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『千年の森』つくり  光正寺住職 島北皎誓 [2005年4月1日号(第79号)]

 木材は、その生育年数に比例して耐用する耐用する。何百年と経過してなおしっかりしている寺院の建築木材は何百年かけて生育した樹木であり、国宝級の木材建築物は千年経過した約百本の様々な樹木で建造されている。

 日本の気候風土の中で育った樹木だからこそ、日本でそのもてる働きや特徴を十分に発揮でき、また先人はその働きを見いだし活かす技術を生みだした。木造建築は世界に誇る日本の文化なのである。人々を優しく暖かく包み込み、人々に安らぎを与える木造は、住宅や医療・福祉施設、あるいは教育施設として適しているといえるが、それより寺院にこそ最も適しているといえる。

 ところが現在、千年の樹木も少なくなり、その樹木を木材として活かす大工も少なくなってきた。これから先、何百年と寸分くるいなく佇むような木造の寺院は、建築不可能と考えられるのである。

 本願寺においても、御影堂の屋根の改修ができているが、その基礎となる各種の木材の調達には大変な苦労があったことと思われる。次の改築は果たしてできるのであろうか。

 このようなことから、国宝級の木造建築の改築にかかわった人々が中心となって、何百年後再び改築する時のために、今その材料となる樹木を植えておこうという植樹活動がなされている。千年の森づくり運動である。

 「アリとキリギリス」のキリギリスのように、目先の、今の楽しみを求め楽しむ現在にあっては、一世紀はおろか、十世紀先のことのため汗を流すことは全く考えの及ばないことである。しかし、私たちは、重要な「木の文化」を守り永続させることがいかに大切であるかを認織し、植樹し、森づくりに努めなければならないところに立っているのである。

 本山に限らず、全国の寺院も改築の時期を迎えるのであるが、果たして木造の本堂が建築できるのであろうか。おそらく、出来ないのではあるまいか。

 しかし、いまは建築出来なくても次の建築のためを思い、植樹することは非常に意義深いことではある。それは、「ひかり」と「いのち」きわみなきおはたらきに遇わせていただく御縁なると思われる。

 植樹するとか森を作るとかがいかに大切だといっても、土地(山)と人手を確保しなければならないので、実行となると足が止まってしまう。今行われている千年の森づくり運動も、そのような為なかなか大きな活動にならない。ほとんどの人が知らないのである。

 そこで提言したい。

 現在日本の森林は荒れている。

 外国産材に追われて、国産材の価格が暴落し、林業では生活出来なくなったからである。昔の山村は、「ひ孫の為に植樹する」ことが伝統になっていて、森林と人とが一体化し、物心両面に豊かであった。今は、山の手入れをする人も高齢化し、少なくなり、ひ孫やひひ孫のために働くという思いもなくなってきている。

 一方、山の保水力が衰え、山崩れや増水による災害も多くなっている。治山治水の働きが弱っている。また、森林を伐採し畑や宅地にした結果、ニ酸化炭素をどんどん吸収して成長する樹木が減少し、火力電気や石油の消費増とあいまって、地球温暖化も問題になっている。水も空気も、人や生き物にとって悪い状態になってきている。

 地球温暖化防止のため、世界の石油消費減や造林の運動に、日本も率先参加して様々な施策が施行しているが、どれも成果を上げかねており、特に森づくりは困難なようである。

 このように、山村は過疎化を加速し、見捨てられた荒山と廃屋という寂しい景色になってきている。

 山寺は、立派な森林にしてほしいと待っている広い台地に固まれている。人が高齢化し減ったとはいえ、まだ林業の魅力を知った働き盛りもいるし、町も森林組合も頑張っている。

 木の文化伝承を主眼に、地山治水や環境保全にもこたえるために、一働きしようと思う都市の「寺・夢グループ」と「山・元気グループ」が連携し組織化して、西本願寺千年の森づくりを始めたらどうであろうか。

 まずは、本願寺でそのためのプロジェクトを発足させ、検討されることを提言する。(山鹿組)

環境リスク学―不安の海の羅針盤

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  • 作者: 中西 準子
  • 出版社/メーカー: 日本評論社
  • 発売日: 2004/09
  • メディア: 単行本


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