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2013年1月1日号(第110号) ブログトップ

過疎問題解決の視点と喫緊の施策  奈良教区吉野南組西教寺住職 玉井利尚 [2013年1月1日号(第110号)]

〈はじめに〉
過疎について特集をされること、まことに有り難いことです。私の思う過疎対策について皆さんに聞いていただき、より良い対策が出来るように願っています。
過疎の定義はまだ宗派としてはありません。行政の過疎の定義はありますが、宗門としてそれを採用すると、マダラになっている状況を一括して過疎という事になります。同じ行政区分の中にも、より過疎が進行している地域とそれほどでもない地域があります。いずれ同様の状況になるとしても、今はまだ何とか寺院の運営が出来ていると言う所があるのです。
私たちにとっては、寺院の運営が出来るか、難しいかがいわゆる「過疎寺院」か否かと言うことでしょう。それともう一つは寺院の規模です。300軒の門徒戸数がある寺院と、30軒の門徒戸数の寺院が同様に毎年5軒ずつ減少していくとしたら、どちらがより危機的状況かと言うことです。申すまでもなく30軒の寺院がより危機的でしよう。これは、謂査をしないと分かりません。
また、今過疎地域の寺院の「調査・認定・対策」をしても流動的です。まだ大丈夫なところもいずれ過疎認定をしなくてはならない時が来ます。これは全国的に見ても人口減が指摘され、過疎にならないところはほとんどないようになるでしょう。
だからこそ、今過疎の問題に真剣に取り組まねぱなりません。いずれ自身の住持する寺院の問題だと思って。

〈過疎問題の解决に必要な視点〉
次いで、過疎問題の解決に必要な視点は何かと言えぱ、いわゆる「かわいそう」「気の毒」と言うモノでは根本的な解決にはなりません。私たちは等しく本山・本願寺を支える門信徒であります。さすれぱ、その負担はほぼ等しいモノでなくてはなりません。ご門徒一人が負担する金額は、税的側面が強い賦課金(教区も宗派も)についてはなおさらです。「応分の負担」、これが過疎問題の解決を図るキーワードだと私は思います。
さて具体的に早急にしなけれぱならないことについて考えます。
1つは、賦課金の間題です。賦課金は税的な側面があると言いました。現状では経済的基盤の小さいところほど負担が大きいという逆進性があります。この是正をすることは、みんなで支える本願寺の理念に合致することと思います。伝道活動、つまりお念仏を大切にしてくれるご門徒が、せめて聞法出来るようにするためにも過分に負担していた賦課金分を伝道教化費用に使っていただくことです。
2つに、寺院後継者の育成です。今の方法では10日間の得度教師習礼を受けないといけませんが、過疎地域の寺院後継者に限定資格を与えることです。自動車免許もオートマチック限定免許があります。それと同様に、過疎地域住職後継者に限り、兼業しなけれぱ生活できない住職後継者に限りその資格を持っててもらうことです。

〈調査~認定~対策〉
さて、具体的にどう過疎寺院対策を進めるかというと、先ず必要になるのが認定という作業です。これは(過疎)振興対策認定寺院とでも言っておきます。この認定をするには調査が不可欠です。キッチリ調査してスパッと認定をする。そして対策は調査の前に粗々考えておく。これは地域によって対策内容が変わるかもしれないからです。海辺・離島の寺院、山間部の寺院、農村の寺院、運営基盤の著しく小さい寺院等様々な形態があるでしよう。それら全てに対応できる対策は今宗派は持ち合わせていません。
対策は先ほど記しましたように、「基準賦課金」という理念を入れ、過疎寺院も応分の負担をする。そして「減免」という言葉を使わずに「賦課金」とする。一度適正な賦課金を負担することになれば一定期(3年から5年)は据え置き、その後過疎が進むと考えられるので見直しを申告と調査によってする。(現行のように毎年減免申請をする必要は当然無い。)
教線の維持という観点から後継者の得度・教師資格を取得しやすくしていく。そして、私のように門徒戸数が以前は80戸以上あったたと考えられる所が12戸になった寺院が、後継者の住む所で寺院活動が出来るように法的裏付けをする。過疎寺院が、いわゆる「都市開教」が可能になるようにするのです。(私の住持する寺院も猛烈な過疎地域です。)これは被災地寺院にも適用出来ます。
そして今後宗教法人の解散を考えている状態になると、モラ卜リアムとして住職・門信徒がゆっくり考える期間を取り、その間は賦課金はいただかない。宗教法人の尊厳死に敬意を払って温かく見守ることが、本願寺・宗派のするベき事だと思います。


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災害ボランティアから学んだこと(下)  高瀬組 法雲寺住職 加藤尚史 [2013年1月1日号(第110号)]

 今夏の九州北部豪雨災害から数ヶ月が過ぎた晩秋の頃、久しぶりに伺った内牧・満徳寺は、庫裡床下の排水設備工事が完成に近づき、畳の敷設をもって一応の復旧という現状であった。被災当時の庫裡を含む境内地の状況を目の当たりにした者としては、この予想を超える速さでの復旧は感慨深いものがあった。

 それには、被災寺院の門信徒の思いや行動はもちろんだが、苦悩や苦労の中にいる人を見過ごすことが出来ないという思いを、共有し確認しあいつつ連日駆けつけてくれた多くのボランティアの存在が大きかったのは言うまでもない。前号に記したとおり面識もなく名前さえも定かではなかった多くの方が駆けつけて下さった事実が殊に大きかったのだ。「ボランティア元年」と言われた阪神大震災をはじめ災害が繰り返す中でようやくボランティア自体が根付いてきた。その中で私達仏教者もまた、法義と社会を隔絶して捉えてきた反省も踏まえて、積極的に社会と関わり始めた事についての目に見える成果だと感じている。

 しかし、浮き彫りになった課題もある。熊本教区では、本山社会部の指示で一昨年より社会福祉推進協議会熊本支部を中心に、災害ボランティアの構築に取り組み、五〇を超す個人・団体の登録がされていたにもかかわらず、組織としての災害ボランティアネットワークが全く機能しなかったことは教訓として今後に生かすべき点である。原因としては、それを運用するシステムが議論構築されていなかったが故に、迅速な動きできず、組織としての対応についても整備されていなかったことが挙げられる。義援金、支援金等の使途も含めて災害対策委員会など関係機関との迅速な連携対応が出来なかったことは大きな反省である。

 この災害ボランティアネットワークでは、各個人や団体が有する技能や資格、得意分野などのデータが登録時のアンケート記載によって把握されている。今回の災害では、大規模な崖崩れなどで死者を出した手野、坂梨、立野地区など阿蘇地方だけの被害ではなく、龍田地区を中心とした熊本市内の一部でも大きな被害に見舞われている。今回は寺院災害についてのみの対応しか実行できなかったが、登録者を増やしそのデータを整備活用することにより、更なる効率的活動が可能となると同時に、特定の寺院での活動に留まらず、広く地域の全体の災害復旧に寄与できるのではないか。四五〇以上の寺院が熊本には存在している事を活用したい。

 ただその為の共通する意志の基本的確認は必要であろう。宗門では広く社会の現実やいのちをとりまく現代社会の現状への関わりを模索する中の一つとして、二十数年前より「ビハーラ」という活動を展開している。当初は、キリスト教を基盤としたターミナルケアの施設である「ホスピス」に対する仏教の言葉として提唱されたものであり、二〇〇八年には京都府城陽市に「緩和ケア病棟・ビハーラ(仏教ホスピス)病棟・あそかビハーラクリニック(あそか第2診療所)」としてその理念が結実し運営されていることは周知である。しかし、「休息の場所」「安住」「身も心も安んじる」などの意味合いからの当然の発展として、ターミナルケア施設に限らず老いや病いなどの様々ないのちの現場での活動へと広がっている。

 そこで近年、新潟県の長岡西病院でビハーラ僧としての経験もある谷山洋三氏(東北大学大学院准教授)が、この「ビハーラ」という言葉の捉え方について、その捉え方が一般的なものとして受け入れられつつあるが、その最広義として「災害援助、青少年育成、文化事業などいのちを支える、またいのちについての思索の機会を提供する仏教者を主体とした社会活動」との見解を提示された。これはあくまでも「ビハーラ」という言葉について示されたものではあるが、私達仏教者がボランティアとして活動・行動についての共有すべきこととしても有効ではないかと考えている。

 現在の日本は様々な問題山積である。原発の問題、憲法を変えてしまおうという風潮、震災復興など忘れられたように景気浮揚の話題が先行する。ボランティアやビハーラに限らず、あくまで仏教者としての私を主体とした社会との関わりを私達は確認しあう作業が必要である。

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編集後記  藤岡崇史 [2013年1月1日号(第110号)]

◇今号は過疎化特集の第二弾として奈良教区選出の宗会議員・玉井利尚師に執筆いただきました。過疎化が課題となってもう随分長い時間が過ぎているのにも関わらず、その定義付けさえもされていない現状。これでは教団の責任者が「無為無策」と評価されても仕方がないのかもしれません。

◇また加藤尚史師には前号に引き続き「震災ボランティア」について執筆いただきました。課題とされた教区システムの再構築も急ピッチで進んできると聞きます。しかし気がかりなのは運動の教学的位置付けが未だにできていないことです。教団レベルが無理ならば、せめて教区レベルで動き出すべきと思うのですが…。


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