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「真宗へ帰れ」の叫び  託麻組 真行寺前住職 藤岡崇信 [2016年1月1日(第122号)]

わが国の戦後の思想界を代表する哲学者・鶴見俊輔氏が、昨年の七月に亡くなられましたが、朝日新聞の25日号に、氏の長男さんの「父は『戦前戦中、宗教者がしてきたことを俺は忘れないぞ』を貫き通し、葬儀なしが最後のこだわりだった」という内容の記事が掲載されていました。私は鉄槌で痛打される思い、そしてしばし沈思黙考させられたことです。

それは、氏が本来、反宗教思想の立場であったのならともかく、ハーバード大学で学んだキリスト教よりも仏教に深く傾倒し、晩年には『かくれ仏教』を著されたほどの方、その方が、戦時中の教団・僧侶が、戦争を支持し、殺人をも良しと説いたことに対し、最晩年まで不信感を抱き続けられたというこの事実でした。

そしてまた、私は十数年前の同様の問題を想起せずにはおれませんでした。それは熊本九条の会で知り合った方の依頼で伺ったお宅での出来事でした。それは健軍町と菊陽町に病院、本庄町に診療所を設立された故・H医師のご自宅であり、ご子息がご両親のことにつき、次の相談されたのです。

父は生前、事あるごとに「俺の葬式は不要」と言っていたので遺言通り、母もまた葬儀なし、その後の法要も一切行わなかった。ところがあれから十年以上も経った最近、妻の実家より、両親の葬式も仏事も一切勤めないが、あなた達はそれで安心して暮らせるのか?という意の電話を受け、今まで何も考えなかったが・・、と驚き、真剣な面持ちで相談されたのです。

一応話しを聞いた後、私が、H家の宗旨を聞くと、ご子息は黙って押入れを開けられたのです。大きな立派なお仏壇・・、扉を開けると、ご三尊が掛けられた本派のお仏壇が押入れの奥深く仕舞い込んであったのです。ショックでした。

ご尊父の著書を頂き、読み始めるとご尊父の葬儀不要、仏壇不要の意味が理解できたのです。

H氏は戦前、五高在学中に熊本市内に「帝国主義戦争絶対反対」のステッカー貼付の活動により退学させられ、その後、警察に逮捕され拷問を受ける等の事件もあり、紆余曲折の後、医師の資格を取得されたのです。戦前戦後の混乱期のこと、H氏は、早速、経済的理由で受診できない病身の人々のための病院設立を思いを持ち、銀行へ融資の相談に行くが『赤』には貸せないと断られ、また特高の弾圧を受ける中、志を同じくする者と幾多の苦労と努力を重ね末に実現されたという自叙伝を読みつつ、国家の方針に沿う安易なみちを選択した宗教界、それに失望したH氏の「葬儀不要」の遺言の根底が読み解けたのでした。

これらの諸氏の叫びを聞く時、戦中のわが真宗教団の戦中の歩みに対する真摯な点検、そしてその深い反省の上に今日の我々の営みが築かれ実践されているのかを自省させられることであります。


昨夏にはいよいよ集団的自衛権関連法が成立しましたが、その法案成立に向けた政府説明を受け、最近の近隣諸国の動きに対し、わが国も「軍事力による抑止」の必要性を口にする人も多い。この世論はかっての世界大戦前の国民の戦争支持論の論旨との共通性を指摘し危惧する声もあります。

一体わが教団の過去は如何だったのでしょうか。教団は一丸となって戦争遂行に邁進してきたのです。その根底は悪しき眞俗二諦を編み出し、天皇の命による戦争は聖戦である、帝国臣民より劣る敵国人を殺害することは仏教の殺生罪に該当しない等の規定を設け、仏具供出や飛行機献納運動等に狂奔して来たのです。

しかし、このような状況が一気に訪れたのではなく、宗門人が政治の動向に無関心を装い、発言をためらう、その結果、力を得た政権は宗門に対し、強圧・弾圧をもって服従を迫ったという過去の軌跡が明確であります。このような状況に陥った時、教団中枢の人々は、「教団存続」を第一義に、戦争遂行のため教義を曲げて協力したのです。

先日は敗戦70年に当る全戦没者追悼法要が沖縄で行われ、私も参拝しましたが、そこでは辺野古への基地移転反対は勿論、基地を廃し平和への願いが充満していました。しかし現在、この沖縄には何万人という基地の地主、それに対する多額の補償金、そして基地で働き生計を立てている人が多数存在しているのです。

私は宗会において原発の問題に関し、宗門は反対の意向を表明すべきという立場から質問した時、総長は「浄土真宗の根幹は往生浄土、それ以外の事は世俗の問題、当然門徒にも種々の考えの人がいるので、本願寺としての意向・見解は差し控える」という意の答弁をしました。戦争の問題においてもしかりです。

各寺院の門徒の中にも人がおられるのは当然のことです。種々の考えの人々への配慮は必要でありますが、真宗の立場からの発言に口を閉ざすという生き方、またA論・B論の両論併記というべき立場を取り、その場をすり抜けるという生き方等々、しかもそれが念仏者の『中立』の立場とでもいう態度は如何なものでありましょうか。

宗門も寺院も『経営』という点も重要でありますが、そこを最重要視するのか、一念仏者としてどのような視点に立って生きるのか、深くお念仏のこころに問うてみなければならないと思うことであります。


日本人は何を捨ててきたのか: 思想家・鶴見俊輔の肉声 (ちくま学芸文庫)

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