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「葬儀社さんに聞く」② 熊本の葬儀事情の今 [2011年4月1日(第103号)]

《家族葬・直葬専門の業者やイオンの葬儀料金定額制などについてはどのように見ておられますか》
低額パックといっても基本料金でしょう、オプションを付加していくと結局・・ということになると思います。

ただ、これまであまりなかった事ですが、相見積もりといいますか、事前に他社との見積もりを比べて、他の葬儀社はこの値段で出している、みたいに費用明細を聞いてくるケースがでてきています。
インターネットにモデル別の基本料金表とかを出しているところも増えてきました。以前はほとんど知る機会がなかった葬儀の次第や費用についての情報を、今はいろんなところから仕入れることができるようになっています。

私たちの葬儀社でも家族葬、直葬、何でも対応できるし、事実やってきたんですけどね。本当は価格勝負というだけでは成り立たない仕事なんですよ。実際に葬式をだしてみて、喪家や会葬者さんがそのことを一番に理解されると思いますね。


《今後、葬儀形態はどう変わっていくと思われますか》
今後、熊本の葬式も二極化していくと思います。伝統的な流れにそってキッチリつとめられるところと、葬式をしない、或いはできる限り簡略化して、火葬前の読経だけみたいなところとの二極化ですね。

喪主として葬式をだすというのは滅多にないことです。時間も無いなかで、自分流の葬式などできはしません。以前は組うちの仕来りに任せておけばよかったのですが、今はほとんどの方が斎場を使われますから、結局私たちに相談されることになります。*これまでに自分が会葬者として、或いは世話方として参列した葬式を思い出しながら「ここは出来ればこうして欲しい」くらいの要望はありますが、やはり最後は費用のことになりますね。


《僧侶側に何か言いたいことはありませんか》
言っていいんですか(笑い)葬儀社の立場というより喪家に代わって言わせていただければ、まず時間厳守、15分前には着いていただきたい。

お寺さんにとっては年に何回も勤める葬式の一つであっても、喪家にとってはン十年に一度、お袈裟や衣体、身だしなみにも気を遣ってもらいたいと思うことがあります、喪家やご親戚はよく見ておられて、後で結構話題になっているんですよ。

以前は、同じ宗派・同じ教区のお寺なのになぜこんなに住職さんの考えが違うのだろうと不思議に思うことがありました、このごろはお経だけは同じようになってきたかなぁ…。
私はずっと以前から葬儀社と住職さんたちとの合同研修会開催を訴えてきましたが、必要だと思われませんか?


(編集子)私が継職してまもなくですから20年以上前になりますか、教区会館で葬儀社さんに集まっていただいて研修会を開いたことがありました。広報伝道部だったと思います。司会進行しましたが、習俗迷信に関わる話し合いの結論が「葬儀社研修ではなく、先ず住職の研修をすべき」だったことを印象深く憶えています。

その後、開催されましたか?「熊本の浄土真宗本願寺派の葬儀はこのように進める」と住職にも葬儀社にも徹底できるように合同研修会を開いて決められるところだけでも決めていけばいいんじゃないでしょうか。

《ご意見ありがとうございました》



死に方を忘れた日本人

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  • 発売日: 2003/05
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タグ:真宗 熊本 葬式
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編集後記 [2011年4月1日(第103号)]

◎三月十一日に起こった東北地方太平洋沖地震は、東北・関東をはじめ広い地域に被害をもたらし、今も予断を許さない状態が続いている。この震災により奪われた多くの生命に対し、心より哀悼の意を表し、今も悲しみの中で生活しておられる全ての皆さまにお見舞いを申し上げます

◎地震・津波などが天災であるのに対し、東京電力原発事故はまさしく人災である。被爆国であることはもちろんのこと「地震国の日本には原発は不向き」とその安全神話が虚構であることは以前から指摘されていた。「こだま」では一度も原発についての論考を掲載したことはなかったことが今になって悔やまれる

◎石原都知事の「震災は天罰」発言を初めとして非常時だからこそその真の姿が露わになる。大谷派は震災後いち早く3月12日の親鸞聖人750回大遠忌オープニングイベント中止を発表、その後、第一期法要を「被災者支援のつどい」として開催するとした。また知恩院は3月14日に法然上人800年大遠忌の延期を発表した。本願寺派は3月17日になって「法要決行」を旨とする総長談話を発表した

◎安易な自粛ムードに迎合して法要を中止したり延期する必要はないと思うが、ただここまで発表を延引したのにも関わらず、「宗門として被災者の方々を全力で支援してまいりたい」「被災されたすべての方々の悲しみに寄り添い、その思いをわかちあって大遠忌法要をお勤めさせていただきたい」と抽象的な言葉に終始し、(三千万円を東北教区に送ったとはいえ)具体的な支援策を出せなかったのは残念だった。「大遠忌の資金を義捐金に」という意見が出てくるのも当然である

◎物心両面にわたる被災者の方々への支援を行うのは当然であるが、この災害を通して見えてきた課題の総括は我々の必須事項である。(藤岡崇史)
タグ:真宗 お寺 親鸞
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布教対象者はどう変わったのか~戦後の変節  橘 孝昭 [2011年4月1日(第103号)]

保育の現場で子育ての現場に携わっていると、その保護者が育った時代背景を理解する必要を感じています。「価値観の多様化」という言葉の裏には、以前の考えでは到底理解できない問題が多々ある、という事が窺えます。

戦後の急速な変節を通じて出来あがった「現代の価値観」、という理解を通すことなしにはどの様に保護者に向かうべきか、対応すべきかが理解できないと考えるようになりました。

同様に、「念仏の教えが伝わりにくくなった」「お念仏の声が聞こえなくなった」という現代を理解する上でも、布教対象者である現代の人々をどの様に理解していくか、という事は大事なことだと考えます。

戦後の変節は4期ほどあったと言われます。

戦後間もなくの「農村を基盤とした社会」から1955年以降の「高度経済成長」、そして1980年代の「バブル期」、1990年代から現代に至る「バブル崩壊・就職難」の時代です。

この戦後の節目を通しても一貫して共通している事があります。それは「親が子に『教え、伝える』ことが年々少なくなってきている」という事が挙げられます。

現在の生活は、明らかに『経済力』を基盤とした生活様式になっています。

以前は違いました。『生活力』(技術・知恵)が基盤であり、自分たちの『手』で生活を築いていた、と言えます。

例えば、道具を作りおもちゃを作り、食事を作り、野菜を作り…等あらゆるものを自分達で生産しなければ生活はできなかった。そういう時代背景があったと思います。当然、そこには生きていくために技術を、知恵を、慣習(習わし。文化)を親が子ども達に伝える必然性があったはずです。

日本は高度経済成長期以降(特にバブル期以降は)、『経済力』を基盤とした生活様式(社会構造)へと急激にシフトしていきました。その結果、今まで自分達で作りだしていたもの(食事・おもちゃ)等が、あらゆるモノが商品化され、今や何でも売ってあります。お金さえあれば何も作らなくても生活できる社会となりました。

また最近では、食器洗浄機を買う事により、毎日皿を洗わなくても(家事をしなくても)生活できるようになりました。

「生産者」から「消費者」へと完全に移行した結果、子どもに皿の洗い方すら教えなくてもよくなりました。「親が子に『教え、伝える』ことが年々少なくなってきている」とは、そういう時代背景の中で減少していった様です。

「生産者」から「消費者」へと意識が変化していく中で、1960年代以降は特に高学歴志向が加速していきました。勉強時間確保の為、親が子に生活の様式について教え伝える「時間」も「場」も次第に失われていきました。親子の分離、「個」の時代の始まりでした(慣習・文化断絶の始まり)。

更にこれ以降は、親が子に教え伝えることは「勉強しなさい」の一言へと収斂されていったと言えます。

現在の時代の閉塞感は、未だに『経済力』を基盤とした生活様式を追い求めようとしている姿にあるのかもしれません。『経済力』を基盤にしようとする以上は、都会へと人が集まるのは必然です。都市部は生産の場ではなく、主に消費の場であるからです。

因みに消費の場であり、サービスが整った都会であるほど「少子化」は顕著であり、生産の場であり、サービスが整っていない地方程、親が子どもを産み育てる傾向は強くなります。

深刻なのは「生活力(技術)の衰え」と言えます。便利なモノを戦後何十年もかけて商品化して購買(消費)していった結果、それらを「買う事」が生活の目的となっていき、お金が無くても何とか出来るという「技術・知恵(生活力)」というものは軽んじられていきました。

お念仏の教えが伝わりにくくなった理由として、布教対象者が(生活力のある)「生産者」ではなく、経済力を基盤とした「消費者」へと意識が変換していった事がその底辺にあると考えます。

加えて「学歴社会」の継続により、全体的に教育水準が高くなり、今まで培ってきた論法では納得できなくなってきた背景が有りはしないでしょうか。

「浄土」「お念仏」を中心に説いてきましたが、例えば死後の対象としての浄土とは、どの程度の存在感を持ってこれからの方々(世代間断絶・高学歴世代)に伝わっていくのでしょうか。「お念仏」にしてもしかりです。「(お念仏を)唱えなければ(その意味は)わかりません」と言って勧めても、難しいのが現実です。

理由として生活体験がどんどん少なくなり、塾やゲーム、部活動で忙しくなった世代が今大人になっています。いのちを切り刻む、食事を作る体験も不足し、また虫すら身近にいない環境で暮らしている。親子ですら、生活の接点が少なくなってきている。

以前と比べると、あまりにも命からかけ離れたところで生活している、と思います。極端な話、身近にある命とは「我が命」これだけしかない、と感じている人もいるのではないかと思っています。
「教えが伝わりにくくなった」という背景にはそれらの戦後の変節があったと考えます。

また教団は、東京教区など大都市圏を特区にして大量の「浄財」をつぎ込み、信徒獲得を目指しているようですが、いのちが次々と消費されていく地域にどのようにして切り込むのか、布教していくのか。逆にいいように利用され、消費されていかないかを心配しています。

人は聞きたいことしか聞かない、という特性を持っています。

現代の状況を鑑みてお聖教のみならず、現代の布教対象者を歴史的に社会学的に捉えなおして、教学を、伝道を見直す必要があると考えています。



私と世界、世界の私 13歳からの大学授業 (桐光学園特別授業4)

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  • 発売日: 2011/07/04
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