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教学伝道研究センターへの質疑<業の問題「思の心所」について>  藤岡崇信 [2004年7月1日号(第76号)]

 聖徳太子の十七条憲法に示されるように、私たち凡夫は、自分を「聖」者、相手を「愚」者の立場において物事を考える特徴があり、また蓮如上人御一代記聞書の中に「人のわろきことはよくよくみゆるなり。わが身のわろきことはおぼえざるものなり。わが身にしられてわろきことあらば、よくよくわろければこそ身にしられ候ふとおもひて、心中をあらたむべし。ただ人のいふことをばよく信用すべし。わがわろきことはおぼえざるものなるよし仰せられ候ふ」(一九五)とありますように、悪事を行ってもなかなかそれに気づかない、まさに無明の闇の中の存在であります。

 従って布教の場では、「自分の意識しないところで起こす悪業こそが深くて重い。何故なら己の行為に対し、悪の意識があれば自ずと自制・自戒の思いが生ずることもあろうが、それがなければ、無反省のまま続けることになる」と申すことがあります。

 しかし、仏教の業思想の特徴の一つは、本人の意思(思の心所)の重視という点であると教わりました。それは、私の学生時代の講義、「業思想の研究」において、「①、三業はすべて『思』を根本動機として起こる。②、業道の成立は、『思の心所』による。③、思は単独では起こらず、貪・瞋・痴等が起こるから思が起こり、その善・不善の次第により、善・悪・(無記)の業道となる」という内容であったと記憶しています。

 例えば、道路への飛び出しという不測の事態によって起こした交通死亡事故の場合、運転者本人において、行為の善悪の思の心所は働いていないので、殺生という悪業は成立しない、無記である。法律では過失致死罪が成立しても、仏教は本人の意思を重視する合理的一面があるという講義であったかと思います。

両者の言わんとする視点の違いはありますが、「思の心所」という点についてご教示をお願いいたします。合掌
 熊本教区託麻組 藤岡崇信

以上のような質問を、教学伝道研究センターに問い合わせたところ、一週間ほど後に回答を頂きました。

 その回答の中で、かつて教学研究所が業問題について研究した『教学研究所紀要五 業問題特集』が紹介されていました。今回私が疑問に思った問題についても詳細な議論がなされており、この問題について仏教思想史の中で、広範に議論されていることが痛感されました。この紙幅の中では、充分に説明することは出来ませんので、仏教思想、特に業の問題について興味のある方は、この『紀要』をお読みいただきたくことをおすすめします。

 尚、教学伝道研究センターは、僧侶・ご門徒の方を始め、一般の方やマスコミなどからの多くの質問に答える「教学相談」を、かねてより実施しています。今回は業の問題を取り上げて、皆さまがたに、この活動を紹介させていただきました。合掌


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