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2007年10月1日号(第89号) ブログトップ

有縁の皆様へ  釈 慧水(小山郁子) [2007年10月1日号(第89号)]

 この夏、私は30年ぶりに、若いころ過ごした東京の築地を訪れました。地下鉄の階段を上り、暑い日差しを避けながら道向こうの国立癌センターに入ると、沢山の人々であふれていました。今は三人に一人が癌で亡くなる時代ですから、驚くことはありません。病名の告知も一般化し、場合によってはその場であと半年、一年という説明もあります。そういう期限付きの状況で、日々を過ごしている人が沢山いるということです。

   現代は「死が見えない時代」といわれます。誰もが「生」を楽しむことに心奪われ、自分の死と向き合おうとしない、という意味で使われているようです。けれどもそれはただ「見えない」だけ、あるいは見ようとしないだけでしょう。死と隣り合わせの日々を送っているという事実は、親鸞聖人の時代も現代も、同じなのです。日常の生活から「死」を片隅に押しやってきた結果、実際に死と直面する事態になると、現代人は昔の人より何倍も重いものを負わされるようになったといえます。働き盛りの人は敗北感を抱き、周りに迷惑をかけたくないと思う人は罪の意識さえ感じるでしょう。一人で逝かねばならない孤独感はもちろんのことです。こんな時代だからこそ、浄土真宗の社会的使命は、蓮如上人のお勧めになった「後生の一大事」を心にかけて生きる道を、指し示すことであると思います。

 先年のことですが、教区の婦人会の法座で、ご講師さまが楽しく、珍しく、面白いお話をなさいました。場はなごみ、笑い声の中に時間が過ぎていきます。すると、ご講師は「あれ、もう時間がない」といって終わられました。私は、「あぁ、このようにして時はむなしく打ち過ぎ、人生終わるのか」と思いながら、お念仏申すよりほかはありませんでした。またある時は、自己紹介だけで前の座は時間切れ。法座の後座はあるのだけれど、人生の後座はないものだと思うと、またお念仏を申すばかりでありました。難しい話をすると、人は敬遠すると思っておられるのでしょうか。如来の仰せに難しいことがあるはずはありません。どうぞ若いご講師さま、声高らかに後生の一大事をお説きくださいと願ってやみません。

  浄土真宗800年の社会的責任は、人々に「癒し」や一時の慰めを与えるだけのものではありません。それらは副産物であって、「後生の一大事」を明らかにする日暮しを送ることこそ、孤独に打ちひしがれた人々に、共に歩む者がすぐ隣にいることを知らせる唯一の手だてだと思います。若者に人気の歌があったり、耳に心地よい慰めの詩が語られることがありますが、それらの多くは、あわよくば「後生の一大事」を語るという厳しさを、避けて通ろうとするものでしかありません。若い人には難しいだろうと思うのは法を語る側の高慢というものです。私は、時代に寄り添う感受性は大切ですが、流されて自らの言葉を失うことのないように心がけたいと思います。ご法座に足を運ぶまでに機縁が熟した人は、本当に依るべきものは何かを求めているのです。こうした人に対して語るべきは、「後生の一大事」よりほかにはないでしょう。

 もちろん、未だお寺の門の外にいて、聞法のご縁がない人々に対しては、開かれたお寺が身近にあるということを知らせることが第一歩だと思います。たぶん20年以上前の熊本教区報に、御正忌は祥当に勤めるのが自坊の習慣です、という力強いお言葉を述べておられたのは、蓮光寺さまのご住職だったと存じます。これを読んで、私は本当に尊いことだと感じました。熊本県内五百カ寺が一斉に、御正忌、彼岸、御命日法要、花まつり等々の法座を催せば、いやでも浄土真宗ここにありと知らしめることができるでしょう。お念仏が全域に響きわたるでしょう。ご講師がいないといわれるかもしれませんが、この時代、どれほどの人が半分以上自己紹介のお説教をきくだけのためにお寺に来てくださるでしょうか。それぞれのお寺で、新しい法座のあり方を、もう少し探ってもよいと思います。

 さまざまのご縁の尽き果てようとしているこの身ですが、時としてなお得体の知れない悩みの炎が燃えあがります。その一つ一つを観察してみると、悩みの根幹は孤独だったり、喪失感だったりいたします。わが身を悩ますものは病ではないと気付いた今、病の不安はすっかり消え去ったと同時に、こちらの方がやっかいだったと知らされて、如来の仰せの一言一言が心に沁みわたる今日この頃です。平成19年9月16日、御命日法要。住職と新発意の清々しい読経の声が、近く遠く耳に届きます。南無阿弥陀仏

癌告知のあとで―なんでもないことが、こんなにうれしい

癌告知のあとで―なんでもないことが、こんなにうれしい

  • 作者: 鈴木 章子
  • 出版社/メーカー: 探究社
  • 発売日: 2000/04
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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「千の風」私見  倉岡光紀 [2007年10月1日号(第89号)]

 私のお墓の前で泣かないでください/私は永遠の眠りになんてついていません/ほら、もう千の風になって世界をかけめぐっています/雪にきらめくダイヤモンド/穀物に降り注ぐ陽の光/優しい秋の雨になって そっと光っています/あなたは大きないのちに包まれているのです/私に会いたくなった時 ナモアミダブツと呼んでください/私はいつでもあなたのそばにいます/だから もう泣かないでください/私は死んではいません/いつでもあなたのそばにいます 西脇顕真補作


 右の詩は、西脇氏補作ですが、新井満氏の「千の風・・」も、人々の共感を呼び好評を博しています。


 千の風になって死後もあなたの目前に私はいますよ、だから悲しまないでくださいというチャッチ・フレーズが人々の心に訴えるということでしょう。人々に人気のある「千の風になって」を、西脇氏補作の詩でCD製作をし伝道の一環とする宗門の態度にはいささか異見を持つものです。巷間での人気はいざ知らず、この詩の主旨が浄土真宗の教義に適っているかどうかにかかります。「千の風」は、生者が死後も輪廻転生により、自然の万物に生まれ変わるという思想とみてとれます。人は死後も魂の永続を願い、願わくは子孫の繁栄を見、加護したいと思うのは人間の願うべきことでもあります。


 ところで佛教では、死後は無記の教えとされ、死後にとらわれることは、無明であります。死後は浄土真宗では、往生し、佛になると説かれます。佛になるとは、真如の世界、法身の世界にゆくことで、物体の世界となり眼前に見える物へと変化するものではないと思うのです。


 世間の人々が感動しているのは、風となり光となって私達を見守ってくれているという所だと思うのです。この現世から死後の世界への延長は、中国の道教の流れではないでしょうか。よしんば眼前の情景が、法身からのあらわれであるとしても、千の風の詩では、光や風の表相に視点があり、その奥の法身(真如)の世界への視点は見られません。それは丁度「月をさす指をとらえて」いるものにほかならないと私は思います。


 私たちは阿弥陀仏を礼拝の対象としていますが、それは報身佛であり、法身から出ていることをきちんと押さえておくべきだと思います。光や風という可視界の現象を仏(または神)とみなすならば、アニミズムと言われても仕方がないと思います。


 こうなれば、もう佛教ではありません。人間界を離れた神なのですから。人間と断絶した神の恩寵であり、憐れみであります。


 世人の喜ぶと言うか安心する境地には、信心の相は見られません。「安心する」から、心の安らぎを得られるからいいじゃないかとおっしゃる同行者がおられるとすれば、「宗教は心の安らぎ」と思っておられると思います。が、果たして「宗教は心の安らぎ」でしょうか。


 浄土真宗においては、死後の安心が目的ではない筈です。御文章の文明三年、出家発心の章「当流親鸞聖人の一義は、他力の信心を決定せしむるときは・・即得往生住不退転ととき、一念発起入正定之聚、不来迎の談、平生業成の義・・億念の心つねにして・・信心の行人・・」とある。自然界の現象に心を安らぐというより、〝目は外より我が内に向けらるべき〟であります。


 自分独り心安らかに悟りを得るのは簡単と思います。が、社会の共同体の中で生活している限り佛になるより、法蔵菩薩のはたらきを現世でやっていかなければならない。そこには苦の世界が待ち受けている。この苦の中で生きるのが、僧であり沙門であり、凡夫を思い知りながら、大乗佛教のはたらきを愚になっておつとめさせていかねければならないと思います。


 〝私の前に灯火を掲げて行く人あり〟この人を師とし、佛の慈悲として有難くいただき、信心ある人を見出す時、佛に出遇って、佛の後姿を拝んで、与えられていくのであります。宗教は安心ではありません。私にとっては地獄の相であります。


 人間「信じなさい」と言われて、信じることのできるのは、至難の業であります。それで「難中之難無過斯」「説此難之法 是為甚難」とあるのではないでしょうか。証拠が無ければ信用しないのが人間です。私たちは〝佛に支えられている〟という体験を持ってはじめて、佛の方に向くのだと思います。凡夫の自覚をまざまざと思い知らされることによって、佛への讃仰が生まれてくるのです。そして念仏の行人となってゆくのであります。

千の風になって

千の風になって

  • 作者: 新井 満
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2003/11
  • メディア: 単行本


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編集後記 [2007年10月1日号(第89号)]

◎お彼岸が過ぎても日中はまだ真夏の猛暑が続き、秋の到来が待たれる昨今です。
◎香覚寺坊守様に、日頃の思いを率直にご執筆いただきたい、というこちらの意向を申して、ご玉稿をいただきました。
◎布教をする立場、聴聞する心得、共に惰性に流されがちな私に厳しい鉄槌を頂いた思いです。
◎学生時代、導きを受けた西元宗助先生の、まさに身を乗り出し、全身でご教化下さったあのお姿とおこころが思い出されます。
◎「千の風になって」の大流行・・、勿論、広く一般に歌われることに異論はありませんが、布教の場で肯定的に取り上げられると、真宗教義の上から如何であろうかと賛否両論が出されています。
◎賛成派は、高田派の法主を始め、多数を占め、一方、批判的立場は、元龍大学長・信楽師、今年の教区安居講師の徳永勧学もCDを出した宗門の部署に抗議をしたとのことでした。
◎私たちも是非この辺の点検が必要であろうとの思いから倉岡師に執筆を依頼しました。賛成のご意見もお寄せ下さい。
◎次号は九十号を数えます。改めて皆様の今日までのご支援、ご教導に深謝申し上げる次第です。 (藤岡)


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