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「宗教の「倒錯」と「軽視」の世情に<真宗の今日と明日を問う>(こだま公開講演会要旨)  阿満利麿(明治学院大学教授) [2002年1月1日号(第66号)]


   焼身供養
 1963年6月11日、ベトナムのお坊さんが焼身自殺(焼身供養)をなさいました。

 お坊さんがどうしてわが身を焼いて仏様に捧げるということをなさったのか、それを可能にするベトナム仏教とは何か、私は長い間疑問に思っていました。

 焼身供養のきっかけは、その1ヶ月前の5月8日、フエで月遅れのお釈迦様の誕生を祝う催しの時、掲揚した仏旗が官憲によって引き裂かれ、そのことに抗議した仏教徒たちのうち子ども七人と女性一人が殺されました。その1ヶ月後の6月11日、サイゴンで亡くなった八人の追弔会が行われ、そのデモの最中73歳のテック・ハン・ドクさんは焼身供養したのです。

 彼の遺書には「私は発願した。自分の幻身を焼いて仏様に捧げる功徳によって、仏教が永続し、ベトナム全国の平和と国民の安楽が実現しますように、南無阿弥陀仏」と書かれていた。

 テック・ハン・ドクさんに続いて20人の僧や尼僧が焼身供養した。

 仏教は慈悲の宗教で、悲とは苦しみを共にするということです。ベトナム仏教は民衆の苦しみを共にしたのです。

 振り返って我々の先輩方は十五年戦争の最中、どれだけ民衆の苦しみを共にしたのか。日本の仏教徒は戦争の先頭に立った。そのことのつらさ、恥ずかしさ、情けなさはいくら思い出しても足りないですね。

   苦の原因
 ベトナムの仏教はベトナム戦争のなかで新しい仏教に変わった。このことを明確に述べているのがティク・ナット・ハンです。彼は現代のベトナム仏教を代表する人で、自分の教え子も次々と焼身供養しました。アメリカの本屋さんでは、ダライ・ラマとティク・ナット・ハンの本が並んでいます。

 彼はベトナム仏教の変わり方について次のように述べています。

「仏教は四聖諦を教える宗教である。ベトナム仏教徒はこの四諦の新しい解釈に踏み込んだ。苦、苦の原因とは何か。従来の仏教では苦の原因は個人の無明や煩悩であった。しかしベトナム戦争の真っ最中、民衆の苦しみを見ていて、果たして心のなかの無明や貪欲が生んでいるのか。苦の原因を追及していくと、個人的なものだけでなく社会に原因があるのは明白でないか。社会的な原因に目をつぶる仏教であっていいのか。苦の原因を追及していって、社会の構造、不条理に原因があるなら、それを取り除くために立ちあがるのは、仏教徒である証でないのかという結論に達した」

 苦の原因としての社会の問題に積極的に立ち上がる仏教をティク・ナット・ハンはエンゲージド・ブッデイズムと名づけた。

 誤解がないように申し上げておきますが、何も社会的な行動だけの狭いものでなく、そういうことを除外しない大きな行動力を持った仏教ということです。

 ティク・ナット・ハンは社会苦を解決していくために非常に深い洞察をしています。こういう詩を書いています。

 自分は川面を戯れているカゲロウだ。しかし同時に自分はそのカゲロウを食べる小鳥でもある。自分は蛙だ。しかし同時に蛙を食べる蛇でもある。自分はアフリカの飢餓で死にそうなウガンダの少年だ。しかし同時に自分はウガンダに武器を輸出している死の商人でもある。自分はボート・ピープルになったベトナムの少女だ。少女はある日難民を襲う海賊に犯され、身を投げて死んだ。しかし同時に自分は少女を襲った海賊でもある。

 このように相矛盾したあり方を詩の形でうたうんですね。つまり人間というのは善悪ともにある存在である。仏教で言えば、縁起的存在、私どもに親しい言葉で言えば、業縁から自由になることのできない存在。人は条件次第で何にでもなる存在であることを前提として社会苦の問題を解決していこう。その視点が大事で、加害者だけを責めても、また被害者だけに立っても社会苦は解決しない。犠牲者であり、加害者でもあるというような目覚め、智慧に支えられて慈悲を実践することによって社会苦を解決していくことが大事なんだ。それによって敵か味方か、被害者か加害者かという安易
な二分法に陥らない。

   新しい仏教
 従来の内面に閉じこもってしまう方向でなく、社会の苦を解決していく、その中で仏教も鍛えられ、鍛えられた仏教によって社会の問題も解決していく、そういう新しい仏教はベトナムだけではなかった。

 スリランカでは1950年代から社会に積極的に関わる仏教の新しい動きがあり、仏教に基づく村づくり、サルボダイ運動が行われた。

 タイでは、ダンミック・ソーシャリズム、仏法に基づく社会主義があり、ミャンマーの場合、アウンサン・スーチーは仏教徒であり、彼女の行動が支えられている。

 ドイツ生まれの経済学者、シューマッハはミャンマーの仏教から新しい経済原理を学んだ。利益を追求する経済システムでない、自分たちの暮らしを守っていく経済をまなび『スモール・イズ・ビューティフル』という本を書いた。

 アメリカの研究者はそういうことを一括してエンゲージド・ブッディズムと呼んでいる。

 アメリカのすぐれた仏教学者であり、人類学者である女性は次のように主張しています。アメリカでは環境問題と関わりのない仏教はありえない。その理由は、仏教は「縁起」を根本の教えとしている。縁起の教えに立つと、エコロジーの問題はよくわかる。一本の木が海の魚を育てることにつながっている。生態系がどれだけ密接な関係にあるかとようやく気づきはじめた。彼女はそれを「グリーン・ブッディズム」と名付け、環
境問題に積極的に関わる仏教運動を進めている。

   近代と近代以前

 こういう仏教運動が各地で新しく起こってきたのは一つの共通点がある。

 それまでは国家や社会は与えられたもので、自分たちの力で作り変えることは夢にも思っていなかった。社会の問題は原因がわかっていてもじっと耐えていた。国家のことを云々する人は特別な人で、民衆は自分たちの力ではいかんともしがたいと思っていた。1950年代以降、国家や社会は与えられた運命ではなくて、自分たちの意思によって変革できるという考えが一般に広まったことを前提としている。それが近代と近代以前の区別なんです。

 ですから仏教も社会や国家が運命であった時代と、自分たちで変えられると考えるようになったときでは変わっていくんですね。

 ベトナムで仏教の新しい変革があったとき、日本ではお東が同朋会運動を始めた。これは新しい仏教の流れのなかで見ると大きな意味を持っている。お東では「門主」という絶対君主を「門首」、信者のリーダーにすぎないとした。門信徒の代表にすぎず、大谷家でなくてもいいんです。

   真俗二諦
 真宗の未来を考えるうえで、真俗二諦を根本から克服することがない限り、西本願寺の未来はない。阿弥陀仏の十八願を信じ、念仏するという教えと、現実の社会の道徳を守るという二重構造でずっとやってきた。西本願寺の教団は真俗二諦という言葉はお使いにならないけれども、道徳を守るということをやかましく言っておられる。

 ある一般在家の方が得度された後、いろんな場で道徳を遵守するということをやかましく教えられたと言っておられました。またあるお坊さんに、どうして西本願寺教団は道徳にこんなにこだわるのかと聞きましたら、真諦だけでは他力の念仏にまかせ甘えてしまって、身の振る舞い方がよくないことがあるから、それを正す必要があると教えてくれました。

   (休憩)
 真俗二諦は封建教学じゃないんであります。明治以降、天皇制国家に協力していくためにやむなく作り上げたものです。維新後に作られた本願寺の宗制寺法を見ると、仏号を聞信し大悲を念報するのが真諦である。人道を履行し王法を遵守するのが俗諦である。その両方を守るのが真宗信者の条件だと書いてある。

 真宗信者はそれを忠実に守ったのです。浄土真宗の教えが盛んなところほど明治天皇の崇拝者が多かった。広島の信者は明治天皇に感謝するために三重の特別な塔を造り、一番上に明治天皇、真ん中に親鸞聖人を祀り、商売に成功したのは明治天皇のおかげと感謝した。ありがたい念仏者で、毎朝宮城に向かって礼拝するということで有名な人もいた。

 明治国家の作った道徳を遵守することを信者の基本要件としたそのプロセスのなかで「神道は宗教じゃない」という考え方も生まれてきたのですね。これは西本願寺の島地黙雷はじめ真宗のそうそうたるメンバーが考え出したことです。廃仏毀釈の後、新しい国家づくりに積極的に協力していく道を本願寺教団は選ぶんですね。その時困ったことがある。明治国家から国家神道を受け入れるように言われる。それに対して、神祇不拝を旨としてきた真宗教団は神道は宗教ではないということにしたんですね。神道は先祖を大事にするということで宗教ではないんだから、真宗門徒は神を拝んでもよろしいとしたんです。

   真俗二諦の問題点
 真俗二諦が持つ問題点の一つは、信心を肝要とする信心至上主義が放棄されてしまった。国家の道徳を守るということが優先された。

 もう一つの問題点は、現実の社会秩序、道徳に対する疑い、批判が全然生まれないということですね。現実社会の秩序を維持することで利益を受ける人がいる反面、不利益を被ったり、不当な人権抑圧によって苦しむ人がいる。現在の秩序、道徳を守るということは、秩序がうちに含んでいる矛盾、不合理の隠蔽に手を貸すことになる。実際その隠蔽に手を貸してきたのが真俗二諦の一面であったわけです。

 だから真俗二諦は真宗本来の教えでなく、教団の組織防衛論派だというと大変わかりやすい。

 聞くところによると、お西では「本当の真俗二諦というものがあるんだ。敗戦までは間違った真俗二諦を適用してきたが、本当の真俗二諦を作らなくてはならん」という議論があるみたいですが、道徳と宗教は違うという根本的な立場を明確にしたうえで、阿弥陀仏の慈悲に生かされているものはどういう生き方を選択するのか考えるべきであって、既存の道徳秩序を守るいうことが真宗信者の条件だということは二度とすべきでない。

   業縁的存在
 どうして真俗二諦というのは可能になったのか。それは本願念仏の説き方そのもののなかに余地があるんですね。

 法然上人が力説されたのは凡夫成仏ということだけです。凡夫がいかにして仏になるのか、その方法をお示しになった。念仏者に特別な道徳は課されなかった。その生き方は個々人にまかされた。

 なぜ法然上人は念仏者にふさわしい生き方、道徳をお説きにならなかったのか。それは人間は業縁に縛られた存在だからです。業は行為、縁というのは因縁、直接的原因と間接的原因、現代の言葉で言えば偶然と必然の網目のなかで翻弄されて生きているわけですね。

 あたかも自由意思というものがあって自分の人生を自分の力で切り開いていると思っているし、世俗の教育では主体的な人間を作ることが目的です。しかし、もっと深い立場で見れば、我々が自分で決断したということも直接的原因と間接的原因の一部ですね。ただ我々の自我が強大だから自分の選択は大きな意味を持っているように見えてるけど、原因結果の一部でしかない。

 業縁に縛られていて、しかも一人一人が背負う業縁は別々なんですね。だから画一的な生き方を強制しても実現できるわけがない。法然上人の手紙を読んでいると、よく出てくるのは「力及ばずそうろう」という言葉なんですね。法然上人は人が背負う業縁に対して深い洞察があったが故に、この世の生き方について何もおっしゃらなかった。それぞれが自分でいいということを判断していくしかない。ところが真俗二諦の教えは人間が業縁的存在だという認識が欠如している。

   真俗二諦からの解放
 真俗二諦の束縛から解放されることが、真宗に立って生きる出発点なんですね。そういう努力をした人が清沢満之です。清沢満之の大きな功績は、真宗の信心と世俗の道徳はまるで別々で関係のないことを明らかにしたということですね。

 清沢満之の最後の論文『宗教的道徳と普通道徳の交渉』で次のように述べています。宗教的道徳とは俗諦のこと、普通道徳とは世間の道徳のことで、わざわざ俗諦が説かれているのは、世俗の道徳を実行することは極めて難しいと念仏者に知らしめるためだ。信心が確定していない人は世俗の道徳に関心が移るかもしれないが、それが実現不可能だと気がついて本願念仏に帰していくことを可能にする。すでに信心獲得した人は道徳の実行の難しさを痛感することによって、他力の信心をますます喜ぶようになる。そのことを期待しているのが真俗二諦というものなんだと皮肉な解釈をしております。

 この論文が出ましたのは1903年であります。1890年教育勅語が発布され、日本国中が教育勅語体制に進んでいく。その時に、道徳というのは宗教の立場からいえば実行不可能であるという程度でしかない。王法を本とする、仁義を先とするのは付けたりだ、教育勅語は付けたりだとはっきり言っています。

 お西においては信心を強調することは、わが身だけを考え社会的な実践がないことと受け取られがちですが、清沢満之の信心中心主義というのは、信心から次々いろんな実践が出てくるのです。彼は教団改革に力を尽くすのですが、その根本は同朋主義ですね。彼は門信徒が教団に捧げたお金を門徒がチェックし、管理することを提案するんですね。

 清沢満之は仏教者は二種の世界に同時に生きると言っています。世俗を超えた世界に心をゆだねがちであるが、しかし同時に国家や社会、人倫という現実世界があることを忘れてはいけないんだ。その現実世界は自他の区別から成り立っている。その自他の区別がどういう問題を生みだしているかを問う。自己を問うとともに、自己が置かれている社会の問題を問う。二種の世界を問うということがないと、仏教者は生きにくくなっていく。

 二種の世界を同時に問わないとどういうことになるか。それは彼の弟子達がたどった道ですね。たとえば暁烏敏はいつも自分だけを問うことに力点を置いた。そしてその時代時代にぴったり合うように変身しながら生きてきたんですね。

   精神主義
 清沢満之は他力の信心に基づいて生きていくのを精神主義と呼んだんですね。絶対無限者に支えられた完全な立脚地にたった精神は、どこまでも発達し、展開していく。従って精神が発達していく筋道がはっきりと見える。

 なぜ彼は信心主義と言わずに精神主義と呼んだのか。信心というのは阿弥陀仏の十八願に対して存在する。彼が精神と言ったのは、信心に基づいて人生の様々なことに処していく主体のことではないか。彼は精神主義を「世に処するの実行主義」と言っています。

  清沢満之は精神主義には二つの作用があると述べています。一つは自分のなかには完全な立脚地があるので、外のものに引きずり回されることはない。もう一つ強調していることは、共協和合によって社会国家の福祉を発達せしめんと思うことである。

 別のところでは他力の行者は人生の正道を践行する。人生の正道とは世界の進歩と改良に努力するようになることである。清沢満之が強調しているのは、親孝行しようとか、他人にやさしくとか、個人的な徳目じゃなくて、社会のあり方に関わるようなことを指摘しているんですね。

   高木顕明
 高木顕明は清沢満之と同世代の人です。愛知県のお菓子屋さんに生まれ、お東のお坊さんになって和歌山県新宮にあるお寺に住職として派遣された。そこのご門徒はほとんど被差別部落の人で、悲惨きわまりない。こういう人たちからお布施はもらえないと、マッサージを学んで食べていく。

 彼は焼身供養したテック・ハン・ドクさんと同じで、彼らの苦しみをわが苦しみとしてしまう。そこから廃娼運動や部落解放運動を起こします。日露戦争のとき、仏教界や本願寺でも戦勝祈願をする。しかし彼は「親鸞聖人のお書きになったもののどこに戦争に勝つために経文を読むのがよろしいと書いてあるか」と拒否し、寄付にも応じなかった。そうしていくうちに社会主義者たちと交流するようになる。折しも千九百十年、大逆
事件が起き、彼は連座して死刑判決を受ける。彼は逮捕されてもなぜ逮捕されたかわからない。彼は堂々と「自分の社会主義は阿弥陀仏を信じるところから生まれたもので、マルクスの社会主義とは違うんだ」と述べています。

 高木顕明の残した拙い文章には「自分の行動は阿弥陀仏の慈悲を受けるようになってからのものだ。阿弥陀仏の慈悲を体認した者は阿弥陀仏の慈悲を他に及ぼしたいという気持ちになるのはあたりまえのことだ」とあります。特に彼は向上進歩と協同生活が念仏者の目標だ。向上進歩とは戦争や差別のない社会を作りたい。協同生活とはわれわれの労働は労働することによって仏教の教えを実践できるような暮らしを実現することで、人が人に踏みつけられるものでなく、自分たちが仏法を心から喜べるような生活を実現したいということなんですね。

 高木顕明は仏教者は世俗の問題に目をそらしがちだけど、それでいいのかと問うている。

 エンゲージド・ブッディズムの批判としてよく出てくることですが、仏教はあくまで心のなかの問題で、歴史上の釈迦は心のなかの無明の克服を説いたのであって、社会変革を目指すのは仏教の役割ではない。しかし、大事なことはティク・ナット・ハンや高木顕明あるいは清沢満之が目指したことは、仏教は世俗道徳とは違う社会的実践を持っているということです。仏教は仏教特有の社会的実践を生み出すものだ。仏教の社会的実践は根本的には苦からの解放です。浄土真宗はしばしば仏教であることを忘れている。

 浄土真宗は確かに現実の人間が行うことには懐疑的な宗教です。凡夫がこの世をよくしようとしても、血で血を洗うことではないのかという深い懐疑心を大事にしている仏教ですが、あらゆる存在が苦から解放されることを願う宗教であることには変わりはない。

   願いの実践
 ティク・ナット・ハンはアフガン戦争反対のために断食しましたが、断食したからといって何の役にも立たない。

 しかし絶望することはないんです。政治運動においては目的のために殺人が肯定され、差別を助長するということがある。しかし仏教に基づく運動では殺人や差別は容認されない。

 本願念仏の社会的な実践はあくまで願いの実践である。願いに倦まないということが特徴である。

 本願念仏宗においては社会的実践は画一的なものではない。すべてが高木顕明のようなことをする必要はない。阿弥陀仏の慈悲と出遇うことでそれぞれ願いを持つ。その願いに忠実であればいい。本願寺が上から下に向かって門信徒はこういうことをするべきだとスローガンを掲げることは反本願念仏的あり方です。

  〈質疑応答〉
問.信心の社会性というのは新しい真俗二諦ではないのでしょうか。
答.社会性というとらまえ方が今の社会秩序を前提とするものなんですね。小泉批判や靖国反対というけれど、みんなが言える状態だから言えるんですよ。もしも言えなくなったら言いますか。そういう脆さを抱えた社会性なんですね。信心の社会性はそう言わないと現代に生きていけないから言っているんじゃないですか。お東の同朋会運動は親鸞に帰れと言ったが、お西の門信徒会運動は蓮如に帰ったのじゃないですか。
(文責…編集部)

日本人はなぜ無宗教なのか

日本人はなぜ無宗教なのか

  • 作者: 阿満 利麿
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 1996/10
  • メディア: 新書


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真宗風土記(下)熊本の場合  熊本組・善教寺前住職 本田里一 [2002年1月1日号(第66号)]


     力強い教化の底流
 次に目を移して教化の方を見よう。熊本には古来妙好人的な篤信者はいなった。仰誓師等の合著になる「妙好人伝」には肥後の人として「法順」とう禅門と、「源助」という町人の二人が紹介されているが、それ以外に篤信者の物語りなど巷間に伝承されている者はない。

 教化の現状を見るとあまり活発でない。山陽、山陰の地方から時々一流の布教使が来講するが、参詣者は老年が多い。それも年々減少の傾向にある。青年層にしてよりつくものは極めて少ない。「今の老人が死に絶えたらどうなるのか。」「今の青年が其の時は老人になっているからかまわない」というのでは情けない。

 しかしながら地味で目だたないけれども、コツコツとして心田を拓いているいる人達のあることも心強いことである。例へば「本願寺新報」に曽て「一隅を照らす人」として紹介されたことのある泗水浄信師の如き人がいるのは心強い。師は若い頃一燈園に入って下座行の精神に参入し、龍大を出てからは福井の佐々木徳潤師について信仰の上では辛酸をなめた人で、温厚篤実素朴謙虚な努力家である。性頗る無欲活淡で、ある時は前科無頼の徒を家に入れて寝食を共にして面倒を見たりする。その徳行は次第に四隣に感化を及ぼしている。自ら持すること甚だ厳しく規律があり、人を許すこと寛大、師の如きは珍しい。近来は軽い中気の為門を出ること少なく、専ら読書に親しみ特に『教行信證』と取り組んでいる。人間五十を過ぎると『教行信證』が懐かしくなるが、師も亦そういう年齢になっているのだ。

 高千穂徹乗師も亦力強い教化を与えている。病気の為に龍大を辞してから、故山に帰臥してから「法輪の会」を主宰し研究のかたわら教化用のパンフレットを書いて恩寵の福音を説いている。磨かれた人格とあたたかい温容とは和らかい春風の如く接する人の心を和らげる。声なき説法は声の説法よりも、ここではさらに有力である。泗水師の場合といい、高千穂師の場合といい、其の教化とは弁舌や筆端にのみあるのではなく実に信ずる所篤く、行ずる所深い人格にあることを深く反省せしめられる。

 これからの教化はいかにあるべきか。これは広く宗門再出発の重要課題である。このむずかしい問題に身をもって解かろうと熱心に努力する若い人達の集まり「和光会」というのがある。熊本市及び周辺の若い住職達によって結成されたものであるが、
従来忘れがちであった各寺院の横の連絡を密にして互いに協力し合い和光会員相互に講師となり合って和光会の定例講座を開いて布教に新鮮味をもちながら教化技術の研究をするという一石二鳥をねらっている。そして時々大会を開いて中央から名士の来講を催したりする。

 昨年は藤沢浄円師が見え、今年は川上清吉氏が来られた。中央から大物を招待することが出来るのも、寺院間に横の連絡があって相互に協力しあうからである。一ヵ寺単独では出来難い事である。和光会の結成以来日がまだ浅いので実効を云々するのはまだ早い。今後の活躍が大いに期待されるのである。要するに教化の方面では華々しくないが、力強い底流が徐々に動きつつあることは疑いない。

 学事の紹介の際もらしたが、在野の学者として能令実円師が今なお健在であることもいっておきたい。師は速満勘学の裔で早くから宗乗、余乗の造詣が深く、久しく自坊に仏教学院を開いて地方の宗門子弟の教育に当たっていたが、今は閉校している。宗会議員にも出たが、師の面目はむしろ学にあると思われる。

 最後に布教家について述べたいのであるが、熊本の住職は、檀信徒の読経に忙しく布教方面に進出するものが少ない。従って優秀な布教家が少ない事はさびしい。山田法川・大久保三藏・源賢随隨師等があって大いに県外に活躍している。

 優秀な布教家が少ないことが熊本県の信仰沈滞の一因をなしていることも事実であろう。

親鸞と浄土真宗 知れば知るほど

親鸞と浄土真宗 知れば知るほど

  • 作者: 山崎 龍明
  • 出版社/メーカー: 実業之日本社
  • 発売日: 2006/06/30
  • メディア: 単行本


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編集後記 [2002年1月1日号(第66号)]

◎一昨年末、新世紀を迎えるにあたりマスコミも世論も一斉に「戦争の世紀から平和の世紀へ」と抽象的平和論を展開しました。

◎しかし、現実は、同時多発テロをきっかけに、アメリカのテロ撲滅のための正義の戦争、それにわが国自衛隊は後方支援。そして年末、「テロ対策特別措置法」成立直後の不審船との銃撃戦・・・。わが国も「戦争できる国」へ向かいつつあるようです。

◎かって「追悼しながら戦争」という道を歩いてきたわが教団の教義の根拠は「真俗二諦」でありました。社会の秩序・道徳を最優先する教義を駆使し、そのような妙好人を育ててきたのです。これから真俗二諦を克服し、どこまでも真宗信心に立脚して人生・社会の諸問題に処していく「真宗」にかえり得るのか・・・阿満先生は『真宗の今日と明日』を熱っぽく、理路整然と獅子吼して下さった公開講座でした。

◎前号に続き、善教寺前住・本田師の遺稿を掲載しましたが、紙面の都合で一部削除しております。ご了承下さい。  「磨かれた人格とあたたかい温容とは和らかい春風の如く接する人の心を和らげる」「教化とは弁舌や筆端にのみあるのではない」というご文に、教化の真髄を再確認させられます。


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