現行護持口数(以下「現行口数」)の修正審議かと錯覚するほど、現行口数の不公平が激しく非難されました。

 現行口数はどのようにして確定したのでしょうか。

 現行口数は、教区内の全寺院の住職が、自分の寺の宗門護持能力の口数を、自からの責任において自主申告したもので、それがそのまま認められたといわれます。(二年くらい後に確認申告して、確定したという説もあります。)

 完全な自主申告ですから、組内会はあったかもしれませんが、教区による調整の必要はなかったはずですし、また、特に公開の必要もなかったと思われます。

 ところで、公平・不公平は、二つ以上の物事の間の均衡の問題ですから、初めからそれを考慮する必要のなかった現行口数を不公平というのは筋違いです。

 現に、賦課金や門徒講金でも、少なく申告したA寺のために、多く申告したB寺が被害を被っているとは考えられません。

 三、目標護持口数有無の相違
 しかるに、今回の調整は、宗派が教区に割り当てた目標護持口数(以下「目標口数」)を、教区内の全寺院に配分する作業です。

 つまり、現行口数のときのような申告数の積み上げとは逆の作業ですから、今回の最重要課題は、どのようにして目標口数を469ヶ寺に「公平に」配分するかということになります。

 何故なら、今回は、A寺が不当に少なく配分されれば、その差を、B寺が余分に負担しなければならなくなるからです。

 なお、目標口数30184口は、現行口数の教区合計43285口の約70%ですから、約30%の減少になります。単純に考えれば、各寺院は現行口数より約30%分少なくなる計算です。

 四、調整の基本的な考え方
 調整委員会は、「目標口数」配分の基準として、「門徒数」(いわゆる「B案」)を用いることを決定しました。
 その「B案」を用いて、初期の段階で確認されていた「調整の基本的な考え方」を述べますと、①各寺住職が「B案」を順守した門徒数を報告し、②その報告数の教区合計で各寺の報告数を割って比率を出し、③「目標口数」にその比率を掛けると、④各寺院の口数は算出できる。⑤生じた誤差を調整することになります。
 そのためには、「各寺住職がB案を順守した門徒数を報告すること」が、大前提となります。

 五、上・下限を用いた調整案
 調整の終盤に、上限・下限を設けて、複雑な数式で切り下げ・切り上げを行って調整しようという新たな提案がありました。
 この新提案は、先に述べた「基本的な考え方」に抵触するものであります。
 また、これは、審議を進めるための打開策でありますが、同時に、報告数の中にB案を順守していないものがあることを暗に認めたものでもあります。
 これでは、公平性の確保はできないと言わざるを得ません。
 委員会は、この時点で、①各組に対して改めて「B案」順守の修正を命じるか、あるいは、②暫定的な新口数を検討するかを決断すべきだったと考えます。

 六、当初の「見直し」の意味
 また、当初確認された「見直し」は、公平に配分された新口数について、過疎・過密等の社会情勢の変化に応じて見直すことでした。
この「見直し」は未だ検討されていませんが、忘れてはならない重要な約束であります。

 七、今後の課題
 今回の調整において、最重要課題であった「公平性」を確保できなかった理由は明らかです。
 もしこの事態を打開する道があるとすれば、それは唯一「住職の良心」の眞の目覚めにかかっていると思っております。
 終わりに、凡愚の不得要領の感想で申し訳なく存じます。ご容赦下さい。        合 掌

浄土真宗聖典―註釈版

浄土真宗聖典―註釈版

  • 作者: 教学伝道研究センター
  • 出版社/メーカー: 本願寺出版社
  • 発売日: 2004/06
  • メディア: 単行本


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編集後記 [2005年10月1日号(第81号)]

◎お彼岸が過ぎても、日中はまだ真夏のような暑さが続いております。しかし月日は確実に進行し、もう10月1日号をお届けする時期になりました。

◎今号は、去る8月28日、「非戦平和を願う真宗者の会」主催の会合における信楽峻麿先生の講演要旨と、シリーズ「護持口数問題」を加藤師に執筆を依頼し掲載しました。

◎講演要旨はまさに講演の一部ですので、録音テープがご入用のお方には、コピーをして実費にておわけいたします。編集局宛お申し込み下さい。

◎護持口数問題については、全寺院が納得する数値にまとめることは至難なことと思われます。人口流動の激しい今日でもあり、教区も教団も二年毎に見直すことに決定しており、徐々に公平な数値に改め続けていくべきだと思います。しかし、公平性を目指す見直し作業の根底の問題を、加藤氏は、「唯一『住職の良心』の眞の目覚めにかかっている」と指摘しておられます。

◎先の衆議院議員の選挙では自民党が圧勝し、憲法改正も現実味を帯びてきましたし、右翼を名乗る暴徒が御影堂に乱入し、御堂の焼却と門主の殺害を企て、わが宗門の活動を封殺しようという時代になってきました。まさに戦前を髣髴とさせる不穏な時、私たち念仏者の腹の据わりが問われる時であります。〈崇信〉


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