人間を尊重する道 外海卓也 [1998年10月1日(53号)]
ここ数年、本願寺教団において、差別事件がたてつづけに起った。
その原因は、事件ごとに違うものがあるが、共通するものとして、私たちの差別に対する学び方がどこか間違っていたのではないだろうか。
同朋運動研修や僧侶研修会など、数々の学びの場がもたれた。
そのなかで、何を、どう学んできたのだろうか。それは、部落差別の歴史、差別の実態、業・真俗二諦の教学的理解など知識が主であった。誤解や偏見から差別は起こってくるということからの学びであったろうが、知識を得るだけで終わっていた。
また、差別は、非人間的行為であり、悪である。差別されている人の痛みのわかる、思いやりのある人間になるべきだ、と倫理的側面が強調され、それを超えることができなかった。
そのような頭でっかちで、他律的な学びからは、「私は、差別はしていないから関係ない」「差別発言をすると叩かれるから、気をつけよう」という受けとめしか出てこなかった。そして、必然的に差別事件は起こったのではないだろうか。
私たちには、差別に対する感覚、その基となる人権意識、人間尊重の感覚というものが、欠如していた。
これまでの研修は、そのような感覚を育てるものでなく、差別問題を受けとめる主体性を生み出すことはできなかった。
人権意識は、教え、指導することによつては育たない。主体的に受けたことができなければならない。
そのためには、互いに認め合う話し合いが必要なのである。対話が成立してはじめて、主体的に学び合うことができるのである。
北海道の殿平さんの主張(『こだま』掲載)も、そこにあったと思う。
現在、差別や平和の問題に対する取り組みは、転換点にきている。
新しい方向を考えるときに、『水平社宣言』は大きな示唆を与えてくれると思う。
「差別」の反対語は、「平等」である。それでは、「差別する」の反対語は何であろうか。それは「差別しない」ではない。「尊敬する、尊重する」である。人間の尊厳をそのまま認め、尊重していくことである。そのことを『水平社宣言』によって教えられた。
『水平杜宣言』のなかには、「人間を冒涜する」のではなくて、「人間を尊敬する事によつて自ら解放せん」と語られている。「人間を尊敬する」とは、すべての人、被差別者ばかりでなく、差別者もまた尊敬することによって解放していこうということである。私たちが互いに、自分も他人もそのまま尊重していくところにしか、差別の解消はない。
ところが私たちは、「差別は悪であるから、差別しないようにしよう」と心がけ、「差別に苦しむ人たちは、かわいそうだ」と見てきた。また、差別問題を社会問題として、私たちの外に見て、社会的な義務として関わってきた。
それは、私たちが人権ということがはっきりわかっていないことからきている。
平等とは、「みんな同じ」ということであり、差別とは、「みんな同じ」から排除し、排除されることだと考えられている。それゆえ、「みんな同じ」にすることによって、差別というマイナスをなくしていこうとしてきた。「同じ日本人」、「同じ人間」、「同じいのち」、「同じ如来の子」だから、手をとり合い、仲良くするべきだといってきた。
しかし、人間の尊厳は、「同じ」というところにあるのではない。また、人間の尊厳は、外から与えられるものでもない。
私たちの存在は、存在そのままに尊厳をもっている。それは何かの条件や価値があってではない。しかも、その尊厳は単なる状態ではなく、私たちがお互いを尊重していくところに輝くものである。
差別があるということは、私たちが互いを尊重するつながりが築けていないことである。たとえ差別が見えなくても、互いに互いを尊重することができていないなら、差別の構造を内にかかえ込んでいるのである。
私が他の尊厳を傷つけているときは、自らの尊厳をなくしているときである。それゆえに、人間の尊厳を回復していく道を離れて、私の尊厳はなく、差別からの解放もない。
差別者が反省して、差別しないように努力することによってではなく、差別者、被差別者が共に、人間を尊重していくことによって、差別・被差別からの解放、真の人間解放が成就するのである。 (緑陽組 浄喜寺衆徒)
その原因は、事件ごとに違うものがあるが、共通するものとして、私たちの差別に対する学び方がどこか間違っていたのではないだろうか。
同朋運動研修や僧侶研修会など、数々の学びの場がもたれた。
そのなかで、何を、どう学んできたのだろうか。それは、部落差別の歴史、差別の実態、業・真俗二諦の教学的理解など知識が主であった。誤解や偏見から差別は起こってくるということからの学びであったろうが、知識を得るだけで終わっていた。
また、差別は、非人間的行為であり、悪である。差別されている人の痛みのわかる、思いやりのある人間になるべきだ、と倫理的側面が強調され、それを超えることができなかった。
そのような頭でっかちで、他律的な学びからは、「私は、差別はしていないから関係ない」「差別発言をすると叩かれるから、気をつけよう」という受けとめしか出てこなかった。そして、必然的に差別事件は起こったのではないだろうか。
私たちには、差別に対する感覚、その基となる人権意識、人間尊重の感覚というものが、欠如していた。
これまでの研修は、そのような感覚を育てるものでなく、差別問題を受けとめる主体性を生み出すことはできなかった。
人権意識は、教え、指導することによつては育たない。主体的に受けたことができなければならない。
そのためには、互いに認め合う話し合いが必要なのである。対話が成立してはじめて、主体的に学び合うことができるのである。
北海道の殿平さんの主張(『こだま』掲載)も、そこにあったと思う。
現在、差別や平和の問題に対する取り組みは、転換点にきている。
新しい方向を考えるときに、『水平社宣言』は大きな示唆を与えてくれると思う。
「差別」の反対語は、「平等」である。それでは、「差別する」の反対語は何であろうか。それは「差別しない」ではない。「尊敬する、尊重する」である。人間の尊厳をそのまま認め、尊重していくことである。そのことを『水平社宣言』によって教えられた。
『水平杜宣言』のなかには、「人間を冒涜する」のではなくて、「人間を尊敬する事によつて自ら解放せん」と語られている。「人間を尊敬する」とは、すべての人、被差別者ばかりでなく、差別者もまた尊敬することによって解放していこうということである。私たちが互いに、自分も他人もそのまま尊重していくところにしか、差別の解消はない。
ところが私たちは、「差別は悪であるから、差別しないようにしよう」と心がけ、「差別に苦しむ人たちは、かわいそうだ」と見てきた。また、差別問題を社会問題として、私たちの外に見て、社会的な義務として関わってきた。
それは、私たちが人権ということがはっきりわかっていないことからきている。
平等とは、「みんな同じ」ということであり、差別とは、「みんな同じ」から排除し、排除されることだと考えられている。それゆえ、「みんな同じ」にすることによって、差別というマイナスをなくしていこうとしてきた。「同じ日本人」、「同じ人間」、「同じいのち」、「同じ如来の子」だから、手をとり合い、仲良くするべきだといってきた。
しかし、人間の尊厳は、「同じ」というところにあるのではない。また、人間の尊厳は、外から与えられるものでもない。
私たちの存在は、存在そのままに尊厳をもっている。それは何かの条件や価値があってではない。しかも、その尊厳は単なる状態ではなく、私たちがお互いを尊重していくところに輝くものである。
差別があるということは、私たちが互いを尊重するつながりが築けていないことである。たとえ差別が見えなくても、互いに互いを尊重することができていないなら、差別の構造を内にかかえ込んでいるのである。
私が他の尊厳を傷つけているときは、自らの尊厳をなくしているときである。それゆえに、人間の尊厳を回復していく道を離れて、私の尊厳はなく、差別からの解放もない。
差別者が反省して、差別しないように努力することによってではなく、差別者、被差別者が共に、人間を尊重していくことによって、差別・被差別からの解放、真の人間解放が成就するのである。 (緑陽組 浄喜寺衆徒)
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