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イラク攻撃に関する 我々の「非戦」行動  大松龍昭 [2003年7月1日号(第72号)]

 この度の戦禍の中で沢山の命が失われていくその毎日を、仏教徒として皆様も大変やるせない思いでお過ごしであったろうと思います。それは私たちが「如何なる経緯があれ、戦い命を奪いあうこと、それ自体を「非ざること」として深く悲しまれる仏の教えを頂いているからでありましょう。この度の我々の「非戦」行動も、もちろんそこから生じたものであることは言うまでもありません。

 更に言えば、我々の「非戦」行動の背景には、それが「私たちがまことの仏教者へと回復していくためにどうしても不可欠な営みである」という認識もありました。というのは、今回の戦禍がイスラムやキリストの神の名の下に正当化されてきたように、私たち仏教徒もまた先だっての大戦において、仏の名の下にそれを積極的に正当化し沢山のご門徒を戦地へと駆り立てていったという、まさに仏の願いに「非ざる」歴史的事実をもっているからであります。したがって、それを忘れての「非戦」の歩みなどまた私たちにはあり得ないと考えています。

 我々『聞光の会』が主催して行った「非戦」行動は計3回でした。ただ、『聞光の会』とは、私とその他数名の誠に小さな勉強会に過ぎず、実際には熊本市の広福寺仏青(宇治和貴代表。今回の行動は彼らの活動に触発された所、大でした)、そしてその他有縁の方々との主催であった事を申し添えておきます。

①「非戦ライブ」…4月4日、於:辛島公園。
 「ライブ」形式にしたのは、音楽を通すことにより一般の、そして若い世代にまでその思いを共有できるのでは、との思いがあったからです。悪天候の中でしたが、賛同して頂いた六つのアマチュア・バンド、そしてカリョウビンガ等の教区内の方々の出演も多数頂き、内容的には充実したものでありました。参加者約200人(『本願寺新報』)。

②公開講演会…4月7日、於;パレア第一会議室。
 「イラク攻撃の「正統性」と反戦の声」という講題で、花田昌宣熊本学園大教授を招いて講演会を開きました。イラク攻撃の本質、すなわちアメリカ一極主義というエゴを鋭くご指摘下さり、戦争の背景にある巧みなしくみを見抜くことの重要性を改めて痛感した内容でした。参加者は約100人(同)。

③全戦没者追悼法要…4月21日、於:辛島公園。
 この度のイラク攻撃がようやく収まりゆく事態に際して、失われた尊い命に思いを馳せ、そして「非戦」の思いを更に強くせん、として行ったものでした。無論そこには、ここに至るまでの我々の及ばぬ歩みに対する慚愧の念も含まれていたことは言うまでもありません。参加者は約70人(同)。

 振り返れば、こうした我々のこの度の「非戦」行動は誠に不充分なもので、そして種々に行き届かぬものであったと痛感しています。したがって、我々の耳に届いたご批判のほとんどは「さもありなん」と言わざるを得ないものです。

 ただ、その中であえて申し上げたい点も一つあります。それは、「見てみぬふりをすることは、加害者の側に立って賛成の意を示すこととなります」(呼びかけ文の一部)の表現に対する批判についてです。つまり、それを「面だって戦争に異を唱なえないものは仏教者にあらずと言うなら、それは正に排他的だ」という趣旨として受け取られたのでありましょう。確

 かに、かりにも教区内全ヶ寺に呼びかける場合、様々な解釈と反応があることをあらかじめ鑑みた上で、その表現には充分な配慮をすべきであったと反省をするところです。

 ただその上で、しかしこうした事態を目の当たりにしてなお「語らず」というのであれば、一体私たちは何者であるのかと、逆に問いたい思いも一方で確かにあるのは事実です。なぜなら、そもそも「おまえの痛み・悲しみは私の痛み・悲しみである。私はそれを決して放ってはおかぬ」という阿弥陀仏のお慈悲を頂戴しているのが我々でありましょう。であれば、この戦禍の苦しみは私の苦しみであり、そしてこの戦禍そのものがまさに「非ざる」ことであると声を挙げずにはおれない、そういうお慈悲の「発信者」としての身の上へとお育てを頂く…私はそれが、阿弥陀仏とご縁を結べし者の賜る「常行大悲の利益」の内実ではなかろうかと思うのです。

 つまり、ある呼びかけに賛同するしないは「面々の御はからい」なのであって、大事なことは各の立場の中でそれぞれの活発な動きがもっとあってもよかったのではないかということであります。

 かく申せば、「それは日常の法務の中で充分に行っている」とのお言葉もありましょう。それは誠に尊いことであります。しかし…かのオウム真理教の幹部の一人が「私にとってお寺は単なる一風景に過ぎなかった」ともらしたというのはよく知られた話です。それはいわば、私たちが限られた枠内に安住し、そして外に向かっての積極的なお慈悲の「発信」を怠ってきた…、そのことが鋭く射抜かれているような気がしてなりません。

 私たちがその行動の場をあえて外に求めた所以もそこにあります。もっとも、それゆえに「単なる目立ちたがり」との批判もあったわけですが、しかし私たちが外に出て、「非戦」という声を「発信」したことの意味は、やはり少なくはありませんでした。なぜなら、その「発信」があったればこそ、今までの枠内では出遇うことの出来なかった色んな方々の「返信」に出遇うことが出来たからです。例えば「非戦ライブ」を共にしたミュージシャンの一人が、「お寺さんがこんなことをされるとは正直意外でした。何だがとても心強く思えました」と言って下さいました。私はそうした言葉(「返信」)に出遇えただけでも、この度の我々のおぼつかない「発信」も決して無駄ではなかったと思ったことです。無論、この度頂いた種々のご批判、それらもすべて「発信」あったればこそ得られた貴重な「返信」の一つに他なりません。その「発信」と「返信」の交わり、すなわちまさに「交信」というものが盛んに成り立って初めて、非戦平和の灯火というのはようやく広がっていくのではないでしょうか。
(種山組・大法寺住職)
http://www.hongwanji.or.jp/minna/2003/min030401.htm

愛国者は信用できるか

愛国者は信用できるか

  • 作者: 鈴木 邦男
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2006/05/19
  • メディア: 新書


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