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「『自信教人信』の願いに燃えて」4   浄土真宗に出遇えて  緒方教意 [2006年10月1日号(第85号)]

 私は中央仏教学院の通信教育部で学習課程(3年)と専修課程(3年)を学ばせて頂きました。そのテキストの初めに「宗教は人間生活の危機的情況に根ざす」とありましたが、今顧みますと、まさに平成二年、父を亡くした時が、私にとってその時だったのかと思われます。

 通夜、そして葬儀、仏事と一連の流れの中で、仏教・浄土真宗のことにあまりに疎かった私は悩み、困惑することばかりでした。

 例えば、納棺の時の六文銭のことや、法名の字数の多少にうるさく注文する伯父の意向に同意する等々、それは真宗門徒とは名のみの有様でありました。しかし、それもこれも偏に五十代まで仏法に背を向けていた私のお恥ずかしい実情であります。

 父が亡くなって数年間は、仏教書を買って読んだこともありました。しかし、今ひとつ胸のつかえが残ります。

 その頃の私は仕事と二人の子供が学業の最中でもあり、お寺参りは母にまかせっきりでした。今思えばこれが大変な間違いだったのです。 折角父からの仏縁を頂きながらも、それを見過ごしていました。

 しかしその頃、母の病が重くなり、そのため私がお寺参りをさせて頂くことになって、この母の病気がまた私を浄土真宗へと後押ししてくれたのです。

 その頃、ふと目にしたのがお寺から頂いた本願寺新報紙の、通信教育生徒募集の記事でした。

 早速、学習課程で浄土真宗を体系的に学びたいと始めました。入学式も本山まで行きました。

 その時の総長は松村了昌先生でしたが、ご挨拶の中で「あなた達は、自分がいかにバカであるかを勉強するのです」と言われた時のショックも懐かしい思い出です。

 六年間の学習期間は、まるで少年のごとく新しい知識と未知の世界に胸踊りました。五十歳を過ぎての記憶力や、試験、声明の練習には苦労もしましたが、すべて楽しい思い出となっています。

 学院の先生方はとても熱心で、学習課程がすめば、引き続き専修課程へとのお勧めがあります。

 しかし、一つの難関があります。それは専修課程を終えれば得度考査と教師試験が免除になります。

 そこで最初にご住職の同意の印が必要です。これがないと先に進めません。私の同行でこの同意が頂けず得度を断念せざるを得なかった方がかなりありました。理由は様々ですが本当に悲しくお気の毒でした。

 私の場合は、ご住職のお計りで教師まで頂けました。

 扨、その後が大変です。僧侶に成らせていただき、袈裟の重みと使命の重大さに身の引き締まる思いで自信を深めて、聞法に励むべしと、聖教に学び、お聴聞をし、伝道布教へと胸は膨らみました。

 しかし、現実は、知人や友人、親戚までも、寺族でもないのにその年で何故僧侶に、と・・・、これには正直参りました。最初はなかなか理解してもらえませんでしたが、私自身は一度限りの人生で浄土真宗に出遇い、そして真宗僧侶になって本当によかったと慶んでおります。

 私は、いま真宗のご縁をいただいた以上、「全員聞法、全員伝道」の道を一歩でも前にと思っていますが、先輩の僧侶から、そう簡単なことではないよと、私の歩みの確かさの再確認を促されているところです。

 思えば、この私が煩悩具足・罪悪深重の身であるという信知も、常々お聞かせ頂き、お育て頂いたお蔭であります。

重ねて、親鸞聖人の「誠に知んぬ、悲しきかな愚禿鸞・・・」のお言葉と、「慶ばしいかな、心を弘誓の仏地に樹て・・・」とのお言葉は、私への聖人直直のお言葉と頂いております。

 慚愧・悲嘆のうちにも、阿弥陀如来さまの深いお慈悲を賜り、お念仏申しつつ、一日一日を力強く、そして心豊かに生かされてゆく念仏者でありたいと思います。〔熊本組・専崇寺衆徒〕

親鸞の教行信証を読み解く〈5〉化身土巻(後)似て非なる「仏教」―許すべからざる詐称

親鸞の教行信証を読み解く〈5〉化身土巻(後)似て非なる「仏教」―許すべからざる詐称

  • 作者: 藤場 俊基
  • 出版社/メーカー: 明石書店
  • 発売日: 2001/03
  • メディア: 単行本


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