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忌むということ  禿真理子 [1998年4月1日(51号)]

 ふとしたことから『こだま』第50号を拝見するご縁を賜わりました。

 一周忌とか七回忌という言い方を疑問に思ったことがなかった私ですが、このたび禿浩道編集長の「変革上人のご法要は宗祖の思いに還る変革で」を拝見して、忌むということについて色々と考えさせられました。

 かって浄土真宗が盛んで、親鸞聖人の御教えが人々の心に根付いていた時代、門徒衆は物忌みをしないことから、《門徒物しらず》と言われていたそうです。

 親鸞聖人は物忌みされず、忌むという言葉は、イミ嫌う、いやなものごとを避ける意味に使われていることは明らかであるのに、私は浄土真宗のお寺に生まれ育っていながら、これまで、法事の年回に忌むという言葉が使われていることに対して、何の疑問も持たなかったことが我ながら不思議でもあり、恥ずかしく思いました。

 「こだま」を拝見させて頂いた、その前後に、四、五人のお年寄り達が人里離れた山の中で、日の出とともに起き、田畑を耕し薪で煮炊きをし、日が沈んだら寝るという自給自足の暮らしをしている姿をテレビで見ました。

 昔から伝わっている風習、習慣を忠実に守り、自然と一体に生きている姿が、とても印象的でしたが、その生活の様子を見ながら、しきりに親鸞聖人のことが思われました。きちっと営まれる祭り事や風習は、災いから身を守ってくださいというものであったり、豊饒を祈るものであり、科学技術が発達せず、自然に脅かされていた親鸞聖人の時代は、今よりもっと迷信がはびこり、加持祈祷や占いが盛んであったであろうと想像されました。

  かなしきかなや道俗の
  良時・吉日えらばしめ
  天神・地祇をあがめつつ
  卜占祭祀つとめとす              (『正像末和讃』)


 災いを祓い、福を呼び込もうとすることにつながる、お祭りごとや風習をきちっと営むことが良いことであり、当たり前と思われている時代に、そんなものは必要ないと言うことは、かなり勇気のいることですし、親鸞聖人の凄さを、再確認させられました。弥陀の本願に出遇われ、信じれる世界があったからこそのお言葉なのでしょう。

 蓮如上人のように、一人ひとりが変革をというスローガンのもと、何の変革も出来ないまま、今、蓮如上人の五百回遠忌法要をお迎えしました。私はなかなか行動出来ない性格なので、『忌』という言葉を使わず他の言葉に言い換えているご住職さんがおられることに、感動致しました。しかし、それは熱心に教化されご門徒さんが十分に理解されているから出来るのではないでしょうか。『忌』という文字を用いなくなっても、一人ひとりの認識が変わらなければ、あまり意味ないことに思えます。

 以前、ある熱心な御門徒さんが、「月参りの時、住職さんに、色々質問しても返ってこないし、法話もなく、物足りないので、親鸞会に行くようになりました」と言われるのを聞いて、とてもショックでした。熱心な御住職も多いのでしょうが、法話をしてもらったことがないという話は、よく耳にします。

 もし、法事、葬式だけで、法を説くというお寺の本来のあり方がなされてないとしたら、まず、僧侶が仏法を伝え、親鸞聖人の御心を伝えるという姿勢が先決なのではないでしょうか。そして、仏法を伝える中で『忌』という言葉から、親鸞聖人の御一生がどういうものであったか、浄土真宗の教えはなぜ、物忌みしないかを話したり、みんなで考えていく過程が必要なのではないでしょうか。

 蓮如上人の法要をお迎えしても、私は表面上は何も変革できないのですが、『こだま』のお陰で、考えさせられ、少しずつ意識の変革をさせられていることに感謝しています。(「響命」編集者)

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