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2011年1月1日(第102号) ブログトップ

「葬儀社さんに聞く」① 熊本の葬儀事情の今 [2011年1月1日(第102号)]

熊本市の老舗「島田葬儀社」島田会長とベテラン社員さん、また別の日に大規模葬祭場グループのマネージャーさん(会社名は伏せる条件)に熊本の葬儀事情についてお聞きしました


《「葬式はいらない」という本がベストセラーになったり、マスコミも葬儀形態の変化について多くとりあげているようですが、葬儀社として現状に対する危機感とかはあるのでしょうか》

「ずいぶん昔と変わってきたなぁ」という実感はあります。ただ話題になっている直葬(葬式をしないで直に火葬する)が四割近くという数字は東京ならではの事情があると思います。行旅死亡人というどこの誰かも判らない遺体が一日に二十体以上という現状ですし、もちろんこの方々は葬儀なしです。
東京二十三区には火葬場が民営の八ヶ所くらいしかありません。亡くなる人は増え続けるのに火葬場は増やせませんから、火葬自体が数日待たされることもあります。葬儀にかかる費用も熊本と比べるとかなり高額になるようです。(注:平成十七年に港・品川・目黒・大田・世田谷の五区合同で大井埠頭近くに火葬場併設の斎場、臨海斎場を開設した)。
東京では普段からお寺と縁を結んでおられる方のほうが少ないですから、実家と同じ宗派のお寺さんを頼んで葬儀をするとなると、いろいろな面での負担が大きくなります。無縁社会とも言われていますが、葬儀自体をプライベートなものと考えれば、しなくてもいいのなら、なるべく負担は減らしたいと思うのでしょうね。


《熊本ではどうなっているのでしょうか》

熊本でも葬儀をしないケースは以前からありました、財的な問題で出来ないというだけでなく、喪主のお考えで葬儀をしないということも少数ですがあります。

熊本市の場合、例えば亡くなられた本人が生活保護を受けておられて、縁者も葬儀費用を賄えないという場合には現在212770円の葬祭扶助費が出ます。その範囲で、或いは縁者の方々が少し出し合ってお経さんだけでもあげてもらおうということで、葬儀社からお寺さんに事情を話し、読経をお願いすることもありますが、そのまま縁者さんの会食費に消えて、お経もあげられないケースもあるわけです。

葬儀の問題だけでなく遺骨の行き場がなく、相談を受けることも結構あります。昔は熊本では考えられなかったような喪家の要望も聞かれるようになりました。危機感を持つというより、各地の葬儀事情の情報を入れながら、多様化する葬儀形態に対応できる準備は必要だと思っています。


《葬儀全般に関わる中で何が大切だと考えておられますか》
亡くなられたご本人にとって人生の最後の儀式です。喪主さんにしても、喪主を務めることは人生において何度もないことです。やり直しのきかないものですから、時間のない中でも後悔のないよう
「いい葬式だった」と皆さんに言ってもらえるよう、十分に手助けするのが私たちの仕事です。
まあ具体的には依頼者である喪家に満足してもらえるようにアドバイスする。喪家はもちろんですが、どのようなご親戚がおられるか、どのような会葬者さんがどれくらい来られるのか、それによってどんな問題が起こり、何を準備したらよいかなど、経験を積んだ私たちでなければ出来ないアドバイスです。

お布施の金額も含め、お寺さん関係の相談も私たちにされることが多いのです。直接聞かれたらいいのにと思いますよ、間に立ったばかりに、住職さんから叱られることもありますから。


《僧侶側からの指摘や苦言があったときどのように対応しておられますか》
失礼のないよう勉強させていただくつもりで、ご指摘をうかがいます(笑い)。

ホンネを言えば、私たちは喪家の意向を無視して式次第を決めることはありません「私たちにではなく喪主に言ってくれ」と、言いはしませんけどね。

住職さんによって様々なんですが、「こうあるべき」とこだわりの強い住職さんもおられます、なぜご自分の寺の門徒さんに普段から教えてないのだろうとは思います。


《映画「おくりびと」がヒットしましたが、なにか影響をおよぼしましたか》
ご遺体に丁寧に接するということがあらためて見直されたかもしれません。「納棺の儀」として納棺を儀式化するような、ただ葬儀式自体が影響を受けたとは思えません。それよりも社員というか葬祭業に関わるものにとってのイメージというか、良い影響はあったのではないでしょうか。
次号につづく


(文責・編集部)
現代日本の死と葬儀―葬祭業の展開と死生観の変容

現代日本の死と葬儀―葬祭業の展開と死生観の変容

  • 作者: 山田 慎也
  • 出版社/メーカー: 東京大学出版会
  • 発売日: 2007/09
  • メディア: 単行本



「通夜・葬儀」を「仏事」とするために  三組(八代組・種山組・益西組)合同の取り組みを通して  大松龍昭 [2011年1月1日(第102号)]

ここに述べる内容は、葬儀社主導の「通夜・葬儀」の問題点を問うてきた、近隣三組の取り組みの報告である。つまり、僧侶である私たちの関わりが奪われたことが、「通夜・葬儀」の形骸化を招いた、という認識がそこには確かにある。しかしそれは、その葬儀社抜きにして成り立たない現実を早くから目にしてきたにも関わらず、「共に向き合い、共に考える」という、至って当然の作業を私たちが怠ってきたからにも違いない。

以前から取りざたされながら進まなかったこの作業は、三組という枠組みに広げた所からようやく動き出した。昨年に三組の組長・相談員の六人で検討委員会を立ち上げて、そしてそこで色々と出された問題点を各組に持ち帰りながら、最終的には「最低限これだけは」という五点に絞られた。それは、

①「通夜・葬儀」の日時の決定について、
②「友引」について
③「清め塩」について
④「告別式」との表現について
⑤「お見送り」について
、である。

①は、主に斎場使用の都合等により、得てして葬儀社と遺族の間で先に決められている事を問題としたもの。ここで早くも僧侶の関わりを軽視されたのでは、その後全般に支障をきたすことになるからである。例えば、②の「友引」の問題は、この日時の決定の所でやり取りされるわけだから、その場に立ち会えなければ後手を踏むだけでなく、私たちの説明責任も果たせなくなってしまう。

③の「清め塩」の問題は、すでに解決している地域も少なくないはずで、この点は「遅まきながら」と言う他はない。

④は、要するに葬儀は「告別式」にあらずとの主旨。葬儀は「浄土」というまた会える世界を確認する場であり、また亡き人は仏と成って常に私たちに働いて下さるから、私たちの合わせる手の中に、こぼれる念仏の中にいつでも会うことができるのであって、決して「別れ」ではないと。要するにこの 「告別式」 の問題は、「法にあうご縁」、即ち 「仏事」としての葬儀の意義そのものに関わるのであって、最も看過できない問題だと私は考えている。

⑤は、通夜・葬儀終了後に、遺族を出入り口に立たせて会葬者に礼をさせる、昨今斎場で良く見られる光景である。しかし、大事な人を亡くし顔を伏せて悲しむ遺族を出入り口に引っぱり出す事は本末転倒と言えないだろうか。会葬者が遺族の元に足を運んでお悔やみを申す、そうした本来性が失われるのではと危惧するのである。

以上、こうした五つの問題点について、まず近隣の葬儀社八杜にアンケートを送付して、その認識と対応を調査し、またそれらを資料化して三組合同で門信徒会運動研修協議会を開いて意見の集約を図り、そしてその葬儀社八社(出席は七社)との協議会を設けるに至った。今回は、全体的に僧侶側の問題意識を理解してもらう形となったが、葬儀社サイドの抱える現場にも配慮しなければ、この問題の解決がないことも確認できた。

考えてみるに、私たちは葬儀全般に対し、何かしら冷めた態度で接してきたような気がしてならない。仏教が本来、そうした営みを目的としていないことは、僧侶なら誰でも知っているからである。だから、どこかでそれを「俗事」として見てきた傾向がなかっただろうか。自らの法務の大部分を費やし、しかもそれに寺の収入基盤を頼ってきたにも関わらず、である。葬儀社と向き合わず、現場の主導権を彼らに許してきた要因が私はそこにもあると思うし、昨今の「直葬」や「葬儀不要論」も、そうした私たちの姿と無縁ではないはずだ。

だから、『こだま』の記念講演会で青木新門さんが、映画『おくりびと』に寄せてお話をなさった時、「あの『おくりびと』は、「送りっぱなし」で終わってる」と指摘されたが、それは僧侶に向けられた言葉に私には聞こえたのである。つまり、葬儀を「おくりっぱなし」と化し、そして形骸化させたのは、他ならぬ私たち僧侶ではなかったのか。『葬儀規範』に「葬儀は仏事である」と明記しながら、果たしてどれほど本当に「仏事」とすべく努力をしてきたのだろうか、と思うのである。

寺と門信徒の関係が希薄化する故に、これから更に「直葬」も「葬儀・寺院不要論」も現実化していくであろう。しかし、またそうであるからこそ、通夜・葬儀が初めて仏法にであう重要な「仏事」へと、より一層成し得てもいくはずである。「葬儀社との対話」を中心とした今回の私たちの取り組みも、そのために不可欠な試みであったと私は思っている。《種山組・大法寺住職》


Q&Aでわかる葬儀・お墓で困らない本

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  • 作者: 碑文谷 創
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編集後記 [2011年1月1日(第102号)]

◎12月20日、念仏者九条の会全国集会に参加し、津田塾大学准教授 萱野稔人さんの講演を聞かせていただいた。

◎小泉改革がもたらした雇用形態の変容は若年層を経済的に追い詰めただけではなく、これまで多くの人が「仕事」によって得ていたであろう自身の存在意義の確立も阻む結果となってしまった。

◎この存在意義喪失の世代を魅了たがナショナリズムであり、彼らはここを根拠に自己のアイデンティティを確立しようとしたのである。これが社会全体が右傾化している一因なのである。

◎宗教はナショナリズムに変わるアイデンティティ構築の根拠と成り得るはずである。しかし残念ながら我々は彼らに届く言葉を持ち得ていない。これは教団全体としても僧侶個人としても課題なのではなかろうか。(崇史)


「生きづらさ」について (光文社新書)

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  • 作者: 萱野稔人
  • 出版社/メーカー: 光文社
  • 発売日: 2008/07/17
  • メディア: 新書



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