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宗教者と憲法問題②  元龍谷大学学長 信楽峻麿(文責…編集部) [2006年1月1日号(第82号)]

 私が思うに、政治というものは、例えて言えば鳥瞰図的なものの見方だと思います。つまり高い所から全体を見おろして、あそこの山を削ったらここは新しい住宅・団地が出来るだろうかとか。つねに高い所、遠い所から全体だけを見る、そういう見方の所から政治の発想は生まれます。政治が、社会を改造し向上させるということは、こういう仕方で行うわけで、全体を社会を変革することを通して、一人一人の幸福を実現させようというわけです。だからそこでは、一人一人の立場・思いはわかりません。そこに住んで先祖代々大地を耕した者なんか見えないのです。そういう政治の世界では、その全体の中に入り込めない少数者は、簡単に切り捨てられていく他はありません。

 ところが宗教は、それに対して言えばいわば虫瞰図的です。つまり大地を歩いて一つ一つを丹念に見て歩く、そういう虫の目を通すようなものの見方の所に立ちます。万人の中の一人一人を平等に捉えて問題にして、その一人一人の変革を通して、社会全体の変革成就を願うわけです。このことが、宗教がもつところの社会に対する基本の立場だと思います。

 だから、真宗者においてもこういう視点をもって政治を視野に入れなければなりません。念仏に生きる、浄土を願うて生きるということは、誤まれる現実の社会があるべきまことの社会になるように願うということでありましょう。それはすなわち、虫瞰図的な立場に立って、政治に対して妥協なくしっかりと緊張関係を保っていかねばならないということです。そしてこれをきちっと示したのが、今の日本国憲法の「信教の自由」であり「政教分離」の原則であります。ところが憲法はそうなっていても、それは力関係で動くわけで、だからこそこの緊張関係をどれだけ大事にしていくか、それが非常に重要なのです。今の日本の現状を見れば、宗教者にとってはなおさらこのことは肝に銘じなければならないでしょう。

  現代の日本の問題
 最近の日本においは、その大勢が保守化してきていることは明らかです。したがって、そこには様々に看過できない問題が出てきていますが、例えば憲法改正・九条改正の問題とともにもう一つ気になるのは、義務教育における「心の教育」というものです。その「心の教育」とは何かと言えば、「伝統を大切にしましょう」ということ。具体的には「町や村の歴史を学ぼう」とか「先祖の墓を掃除しよう」とか「お宮の境内を掃除しよう」とかね。だから、これだけ見れば僧侶の側も「結構、結構」ぐらいに思ってしまう、実際本願寺もこれに賛成してるいます。ところが、当局が考えている「伝統」というのはそういうものではなくて、万世一系の天皇という「伝統」以外にはないのです。これをあからさまに言えないから、「日本の古き良き一番大切なものの価値を見いだして、それを大切にしよう」などというわけです。これは見事な構図、政治の恐ろしいところです。

  「千年の森」より人材を育てよ
 本願寺が、きたる宗祖の七五〇回遠忌において、「千年の森」という計画を立てています。阿弥陀堂、御影堂を建てかえるための目論見があるのでしょう。しかし私は思うのです、今の教団の現状を見れば、千年どころか百年さえも持つだろうかと。木を育てる前に、人間が育っていないことを問題とすべきなのです。私はこの間から龍谷大学や本山に対して、いま混迷しているイラクに対しては我々が役目を果たす時だと。どうしてイラクに人材を出さないのかと言ったんです。そしたら「なかなかおらん」と、こう言う。人材がないだけでなく、危機感がないんです。今一番我々が使命を果たさねばならない重要な局面においてその役目を果たせず、そして今の状況を何の分析もできずに危機感すら持たない我々のこの状況…。もうこのあたりで本当に私たちはしっかりしなければ、私はこのままでは「千年の森」が役に立つ以前に、足下がすくわれるように思われてならないのです。

親鸞とその思想

親鸞とその思想

  • 作者: 信楽 峻麿
  • 出版社/メーカー: 法蔵館
  • 発売日: 2003/10
  • メディア: 単行本


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