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「裁判員制度」宗門人としてどう向き合うのか?  尾方尚晃 [2009年7月1日(第96号)]

始まった「裁判員制度」
 「裁判員制度」は二〇〇四年五月二十一日に成立。今年(二〇〇九年)五月二十一日より施行されました。そして今年七月下旬以降には、実際に裁判員が加わる裁判が開始される予定です。
 国民(衆議院議員選挙の有権者)から無作為に選ばれた裁判員が裁判官と共に裁判を行う制度で、その目的は
①国民感覚や常識を裁判に反映させる、
②司法に対する国民の理解を進め信頼向上を図る、とされています。
 適用される事件は、第一審(地方裁判所)における刑事裁判のうち殺人罪、傷害致死罪、強盗致死傷害、放火罪、身代金目的誘拐罪など重大な犯罪とされています。

内容および諸外国との比較
最高裁判所の資料によりますと大体、次表のような内容でした。

裁判員.jpg


  数々の問題点
 この制度では、裁判員に選ばれたら質問票に回答しなければなりません。虚偽の事項を書いたら五十万円以下の罰金または三十万円以下の過料が課せられます。また、呼び出されて正当な理由なく出頭しないものには十万円以下の過料が課せられます。


 要するに、国民に対して裁判に参加し被告を裁くことを強制する制度ということです。
 これほどの強制力のある制度を、国民の周知理解がないまま先行させることは、目的の一つである②司法に対する国民の理解を進め信頼向上を図る、ということに初めから反しています。

制度の詳細については、
○出廷義務(就労、生活における不利益、思想信条の問題)
○守秘義務(死ぬまで) 裁判官は退職後にはこの義務はない
○守秘義務のため制度の問題点が表に出ない
○憲法違反の恐れ(教育、納税、勤労以外の義務の強制、意に反する苦役の強制)
○手続きの中で裁判員候補者は、宗教や前科などプライバシーに踏み込んだ質問を受ける。
○実際裁判上で起こる諸問題(報復の心配、グロテスクな証拠写真も全て確認する義務、法律に詳しくないため感情に流される恐れ、有罪無罪に関わらず原告被告に対する一生涯持ち続ける罪悪感、誤審に対する罪悪感恐怖感、虚偽自白に流されやすいなど)

 問題点は山ほどありますが、ここでは、「国民に対して裁判に参加し被告を裁くことを強制する制度」に対して、仏教徒として宗門人としてどう対応するかという一点のみで考えてみます。

  国民の反応
 二〇〇六年十二月に実施された裁判員制度に関する特別世論調査によりますと、裁判員として参加したいかについて
・参加したい      五・六%
・参加しても良い   一五・二%
・参加したくないが、義務であれば参加せざるを得ない 四四・五%
・義務であっても参加したくない 三三・六%
とあり約八割の人が拒否反応を示しています。

 この調査は推進者である内閣府政府広報室の資料ですので、実際の拒否反応の数字もこれ以下であることはないでしょう。

  宗教界の対応
 《法務省は「思想信条」の自由を理由とした辞退を「やむを得ない事由」として認めるかどうかの検討の中で、「思想信条に基づいて引き受けたくない」との理由で一律に辞退を認めると、辞退希望者が大幅に増えて幅広い市民の声を裁判に反映させるという制度本来の趣旨を損ないかねないことから、「思想信条」という言葉をつかった規定は行わなかった。》(朝日新聞・二〇〇七年十月二十四日)

 以下、読売新聞(二〇〇九年一月十一日)より抜粋。
 《裁判員法では「人を裁きたくない」というだけでは辞退理由にならないが、・・(略)・・「裁判参加で精神上の重大な不利益が生じる」と裁判官が判断した場合に限って、辞退が認められることになった。一方、刑事裁判への国民参加の伝統が長いイギリスやドイツでは、法律で聖職者は参加できない定めがある。
 「裁判員制度にどう対応するのか。宗派としてメッセージを明らかにすべきではないか。」七百万人の信者を抱え、刑務所や拘置所で教誨師を務める僧侶も多い浄土真宗本願寺派。京都市の西本願寺で昨年十月に開かれた宗派の議会で質問が飛んだ。・・(略)・・同派幹部は「引き続き検討していく」と述べるにとどまった。
 同じ浄土真宗で、死刑制度に反対している真宗大谷派でも・・(略)・・。同派幹部は宗派の見解として、制度そのものに対する意見表明は考えていないとする一方、「裁判員に選ばれたら、真宗門徒として死刑という判断はしないという態度が大切だと考えている」と答弁した。
 禅宗の曹洞宗のある僧侶は、「人を裁くことはできないと思う一方、宗教者としての意見をしっかり述べることが大切という考え方もある」と悩む。
 新約聖書に「人を裁いてはならない」というイエスの言葉があるキリスト教。カトリック中央協議会は「私的な裁きは認められないが、法治国家の正式な裁判制度まで否定はしていない。被告人の人権への配慮や国民の十分な理解が必要」・・(略)・・神社本庁は「国民の義務として、裁判員に選ばれたら原則参加する」・・(略)・・。》(以上読売抜粋)

 大谷派の「参加して死刑反対」には少々驚きました。簡単に裁きへの義務を受け入れていることと、僧俗に死刑反対を指示している点です。

 宗教教団は国内外を問わず、布教のために体制側の施策を利用したり保身のために体制に迎合をするなどして、ひいては自ら教義を変質させて幾多の失敗をしてきました。政治体制と教団との独立性の維持に努力するのが、親鸞聖人の精神に近いような気がします。

 法務省は当初、「思想信条」の問題を避け、葬式や法事などの「業務上の支障」で対応したかったようですが、当然それでは無理があることから、「精神上の重大な不利益」の中に押し込めてしまったということでしょう。
 それでも結局、裁判員になることによって「思想信条」の自由を侵される不利益がその人にとってどれだけ重大であるかは、本人ではなく裁判官が判断することになったわけです。これも非常に傲慢で強圧的な怖いことです。

 それにしても宗教界は概して「裁きの場への強制参加」に対する反応が鈍いと感じます。

  わが宗門の対応
 二〇〇八年三月号の『宗報』基幹運動計画書では、
「教団として、先ずは制度自体を正しく理解することからはじめ、裁判員として選ばれ、裁判に参加していくなかで湧き起こるであろう課題を整理し、どのように考え裁判に参加していくのがよいのかなどを検討していきたいと思います。

 教団として、ひとつの方向で結論づけていくことは困難であり、危うさもあります。したがって、十分に議論を重ねていくことが重要であり、裁判員制度が始まってからは、参加者の体験・意見などを聞いていくことも必要となります。裁判員制度に関わることがらは重要な課題であり、共に考えていきたいと思っています。」
とあります。

 一年後の二〇〇九年三月号の『宗報』基幹運動計画書では
「宗門としては、先ずは制度自体を正しく理解することからはじめ、さまざまな課題を整理し、裁判員としての体験・意見などを聞いて、どのように向き合っていくのかを引き続き検討していきたいと思います。」
とあります。
 一向に変わらない文章です。

 裁判員制度の単語を他の単語に置き換えたらあらゆる問題に使えそうな、公式のような文章です。逆に言うと無難な形式的な中身に踏み込んでいない文章ということになります。

 一年間でどう課題を整理したのかどのように検討したのか何も載っていません。そもそも、初めから参加していくことが前提となっていて拒否や辞退という話は全く出てきません。

 教団として制度そのものの問題点についてなぜ何の発信もしてこなかったのか、必要なかったのか。念仏者として「裁く場に強制的に立たされる」ことを受け入れられるのか。「とても自分には人を裁けない」という人にどのように対応できるのか。これらは極めて重大なことだと思うのです。

 さらに、「教団として、ひとつの方向で結論づけていくことは困難であり、危うさもあります。したがって、十分に議論を重ねていくことが重要・・・・」という文章には、困難な問題には決断を下さない、という保身的な開き直りすら感じます。

 方向を模索しない議論とは一体何でしょうか。議論のための議論でしょうか。現実と離れたところで、どんなに勇ましい言葉や慈愛の言葉を語っても詮無いことです。その間に事態は着々と進んで行きます。強権的な社会は名札をつけてやっては来ないのです。ものが言えるときに言えなくて、言うのが困難な状況になって言えるはずはありません。

 人間はそれほど強くもないし、間違いも犯しますが、自分の都合に合わせてうまく立ち回る人より、たとえ、強圧的な環境に押しつぶされて不本意な行動を取らざるを得ない場合にでもごまかさず良心に照らして苦しむ人の方に私は共感します。また、前にあげたアンケート結果の日本国民の心情にむしろ健全さを感じます。

 宗門には、自ら前面に出て人々を守る、というくらいの姿勢を示して欲しい。そういう宗門ならば、絶大な愛山護法の精神が起こるものだと思います。

  私の問題として
 私はこれほどの強制的な制度が強引に導入されることに危機感を感じています。「裁かない仏の教えを歓ぶ者」に裁けという命令は屈辱的だと感じています。

 各個人が良心に従ってどう行動しても批評することはできません。ただ、「国民の義務」を主張する人には、「裁判への強制参加を認めるなら処刑への強制参加も認めるのか」ということを念頭に考えていただきたいと思います。

 私自身は、当初は単純に「僧衣を着る身のものが堂々と人を裁くのはちょっと格好が悪い」という思いでこの問題を受け止めてきましたが、もし裁判員候補者に選ばれたら辞退したいと思っています。辞退が認められなかったらたぶん拒否することになると思います。

 私のところはとても保守的な土地柄ですが、私が尋ねた限りでは「お坊さんたちが裁判で裁くことはあまりして欲しくない」というご門徒が多かったのです。人々は私たち僧侶が思う以上に、僧侶が体制に迎合するのを喜ばないのではないかと感じました。

 もし親鸞聖人が「裁判員になって裁け」と言われたらどうなさったか、よくよく思案したいと思います。  (球磨組・忍成寺)


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アヨアン・イゴカー

私は裁判員制度に大反対です。理由は、

>①国民感覚や常識を裁判に反映させる、
②司法に対する国民の理解を進め信頼向上を図る、とされています。
 適用される事件は、第一審(地方裁判所)における刑事裁判のうち殺人罪、傷害致死罪、強盗致死傷害、放火罪、身代金目的誘拐罪など重大な犯罪とされています。

と書かれていますが、刑事事件だからです。裁判員制度で常識を反映させたい、司法に対する理解を深めたいのであれば、民事訴訟、或いは刑法でも死刑のない詐欺、恐喝、涜職など、商法の特別背任行為などだと思います。
by アヨアン・イゴカー (2009-07-20 08:34) 

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