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「仏慧明浄 除世痴闇」  こだま編集長 禿 浩道 [2000年7月1日(第60号)]

先月十五日、森総理の発言があって翌々日十七日素早く本願寺では基幹運動本部長の名で抗議文が出された。

 要点をしぼって短文に纏められている。

 同一に念仏して別の道のないお互い大谷派教団とも一致して森総理に対しこの抗議の心が届くよう様々な働きかけをすべき時である。

 森総理は大谷派の門徒というご縁がある。平生業成し親鸞聖人の心が届いていたならばあの発言はなかっただろう。せっかくのご縁が生かされていない事を惜しむ。

 今少し抗議文の「過去の歴史の反省に立つて、非戦平和への取り組みを積極的に推進し、生命尊重・人権擁護を根底とした御同朋の社会実現に向かって努力をいたしております。」という心が如何なるものか、掘り下けてみたい。

 総理が5月17日「昨今起きているような少年事件をみてみると血をなめてみたかったとか、人を殺してみたかったとか、非常に恐ろしいことを言っている。人の命の尊さがまるで分かっていない」と述べられたと。

 この事は野菜をきざむ感覚で人を殺したという少年達の証言をニュースで見聞した人々が一様に「ええ!何と惨い事を?!」と呆気にとられて、総理とともに問題だと思っている。その点について違いはない。

 しかしこれを解決するに当たって採ろうとする施策、歴史認識に違いがある。

 過去を見ずに少年達の言動を見聞すれば彼らの突出した姿が浮き彫りして見え、批判の対象として注目され、世間に晒されることになる。そして何としてもこの種の事件の頻発を押さえる為に教育改革を言い、その方法に「教育勅語」をもちだし、神道政治連盟国会議員懇談会の折りは日頃の思いを言葉にし「日本国はまさに天皇を中心にしている神の国であるということを国民の皆様にしっかりと承知いただく」と発言した。これは撤回しないという本心のようである。

 真宗門徒である総理に阿弥陀如来の慈悲が届いてくだされば仏の慧眼が総理の心を動かし世の愚痴の闇を真実破る道が開けるでありましよう。

 仏の慧眼は、現在の愚痴らねばならないような現象を現在だけで見るのではなく、何故少年達がかく考えるようになったのかと過去を見て未来を見て現在の処置の仕方を処方する眼力を持たせて下さるのである。

 少年達が物心つく頃、世を騒がせていたエイズ問題。その裏にミドリ十字の製薬会社エイズ患者を多く生み出し、人間の尊い命を「生きる人」と見るより、薬を消費する単なる物質と見るような営業を展開していた。

 このミドリ十字の創業者は曾て七三一部隊の隊員で細菌兵器の製造に当たり、多数の捕虜をマルタ(丸太)と称して彼等を人体実験に使っていた。このマルタという言い方で人を人と思わない単なる物質だとみなして実験に及んでいった。このような悪逆非道な行為を正当化し権威付けたのは七三一部隊が「皇国の軍隊」であるという根拠によっていた。

 これは多数の中の一事例にすぎないが、以上のような狂気が反省されないまま様々に縁起して過去から今日に到り、今日の少年達の考え方に反映して来ているのである。

 教団が過去の歴史の反省に立ってと述べているのは、仏の慧眼をもって過去の歴史を正視し、生命が尊重されず鴻毛よりも軽くあつかわれ人権が無視されていたそうした事実を反省しているのである。

 天皇が一身に政治と宗教を掌握していた「神の国」故に起こした野蛮な行為であった。現行憲法がそこを反省し「政教分離の原則」をうたっているのである。

 総理はそうした現行憲法の成立経緯をどう見ているのでありましようか。

 少年達の非行を糺すに当たって「教育勅語」、さらにはその背後に「神の国」をすえてかかろうとしている道が如何に無明の道であるか。世の愚痴の闇を益々肥大化する道であることにお気付き頂きたいのである。

 つまり「神の国」思想が人の命の尊さを踏みにじってきた歴史がありながら、それを反省しないまま今の少年達に命を尊べと「神の国」を承知させようとする話は筋が通らない矛盾である。

 唯々世の愚痴の闇は仏の慧眼で除かれる。(小国組・善正寺住職)

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「こだま公開講座」講演要旨 浄土真宗の戦争責任<歴史に学ぶ真宗者の未来>(終)  菱木政晴 [2000年7月1日(第60号)]

Ⅴ.機の深信と法の深信の一致は魔法か?

① 「罪の自覚」と「無戒」(反戦反差別)は別のことか?

 「無戒」については今まで説明してきたので分かっていただけると思いますが、反戦・反差別になるでしょう。

 押しつけの道徳、戦争に行けというのを拒否し、戦争に行くことこそが国民の義務なんだということを拒否し、そして全ての者が救われるというのは本願だから、だから国王や神祇に依らないというのは、当然反戦反差別になるはずです。それで、「罪の自覚」と「無戒=反戦反差別」は一緒じゃないかと私は思うんですね。つまり、この機の深信と法の深信との一致ということに関係してくるはずなんです。差別と抑圧と殺戮の穢土(火宅無常の世界)に属し、その穢土を形成するのが凡夫。さっき言ったように、火宅無常の世界を抜きにして凡夫はない、凡夫抜きにして火宅無常の世界はないですね。そのことは親鸞さまは何度も何度も繰り返して言うわけですね。そしてその確信が年貢を取っていた凡夫をも、主人として肩を怒らせていた男をも救う正しい原因、「もっとも往生の正因なり」(『歎異抄』同、八三四頁)という言葉となるでしょう。


Ⅵ.おわりに

 「神祇不拝」というものは、確かに真宗門徒のライフ・スタイルであります。

 私は、当麻を拒否した門信徒たちは、当麻を拝受すると言った教団上層部の人に比べれば、本当に尊敬できる人たちだと思います。

 それはその通りなんですが、しかしですね、ちょっと分かりにくい言い方かも知れませんけれども。専修と無戒というのはね、他のものに依らないということですよね。で、そうなっていないことを批判する時に専修とか無戒ということが手がかりになるでしょう。そこで初めて天皇というものがダメだと見えるんですよ。無戒だから天皇がダメだと見えるんですよ、批判は一人一人の練習問題になるんじゃないですか。実際の生活と闘いの中で批判されるべき「神祇」が発見されるということになるだろうと思います。神社だからいけないんじゃなくてね、押しつけだからいけないと言うことを見てると神社しか国家神道しか押しつけてこないということが分かるんですよ。

 つまり君が代を歌わされるということは、私は国の方針に従う善良な国民ですと。だから私をいじめないで下さいというメッセージになる。どんな歌詞でもそうなると言うんですね、押しつけられれば。「万国の労働者団結せよ」というものでさえもなる。ましてやという話なんです。神祇不拝でさえもそうなり得る、こういうことです。そうではなくて、正に自分が押しつけられて嫌だということとか、そういうことについて実際の生活と闘いの中で批判されるべき「神祇」が発見される、専修と無戒から出発するとそういうことになりますね。

 この流れから言うと、例の「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします」(同、八五三頁)のこの響きが数段流れてないといけないと思うんですね。真宗の看板を出していたものが、実は神祇だったということは大いにあり得るわけで、それの発見、浄土真宗の戦争責任ということはそういうことだと思います。浄土真宗と看板出しているけれど、あれは神祇じゃないかということが、この方向では見えるんじゃないかと。無戒、即ち上からの押しつけの道徳を拒否するライフ・スタイルから、どうして国体奉祝・天皇在位○○年奉祝、日の丸君が代の押しつけを座視できようか。

 そして、親鸞だろうが蓮如だろうが、その奉祝を強制されれば、それも強制されれば神祇に他ならないという自覚を、このライフスタイルから生み出すことができるはずなんです。無戒と専修念仏こそは私たちの流儀であって、そのことが自己批判的な闘争になり得る。具体的にどうするかという話は色々ありまして、これはまた具体的な闘いの中でやりたいと思います。そして具体的な闘いの中で困難にぶつかった時に、改めて宗祖の書き残された聖典、特にとりわけ手紙などを読むとですね、決してへこたれない。かといって、やけくそになって玉砕するわけでもない、ねばり強い闘いが展開できるということが分かります。こういうものを闘いの中で裁判の中で皆さんと一緒に学習していきたい、こういうふうに思います。(文責・こだま編集局)
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編集後記 [2000年7月1日(第60号)]

◎かって自民党は、政教分離を建前に、創価学会・池田会長の国会尋問をも持ち出して公明党に対峙し、そして宗教法人法の改正を行った。それが今は連立政権を組んでいる。

○今回の森総理の「神の国」発言に対する各政党の反応も、宗教の尊厳性を基本にした政教分離・信教の自由の論議ではなく、単なる政争の具にしているにすぎない。

◎しかしこれを「真宗門徒の森総理」の発言という面から考える時、政治論評の次元ではすまされない大きな問題を私たちに提起している。

○先日の朝日新聞の記事がそれを抉摘している。森総理の地元の門徒は「森さんは家が代々そうだったから門徒になっているだけで、親鸞の思想がきちんと入っていない。もっとも、森発言は問題だ、と自覚した門徒がどれだけいるでしょうか。僧侶にも責任があります」と言い、大派の教学研究所長は「阿弥陀さまや親鸞聖人だけでなく、森さん自身にも申し訳ないという気持ちです。せっかくのご縁をいただきながら、真宗の教えが届いていなかったのだから。戦時中に神仏一体を教えもした教団の過去が精算されていない」等(要旨)と述べている。

◎23日は投票日。この機会に「私にとって」真宗の過去・現在・未来を考えたく、7月1日号を早めにお届けしました。

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