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―こだま公開講演会要旨①―今、この国で進行している危機  斎藤貴男(文責・こだま編集部) [2003年4月1日号(第71号)]

 私は元々こういう問題が専門だったわけではなく、経済政策を中心に取材していたんですが、今の規制緩和の問題を追いかけていきましたら、教育問題につきあたり、また広げていったらこのようなテーマに行き着いたのです。

 昨日、アメリカとイギリスが国連安保理事会で審議決議案を出しました。日本はそれを支持するという事を表明していますので、事実上既にイラクに宣戦布告した状態になっています。対イラク戦争が核攻撃かなんかで一瞬で終わったとしても、当然生き残った人達はいずれ復讐をするでしょう。そうなった場合に、アメリカやイギリスを攻撃するよりも日本を攻撃する方が簡単です。

 むしろ今の日本政府はそういう事件を待ち望んでいるのではないかとさえ私は考えます。つまりそういう事態になれば自衛隊や社会の仕組みそのものを作り変えて日本を軍事国家にしてしまうことに国民が賛成する、そういう状況を政府は望んでいるのではないかと思うのです。

 一方では北朝鮮の問題があり、拉致された人の家族と例の「新しい教科書を作る会」の人達が一緒に活動してるんですね。家族の方々が北朝鮮の体制を憎むのは当然ですが、その悲しみを利用するような形で戦争ができる国つくりが進められているような気がしてなりません。こういう話は、皆様もあちこちで聞くと思うんですが、私が人一倍、非常に過敏なぐらいに危機感を抱いているのには理由があります。

 それはここ数年積み重ねてきた取材が、特に戦争の話を取材をしたのではなくても、やはりこのところに最後はここにたどり着いてしまうからなのです。

 実は私が危機感を抱いたきっかけになったのは教育問題です。教育改革といわれる流れです。私はこれを2000年から取材を始めたのですが、その時には、「新しい学習指導要領」の問題がある程度明らかになっていたわけです。「新しい学習指導要領」というのは、それまでよりも小中学校の授業時間の内容をおよそ3割削減するというものですが、「今までは勉強はレベルが高すぎるから、おちこぼれができてしまう。だから最初からレベルを下げることで、皆がある程度できるようになる」というのが文部省の説明でした。

 しかし、その頃日本の子どもたちの学力低下の問題がささやかれていました。日本の子供達の平均学力が世界でトップだったのに、段々下がってきている。特にやる気のない子が増えてるという問題が指摘されていました。そんな時期に勉強量を減らすというのは、果して矛盾しないのか?これでいいのか?と、ごく普通の問題意識をもって取材を始めたんです。

 学習指導要領の元になる報告書をまとめた、教育課程審議会の会長、三浦朱門さんのところに取材に行きましたら、この三浦さんがものすごいことをおっしゃったんです。「平均学力が低下するなどというのは、予測しうる不安というか、むしろ望ましい事なんだ。今まで平均学力が高かったのは、勉強のできない落ちこぼれを一生懸命底上げしてきたからなのだ。だから学力平均は良くなったけれども、その分エリートが育たなかった。だから今の日本はこういう状況になった。そこで、これからは出来ない者には教えない。出来ない者は出来ないままで結構だ。限りなく出来ない、非才、無才は勉強などやめてもらって、ただ実直な精神だけを養ってもらえばいいんだ。そうやって浮かせた手間と暇と金をエリートに振り分ける。したがって、ゆとり教育と言っているけれども、それは手段であって、目的はエリート教育なんだ」とおっしゃったんですね。

 では何故、はっきりエリート教育と言わないのかと言うと、「それはエリート教育と言うと世間が反発するから、まわりくどくゆとり教育と言ったのだ。」こうおっしゃったんですね。その時にこういう事も話していました。

 三浦さんが子供の頃、近所に中央官庁の局長さんがいらっしゃったそうです。その人のお母さんが、「苦労しながら息子を東大まで行かせたんだけれど、官僚になって出世したもんだから、話が合わなくなってしまった」と嘆いていたそうなのです。要するに行商の子は行商でいいと。なまじ勉強なんかして、高望みをするから不幸になる、とこういう話をされるわけです。つまり、封建時代のような考え方ですね。そういう考え方を元にこのゆとり教育はあるんだとおっしゃいます。国の教育政策がそういう考えの元で行われているのかということを知って、私は愕然としたわけです。

 実際そのゆとり教育の内容が明らかになった時、小学生の子どもを持つ家庭には、中学・小学校受験の予備校からダイレクトメールがくるようになりました。

 どういう内容かというと、新しい学習指導要領がはじまると、例えば小学校では円周率をおよそ三というふうに教え、台形の面積の求め方を教えて貰えなくなりますよ。中学校では、必修英単語が大幅に減ります。世界史ではルネッサンスとか、日本史と直接関係のない部分は教えて貰えなくなります。こうなったらお宅のお子さんはもう絶対に上の大学に上がることもできないし一生使いっぱしりでしょうと。ですから、我が予備校に入って、私立の小・中学校に合格して、輝かしい未来を与えてあげてくださいと、こういうコマーシャルなんです。

 その塾にも取材に行きましたけれども、彼はこう言いました。「今の国の教育政策はでたらめである。エリートだけを作ってそうでない奴を踏みにじっている。ただ、我々は商売だから、この愚かな教育政策をビジネスチャンスとして考えているのだ。」非常にあざとい商売であるのですけれども、彼らのやってる事にはまた、一面の真実もあるわけです。

 前提として話しときますけれども、私の場合、いい学校に行って、いい会社に入って、なんていう生き方が理想だという事は思っておりません。そうやりたい人はやればいいし、やりたくない人はそれでいい。そう考えております。ただこの新しい学習指導要領では、元々のエリートの家の人しか、より高い教育を受ける事もできない。そういう高い地位の層以外の子供は強制的におちこぼれにされるという、それが許せない事なんですね。

 高校受験、大学受験のレベルは下がるわけではない。さらにその先の就職時の学歴偏重・重視というのが変わるわけでもない。という状況の中でこういう政策が行われるということは、まず明らかに私立と公立の差がついてしまうわけです。公立はそうやって原則3割削減、しかし、多くの私立の中学校、高校は授業時間を減らしません。そうすると、小・中を合わせて9年間のうちに片方は7割しか教えて貰えない、片方は10割教えて貰う。これでもう明らかに学力の差はつくわけですね。

 さらに東京では都立高校改革ということがあって、かつて名門といわれた公立学校を中高一貫のエリート校とはっきり位置づけるようになりました。そのために都内から優秀な教員を集め、或いは予算を重点的に配分して、東大進学率を高めるという事を言い出した。

 一方で、都立の中でもあまり偏差値の高くない学校をエンカレッジスクールという名前にして、そこは高校生としてのカリキュラムを教えない。ただ友達と仲良くしましょうとか、要するに小中学校レベル並の事を教えると。もともと高校の中には、勉強ができる子とできない子がいるわけで、それを行政が補填化し、さらにその格付けをより強く進めるという結果になるわけです。

 これは高校の話題ですが、高校はレベルに差があった事でこういうことがやりやすいんですけれども、これを今、全国の小中学校にも降ろそうとしています。それが通学区域の自由化です。これも一番先に手を上げた東京都品川区の場合、学区を自由化したら、やはり公立学校の中でも地域の名門学校に人気が集まって、新しくできた学校には生徒が集まらないという事になりました。

 ここで問題なのは、仮にAという小学校が非常に評判がいいとしても、そこから離れている場合、行かせられる家庭と行かせられない家庭があるということです。お母さんが家にいる人でしたら、問題なく行かせるかもしれません。だけれども、共稼ぎの家庭では通学させることが不可能です。従ってどうしようもない生徒ばかりだと分かっていながら、そっちに行かせざるえない。こういうようことが出てくるわけなんですね。

 私立と公立の格差は学費面ですし、更に公立の中でも格差が出てくると、今度はそういう親の家庭の状況で子供が受ける教育が変わってくる。元々お金持ちとか、バックがあるとかという家庭の方が有利だったのですが、その差をあえて広げるような政策が今進められております。

 公立の学校がそうやって格差ができてくると、「複線化」という言葉が使われるようになりました。

 教育の複線型システムというのは、これは戦前の日本の教育制度、或いは今のヨーロッパの階級社会の教育制度です。例えば戦前の日本でしたら、普通の農家の子は大体尋常高等小学校で終わり。土地の有力者、或いは有力者ではないけれども、余程成績が優秀な子だけは旧制中学、旧制高校、大学という道が開かれていた。つまりある一定の所でコースが分かれるのを複線型システムというわけです。

 ドイツでは、最初に4年間の基礎学校というんですけれども、そのあと日本でいったら、小学4年生か5年生の頃で、もうコース分けが始まります。将来のエリートコースを歩む為のコース、それから普通のサラリーマンになる為のコース、それから労働者コースという学校に分かれています。

 つまり小学校4・5年で将来を決められる子供がそうそういるとは思いませんので、基本的には親次第で一生が決まるという社会になってしまってるわけですね。

 戦後の日本は、それはつまり封建時代ではないかということで、単線型システムというのを採用していました。これが今の6・3・3・4制です。だから皆金持ちも、貧乏人もみんな6年間の小学校から、3年間の中学校。その後は高校は多少分かれます。普通高校と商業科、工業科もあるし、また、高専のような形もありますけれども、基本的には単線型で、つまり商業科の方向に進んでも、途中でやはり自分は普通科に行って大学に行きたいと考え方が変わっても、そんなに大変ではなくできることなんですね。

 それが、複線型だと高等小学校に行った子供が途中で「やっぱり大学に行きたい」と言いだしても、これはなかなか難しいという。つまりお金を出す側にしてみたら単線型は、特に勉強に熱心じゃない子供もそれなりに教えなきゃならないわけですから非効率なのです。だけれども万人に開かれたシステム、教育機会の均等という考えでは、非常に重大な役目を果してきたわけですが、それを今壊してしまおうという話題になっています。つまり、教育が子供の早期選別の為のシステムに変えられようとしているところです。

 結局どこかで差がついてしまうわけですけれども、それを今までのように高校だとか大学だとかで選別するのを待っていては無駄であるから、その選別の年齢を下げていき、社会全体の教育コストを減らし、その分将来のエリートには、より多くの資源をつぎ込むという、三浦さんがおっしゃった考え方で子どもたちが判別されようとしているんです。

 ちょっと話が飛ぶようですが、実は95年に日経連が「新しい時代の日本的経営」という報告書を出しました。その中でこんなことがいわれています。バブルの後で、日本の総人件費が膨らみすぎた。だから国際競争力が失われて今の日本経済がこんなになってしまった。従ってこれを回復するためには総人件費を抑制する必要がある。だからまずリストラをしなさい。次に会社に残った人も、今までの様な終身雇用、正社員の終身雇用を中心にするのはやめて、雇用形態を大きく三つに分けようという提言です。

 この三つというのは、一つは長期能力活用型の従業員。これは要するに新卒の段階から採用してちゃんと研修をして、きちんとしたローテーションを組んで、将来のエリート幹部になってもらおうということです。この人は、終身雇用なんです。他の退職金や、福利厚生や、様々なものは今まで以上に充実させてある。

 次は専門能力活用型の従業員。これは営業の専門家、或いは自動車メーカーなら自動車開発のプロ、こういう人達は必ずしも正社員である必要はない。ただ、その仕事に見合った報酬を支払う。この辺もまだましですね。ところが、その次が悲惨です。

 次の人達は、雇用柔軟型従業員と位置づけられ、つまり雇いたい時に雇い、クビにしたい時にクビにして、何も文句がないという。そういう層です。大方、既にここに属する職種としては、いわゆる女性の一般職OL、これはこの間にほとんど派遣社員に置き換えられました。次に工場労働者。これはどんどん請け負い会社に委託するというような形で置き換えられる。大方の人は、タカをくくっていると思うんですけれども、いずれこの後ほとんどのサラリーマンがここに属する事になると予想されております。つまり、余程のエリートか余程の何かの専門能力を持っていない普通の事務職の人達はほとんど派遣社員とか、契約社員の形に置き換えられる。いろんな専門家の見方によりますと、労働人口の7、8割は、この雇用柔軟型になるのではないかと見られております。こういう雇用の面でも、不平等化が進んでいます。

 先程の教育改革、なぜあれほどの差別的な教育改革が行われるかといいますと、この雇用の問題に直結してくるんです。つまり今までのような人間は皆んな平等だよという教育を施されて育った人が大人になって企業に就職する。そこであからさまな差別的な待遇を受けては、やっぱりやってられませんので、だから子供の時から人間は全然平等でもなんでもないんだよと、エリートとそうでない人には、命の価値も違うんだよということを教えこむというような側面があります。(文責・こだま編集部)

平和と平等をあきらめない

平和と平等をあきらめない

  • 作者: 高橋 哲哉, 斎藤 貴男
  • 出版社/メーカー: 晶文社
  • 発売日: 2004/05
  • メディア: 単行本


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