SSブログ

地名「百済来」の復活  山本隆英 [2009年7月1日(第96号)]

 〇五年八代市の町村合併で、坂本村の小川内(おかわち)と久多良木(きゅうたらぎ)という大字は、八代市坂本町百済来上(くたらぎかみ)と百済来下に変更した。

  百済来村
 一八八九(明二二)年の町村制施行により、小川内、久多良木、田上、鶴喰、川嶽の五ヶ村は合併して葦北郡百済来村となり、一九六一年の町村合併まで続いた。この年、百済来村は葦北郡を離れ、八代郡の上松求麻村と下松求麻村と一緒になり八代郡坂本村となった。百済来中学校が坂本中学校に統廃合される如く、地域から「百済」という地名が消えていくことを惜しみ、平成の合併を機に地域の総意として「百済来」を復活させた。

 村名の由来は『大日本地名辞書』(一九〇七年刊)に「今百済来村と云ふ、久多良木に作る、(中略)土俗相伝へ、百済僧日羅(にちら)の帰葬する所と曰へり。按に本郡に百済来、新羅来の二村名あるは偶然にあらじ、葦北国造阿利斯登(ありしと)の子日羅、百済国に赴き、達率の位(たつそち=官位十六階中二位)を得、(中略)又推古帝の朝に百済の僧道欣、道俗八十余人を率て葦北に入津したり、(中略)百済・新羅の下に来字を付着せしむるは、古語百済人をクタラキ、新羅人をシラキと唱えしに由る」とある。『坂本村史』

 久多良木は百済来の、芦北町の「白木」地区は新羅の音を当てた文字と考えられる。

  聖徳太子の師日羅
 「仏像観て歩き会」のHP「橘寺の日羅立像」(重文―奈良県明日香村)を見ると「この像は日羅の肖像と伝えられるが、橘寺との結びつきは不明である。おそらく聖徳太子が彼に師事したという伝説と、橘寺が太子の創建になるところからうまれたものだろう。像形から見ればむしろ地蔵菩薩と思われる。」

 古墳時代球磨川以南水俣辺りまでは葦北の君が支配し、国造阿利斯登は葦北の王と朝鮮半島の「任那」(みまな=加羅)の王も兼ねており、葦北国造は朝廷軍の中心であり大伴氏の統率下におかれた。

 天皇家の父祖の地である任那(五六二年新羅により滅ぼされた)の復興には日羅の力が必要と考えた敏達(びたつ)天皇は、祖国へ帰国するよう詔を百済に届けた。(EOブログ)時は五八三年聖徳太子が摂政となる十年前である。

 灘波の館に着いた日羅を労うため天皇は大伴糠手小連を派遣し、更に蘇我馬子(太子の従兄)も訪問させた。聖徳太子は女装して日羅に会ったという伝説さえ残っている。日羅は、武力に頼るのではなく、国民生活の安定こそが第一であると説き、次に富国強兵の計を進言した。しかし、日羅が百済を裏切るとの誤解により、百済からの随行役人によって暗殺された。

 亡骸は大阪に埋葬されるが、後に天皇の命により葦北に移葬され妻子も移り住んだ。その地が樹齢千年の大杉が立つ百済来地蔵堂である。本尊は延命地蔵(丈一・六㍍木造坐像)で、日羅が百済から父に贈ったものと伝えられている。(以上『日本書紀』が基礎資料)

  渡来人
 六六〇年、唐と組んだ新羅により滅ぼされた百済と高句麗の政治家・軍人・学者・諸技術者等がたくさん日本へ渡ってきた。この渡来人が鉄製農具、灌漑技術、硬い須恵器、絹織物、漢字、儒教、仏教、律令を伝え、日本の政治・産業・宗教に大きな影響を与えた。政府の公文書管理や外交処理はすべて渡来人によって行なわれ、それは平安時代まで続いた。

  百済はステイタス
 農業から政治や宗教まで、あらゆる事を教えてくれた大先達百済等、朝鮮半島の地名や苗字を冠することはステイタスである。

 百済来という地名が身元調査の対象になったこともある。また、秀吉軍が朝鮮半島から連れ帰った人たちが被差別部落だとの人種起源説が、特に熊本には根強く残る。どれも明治以降捏造された朝鮮蔑視政策の結果だ。侵略と戦争を推進するのに欠かせないのは、敵愾心と差別心を煽ることである。「ともに いのち かがやく 世界へ」では戦争への道は開けない。 今般誇らかに「百済来」を復活させた地区の人たちの心から学びたいものがある。(八代組 西福寺住職)


坂本村史 (1956年)

坂本村史 (1956年)

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: )坂本村
  • 発売日: 1956
  • メディア: -



nice!(2)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:学問

nice! 2

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。