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戦う国は祀る国  菅原龍憲(真宗遺族会事務局長) [2005年4月1日号(第79号)]

政教分離の見直し
 「人間の自由を奪うのは、暴君よりも悪法よりも、実に社会の習慣(習俗)である」(J・S ・ミル)という言葉は巧妙な支配の構造を言い得て妙である。

 さて、毎日新聞は2004年5月30日付で「自民党憲法改正案で政教分離見直し、伝統行事対象外に」と報じた。この見出しを見たとき、いよいよ権力は本腰を入れて、改憲の地固めを行ってきたかという、いいしれぬ危機感をおぼえるとともに、無自覚のうちに国民を支配し続けている神道的宗教性の果たす役割を的確につかんでいる支配側の奸智を感じさせた。

 自民党憲法調査会(以下調査会という)「改正」案の内容は記事によると「調査会は五月二十九日、今国会中にまとめる党憲法改正草案の索案に特定宗教の布教・宣伝を目的にしない宗教的行事の場合は国が関与できるよう、政教分離を定めた憲法二十条三項の改正案を盛り込む方針を固めた」というものである。どう改正するかと言えば、第二十条三項の「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教活動もしてはならない」という現行法を「国及びその機関は特定宗教の布教・宣伝を目的とした宗教的活動をしてはならない」と改め、八十九条にある宗教団体への公金支出制限の規定を削除するというもの。伝統的・儀礼的な行事であれば、それは宗教活動にはあたらないのであって、政教分離の対象外というわけだ。

 これは「首相の靖国神社参拝に伴う憲法問題をクリアするのが最大の狙い」(同記事)といった単純なことではなかろう。当然のように、現在教育基本法「改正」で論議されている宗教教育の問題も射程にあることは言うまでもない。ついに「神道非宗教」の領域に権力が踏み込んできた。これはじつにただならぬ事態と言わねばならない。

憲法九条と二十条
 憲法九条がここにきてほとんどなし崩し的に、空洞化されている状況のもとで、平和主義を再生することは一刻の猶予も許されない緊急の課題ではあるが、じつはこの平和主義と密接不可分な関係として第二十条の問題が基底にあることを見落としてはならない。

 戦う国は祀る国というのが近代の国家原理だといわれているが、この国家原理を決定的に否認しているのが日本国憲法である。憲法九条において国家の軍事力の行使としての戦争を放棄し、同時に二十条において国家による宗教とその祭祀への関わりを禁じている。第九条と第二十条とはきわめて密接な関係にあり、いやむしろ二十条の問題が本質的なのかもしれない。

 平和主義はほぼ数年ごとに重大な岐路に立たされ、論議を呼んできたが、信教の自由という、いってみれば人間の基本的人権の問題は終始一貫して軽視されてきたように思われる。全ての国民は個人として尊重されるという、人の権利、人の尊厳というのは信教の自由という問題をはずしては成立し得ない。国家からの個人のあらゆる内面の自由権はここから出発していることを改めて確認しておきたいと思う。いくら有事法(戦争法)ができても実動しなければそれは単なる画餅に過ぎない。それが実動するためには精神的動員体制をつくり上げていくことが不可欠な課題となる。権力がさまざまな批判を浴びながらも、あらゆる手段を駆使して、靖国神社をめぐって政治的策動を繰り返すことの意図はここにあるといわねばならない。

 権力はつねに神道的宗教性をもって、国民の内面収奪をはかり、権力を神聖化し、時の体制を絶対化するという仕組みをもつ。問題の核心は今日の日本の精神状況を支配し続ける神道的宗教性に求められなければならない。

 怒濤のごとく押し寄せる有事体制下において、「政教分離・信教の自由」という内面の自由を求めるたたかいは、あまりにも迂遠だと思われるかもしれないが、この根底的な問題を飛び越えてしまってはならない。内面の尊厳性を確保することを怠ってきたゆえに、その結果として現在の事態があるのではなかったか。

 私たちは国家支配の本質に目を開き、自らの内面に絶対尊厳性を自覚し、私たち国民の側の主体を形成するということこそ真に非戦平和を貫徹しうるものといわねばならない。(山陰教区 正蔵坊住職)

「靖国」という檻からの解放

「靖国」という檻からの解放

  • 作者: 菅原 龍憲
  • 出版社/メーカー: 永田文昌堂
  • 発売日: 2005/08
  • メディア: 単行本


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