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親鸞聖人七五〇回大遠忌法要に参加して  三嶋統吾(本願寺派仏壮連盟理事長) [2012年4月1日(第107号)]

まだ、肌寒かった四月、大遠忌法要の門徒推進員による奉仕活動に参加していたとき、兵庫の門徒推進員さんから声をかけられ話した中で、「八〇〇回忌はあると思いますか」と質され、「五〇年経てば八〇〇回忌でしょう」と答えたが、「そういう意味ではないでしょう」と言われ、困惑した事が忘れられません。

さて、「親鸞聖人七五〇回大遠忌法要」の年二〇一一(平成二十三)年は歴史的な年となりました。三月十一日に東日本を襲った、戦後最大の地震と津波は自然災害の前でなすすべも無い人間の無力を知らされ、それに伴って起きた未曾有の原発事故は、人間社会の先端技術が、いかに複雑なシステムでありながら、いかに脆いものかとつくづく思い知らされました。 

あれから一年が過ぎます。死者約一万五千人、行方不明者は未だ約三千人、避難生活を強いられている方約三十四万人だと聞いています。時間は薬にもなりますが、反面物事を風化させます。決して忘れる事なく支援していかなければなりません。

そういう状況の中で「世の中安穏なれ」をスローガンに「親鸞聖人七五〇回大遠忌法要」は四月九日の団参を皮きりに翌年の一月十六日の御満座まで六十五日間百十五座にわたり勤修されました。全国各地又世界各地より四〇万人を越える門信徒の方が参拝されたそうです。

自分自身、振り返り思い出してみますと、六月の組の団参、九月の寺の団参、熊本教区団参のお世話、各教化団体の記念大会、子供のつどい、門徒推進員の奉仕活動、門信徒による「法にあえたよろこび」を語る発表等、多くのご縁に遇わせていただきました。

仏教婦人会の世界大会から始まった各教化団体の記念大会も九月三日の本願寺御影堂にて開催された、第二十回全国仏教壮年大会で終了しました。台風十二号の影響の中、全国より一六〇〇名超の参加をいただき有難く思う反面、停滞した台風の記録的豪雨により被害に遭われた方の事も忘れてはならない事です。

なかでも、七月二十五日から三〇日まで、真夏の暑い中、一泊二日の日程で三回にわたっておこなわれた「子供のつどいin本願寺」 は全国から参加した五四〇〇人の子供達の熱気で圧巻でした。今回十五歳から八〇歳まで各方面から延べ三三〇人の方が朝八時から夜九時頃までスタッフとして参加しました。達成感と感動の時をいただき、企画委員の皆様に感謝します。

想えば十年以上前から、御影堂修復を皮切りに準備され取り組んでこられたであろう「親鸞聖人七五〇回大遠忌法要」も、二〇一二(平成二十四)年一月十六日の御満座をもって無事円成されました。延べ四十万人を超える方が本山に参拝されたそうです。

十六日のご満座となる法要は底冷えのする寒さの中で勤修され、引き続き「ご消息発布式」が行われ、即如ご門主が「親鸞聖人七五〇回大遠忌法要御満座を機縁として『新たな始まり』を期する消息」を親読されました。

同席していた門徒の方がその中の「聖人は、凡夫には清らかな心も真実の心も存在しないとお示しになりました。それは、阿弥陀如来の光に照らされて明らかになる私の姿です。凡夫の身でなすことは不十分不完全であると自覚しつつ、それでも「世の中安穏なれ、仏法広まれ」と精一杯努力させていただきましょう」の文面から、「むずかしい言葉ではなく、とても、わかりやすく、しかし心にビビッと、ひびくは」との感想には、思わず納得です。

「新たな始まり」を期する御消息は、ある面宗門の機構改革の中で、全てが新しく始まるのかと思いがちですが、十六日のレセプションでの専如新門様の挨拶は、半世紀前の勝如前ご門主の「七〇〇回大遠忌法要御満座の消息」を紹介され、教団の危機感は五十年前より、払拭されておらず、今尚深まり続いているとお話されました。

勝如前ご門主は「僧侶は教化をみずからの使命と自覚し自信教人信の実践に徹すべきであり 門徒もまた 形だけの門徒にとどまらず 一人でも多くの人に尊いみ教えを伝え、相携えて、念仏にうるおう社会を作りあげなくてはなりません」と僧侶と門徒に対して危機への対応を促されました。

五〇年前からの課題を忘れず、今後の五〇年に向かって、創造的な活動を育て、新たな歩みが必要となるのでしょう、「八〇〇回大遠忌法要」があるのか、無いのか、先の事より今どうするか、もうメルトダウンは始まっています。

最後に、私がこの五〇年に一度の節目のご勝縁に仏教壮年会連盟理事長として関わる事の出来ました事に、有難く心より感謝いたします。  (熊本組・覚法寺門徒)


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脱原発映画上映会によせて  古井義章(熊本組・法泉寺住職) [2012年4月1日(第107号)]

去る二月十八日、熊本市九品寺・法泉寺において、「原発・沖縄 二大国策を問う!」と題して、記録映画上映会が開催された。

当日上映されたのは「脱原発・いのちの闘争」と沖縄の米軍基地問題を主題とした、「恨ハンを解いて、浄土を生きる」の二本であった。両作の監督である西山正啓氏(水俣で長年にわたり記録映画を撮り続けてこられた、故・土本典昭監督のもとで、助監督をつとめてこられた方)によれば、水俣・沖縄・原発の問題は、国策によって特定の地域が過大な差別的扱いを受けるという点等において、問題の根を同じくしているとのことである。

「脱原発・いのちの闘争」において描かれるのは、玄海と川内という二つの原発を有する九州における、市民による九電や自治体に対する抗議行動の記録である。

福島の大事故以後、全国で住民による、「脱原発」への政策転換を求める運動が高まりつつある。九州においても各地で様々な取り組みがなされているが、福岡市では昨年四月二十日から九電本社前にテント村をかまえての座り込みが始まり、今現在も続いている。九電に「質問状」を提出し、それに対する公開の場での回答と、それを踏まえての討議の場を求めてきた市民グループに、座り込み二十日後に九電側がようやく応対することとなった。その当日の「交渉」と「討議」の模様が、本作前半のハイライトである。実際に「討議」が行われるまでの押し問答、小競り合い、九電本社ロビーから小さな会議室へと至る長い行列・・やっと始まった「討議」でのスレ違うままの議論、また本作撮影作業に対する九電社員の妨害の様子・・カメラは延々といわゆる長回しの手法で撮し続ける。そこに表れるのは、市民の怒り・焦燥感であり、また対する九電の不誠実な態度である。

後半は、七月十一日の佐賀県庁での古川知事(当時、玄海原発の早期再稼働に前向きであった)に対する市民の抗議行動の記録である。意見書を提出しようとする市民グループと県職員との、またしても果てしない押し問答、会見場をめぐる小競り合い・・結局は県庁ロビーで行われた県の原発問題担当者への意見書の伝達と、県の対応に対する抗議の模様が映し出される。そして何ら解決への展望もないまま「映画」は終わる・・いや最後に「つづく」の文字とともに、前途の多難なこと、しかし屈することなく市民の行動は続いていくことを最後に示す・・。

このような「記録映画」を製作し上映することの意義とはなんであるのか?西山監督の師である土本氏の長年にわたる水俣での取り組みを振り返ることで示唆を得ることができる。一つには、①残しうる限りの記録を残すこと。水俣での数多くの証言、病理学上の資料が映像化されていることは、後世にとっても第一級の資料である。また、②その映像記録たる映画を広く公開することで、その問題に直接関わる地域、それ以外の地域それぞれの人々の課題意識を高めること。水俣や天草での巡回上映会は地域住民の意識の転換に決定的な影響を与えた。また海外での上映では、とりわけカナダの先住民の水銀被害に対するカナダ政府の政策転換を引き出す等、大きな反響を得た。③映画を撮る行為そのことが喚起すること。撮ること、撮られることによって、引き起こされる反発、共感。土本監督が地域の人々に寄り添って丹念に記録されることによって、様々な思いや言葉が紡ぎだされ、そこから水俣や天草に新たな共生の輪が生み出されつつある。今回併映された沖縄の基地問題を主題とした西山監督の「恨ハンを解いて、浄土を生きる」においては、まさにこの撮る行為によって初めて喚起されたに違いないような出会い、思いのぶつかり合い、思いがけず紡ぎ出される言葉、まさにそれが発せられる瞬間が捉えられている。勿論、基地問題はまだ解決にはほど遠い段階ではあるが、憎しみを越えた共生への希望がそこにあらわれているように思える。しかし「脱原発」の方ではまだ、思いのぶつかり合いはあっても、希望は見えてこない。この問題は始まったばかりだということを思い知らされることである。

先日三月十一日、熊本市白川公園で行われた「脱原発」を訴える市民集会で、今回の上映会に参加した幾人もの人たちとまた出会うことができた。映画に登場していた福岡の市民グループの人たちとも「再会」することができた。今すぐ取りかかっても完全廃炉までは数十年を要する。道のりは長く厳しいことは言うまでもない。しかし、人と人、人と環境とのつながりを呼び起こし、共生・平等の意識を共有していくことが、困難に立ち向かうために必須であり、またそのための「想像力」を高める手段としての記録映画の役割は大きいと言わなければならない。


小出裕章 原発と憲法9条

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編集後記 [2012年4月1日(第107号)]

◇今年の三月十一日は東日本大震災や福島原発事故から一周年でした。新聞に「もう一年か、まだ一年か」という言葉がありました。遠く離れた熊本にいても、「まだ」と思うことがあり、「もう」と思うことがあります。
◇宗門では、親鸞聖人七五〇回大遠忌法要が終わり、四月からは宗法改正で新しい制度が始まります。教団の現状に対しても「もう」と「まだ」と思うことがあります。

◇何か新しいことを生み出すには、「ひとを動かすことば」が必要だとある人が言っています。それはだれでも理解できるように、わかりやすく、はっきりとイメージできることばです。教団にそんなことばがあるのでしょうか。「御同朋の社会をめざす運動」にはそんな力はないでしょう。私たちを動かすことばをまず見つけなければと思うのです。

◇教団には、人材がいないのではありません。問題意識がなく、やる気もないのではありません。動く方向や、どう動いていいのかわからないだけでしょう。すばらしい親鸞聖人の教えがありながら、行動もことばも現代に通用しなくなっています。しかし、教えを甦らせるのは、私たちがどう動くかにかかっています。教えをもとにした動くきっかけになることばが求められています。
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