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―こだま公開講演会要旨―宗教教育の現状と課題  小山一行 [2004年7月1日号(第76号)]

近代教育の歩みと問題点
 世界のなかで、日本の近代教は高度な成果を上げてきました。日本人の識字率は非常に高い。江戸時代から、藩校、寺子屋、私塾があり、人々は読み書きができた。しかし、それは武士は武士、町人は町人、農民は農民の分限を学ぶというものでした。

 明治になると、政府は日本全国の教育を一本化して、徹底的な近代教育を行いました。しかし、明治政府は、古代神話に基づいて宗教的意味づけされた天皇を中心として、近代国家を作るという矛盾をかかえていた。教育もその影響を受け、明治十八年には「修身」という科目をもうけ日本人の精神教育を始め、明治二十三年には「教育勅語」を発布し、教育のあり方を天皇の勅語ということで定めた。国家をあげての国家神道による宗教教育でありました。

 昭和二十年、敗戦を機に教育勅語体制から教育基本法体制へとがらりと変わりました。GHQは「神道指令」を出して、神道を国家が利用することを禁じた。昭和二十一年、天皇の「人間宣言」があり、その年の十一月三日「日本国憲法」が公布された。その憲法を受けて定められたのが教育基本法です。その教育基本法の第九条は、憲法二十条により、公教育における宗教教育を禁止した。その結果、学校教育では宗教を教えてはいけないように受け取られたきらいがあります。

戦後教育の問題点
 最近青少年を巡る事件から、教育基本法を変えようという動きがありますが、保守的な政治家は憲法が発布されたときから、GHQによって作られた憲法に基づく教育基本法は変えねばならんと主張してきたのです。
 昭和三十三年には、「道徳」の授業が開始されました。昭和四十一年には、中央教育審議会から「期待される人間像」が発表されました。天皇に対する敬愛の念を持ち、正しい愛国心を持つのが期待される人間像であり、道徳教育復活の背後には「修身」を復活させようという論調があるのです。

道徳教育と宗教教育
 そこでは道徳教育と宗教教育の境目があいまいなまま議論されております。青少年を巡る事件が起こると、仏事などで「近頃の教育はおかしい、おじゅっつぁん、あんた達ががんばらなん」と言われる。宗教教育をやることが「強く明るく元気な子」を育てる論理になっている。

 あるお寺の保育士の研修会に行ったときに、ある保育士は「うちの園は強く明るく元気な子を目標に教育に取り組んでおります」とおっしゃった。私は「それじゃ暗くて弱くて元気のない子はどうするんですか」と言って、にらまれたことがありました。世の中には弱い子がいる、暗い子もいる、元気のない子もいる。元気のない子は悪い子なのか。元気のない理由は何か、暗い子の暗さのもとは何か、そこに寄り添っていくのが宗教教育じゃなかろうか。

 人に迷惑をかけない、目上の人を大事にする、公のために奉仕する、そういう人間を作るために道徳教育をすることは間違いじゃないでしょうが、修身教育のような「期待される人間像」をもって国家が国民を訓育することが宗教教育だと考える人がいて、教育基本法を改正しようとしています。

 仏教団体も諸手をあげて、それに賛成しようとしています。全日本仏教会は公教育でも宗教教育ができるようにしようという動きを支援しようとしている。今日の教育の荒廃は宗教教育を公教育から排除した結果だから、それができるようにしようという論は本当にそれでいいんだろうか。

宗教教育とは何か
 宗教教育と漠然と使っていますが、宗教教育の中身を整理しておく必要があると思うわけです。

 先年、朝日新聞に菅原信郎さんが「宗教をどう教えるか」というテーマで連載記事を書かれました。その中で宗教教育の内容は多岐にわたっている。一つは特定の宗派の教育を行うこと。二つ目は宗教知識教育。菅原さんはきちんとした宗教心、宗教知識のない公立学校の先生に宗教を教えることができるか問題があると言っています。三つ目は特定の宗教や知識でない宗教的情操教育。人間を超えたものへの畏敬の念を教えるべきだいう議論があるが、何か漠然とした尊いものを敬うというのは神道教育になるのではないか。四つ目は対宗教安全教育。変な宗教に引っかからないようにする。五つ目は宗教的寛容教育。あいつはイスラムだからというような偏見を持たないようというようなことです。

日本人の宗教観の問題点
 一番問題になるのは、現代では阿弥陀如来の十八願を説くまえの段階が大きなハードルになっていることです。一般の多くの方は、自分の現実の人生がうまくいくために神や仏がいると受け取っている。現代では常例法座に参ってご本願を喜んでいる人は一風変わった人と思われかねない。

 まず教えなければならないことは、自分の願望を叶えるために神仏に祈るのは宗教として本来ではないということ。現世を超えていく道を求めることが仏教の根本なんです。いい学校に入って、いいとこに就職して、お金を稼いで、おいしいものを食べて、健康で長生きして人生を終える。それでいいんですか。結局みんな死んでいかねばならない。どれだけ稼いでも置いていかねばならない。あなたの人生それでいいんですか。現世を補足する宗教と現世の価値に疑問を感じ、私の人生はこれでは空しいと別の価値に出会おうとする宗教があることをはっきりさせるべきです。

仏教の人間観
 仏教では昔から人間というものに対して、欲望のままにうまくいったらのぼせ上がって、うまくいかんと落ち込んで、それをくりかえすだけの人生は流転にすぎないと教えました。何もかもうまくいっている状態は天上界、迷いの世界です。その迷いの世界から出ていく道を求めようというのが仏教なんです。そこに出会わないと、サルやチンパンジーといっしょで食っちゃ寝、食っちゃ寝で終わってしまう。

宗教教育の課題
 宗教教育とは、一言で言えば、特定の信仰や宗派の教義を教える前に、自分の人生をどういう立場で見るか、そういう「ものの見方」の一番大本の所を伝えていかなければならない。

 弥陀の本願や念仏は、人生に問いを持った人に対しての答えとして釈尊が説かれたわけです。今多くの人にとって仏教が取っつきにくいのはなぜかというと、教義の難解さもありましょうが、人生に対する問いのない人に「答えは十八願です、答えは十八願です」と言ってもなんのこっちゃとなる。問いを育てるような伝え方をすることが必要でないかと日々考えているわけです。

仏教の基本的考え方
 仏教の特徴は出世間道です。現実の人生を満足させたいという願望に対して、世間は虚仮である、私たちの握りしめている価値は相対的なもので、やがて崩れていくものである。そういうことに気がつき、いつどのように人生を終えようとも人間に生まれさせてもらってよかったと言える価値を尋ねていく、そこから仏教が始まることを強調しなければならない。自分の人生を自らが内側に向かって問いかけていく姿勢がなければ、仏教の重要性は伝わらない。

親鸞聖人に学ぶ
 親鸞聖人の歩まれた道の特徴は、自分の内側に眼を向けたときに、人間というのは愚かで、危うい、不完全な、不十分なものであることを厳しく見つめられたということです。そこがきちんと伝われば、宗教と道徳の混同は起こらない。

 在日韓国人の作家の高史明さんは十二歳の息子さんが中学一年のとき自殺した。そのことがきっかけになって御法義を慶ぶようになられた。高史明さんは自分の息子が中学校に入学するまえの日に、息子を呼んでこう言ったそうです。「あなたはね、お金持ちにならなくてもいい、偉い人にならなくてもいい、だけども人に迷惑をかけない人間になってくれ。父さんはそれだけを願っている」と。

 しかし、親鸞聖人の教えを慶ぶようになられた後で「今にして思えば、あの入学式の前の晩に私は息子に人に迷惑をかけない人間になれと言ったけれども、大きな間違いだった。人間は人に迷惑かけながら生きている、そのことに気づく人間になってくれと言わねばならなかった。親鸞聖人の教えに出会ってやっとわかった」とおっしやっています。

「強く、明るく、元気な子になりましょう」「人に迷惑をかけない人間になれ」というのは道徳としてはその通りなのでしょうが、私は腹一杯人に迷惑かけながら生きているんじゃないかということに出会って初めて宗教がある。人間であることの中身を問うていく葛藤のなかから、実は仏教の教えが答えとして与えられる。本願に遇うということはそういうことです。

 人間が不完全で愚かで、何をしでかすかわからんものだということに出会っていくなかで、その私が如来の本願に願われていたんだと気づき、偏差値が高いとか低いとか、色が白いとか黒いとか、そういうところから解放されて、賜ったいのちを全うして生きていく生き方に転換されていく。そういうことが宗教の大事なことでないか。

 そういうことを突き詰めていない最近の教育基本法改正の動きというのは危ういものだと感じられてならないのです。〈託麻組・香覚寺住職)

親鸞のいいたかったこと

親鸞のいいたかったこと

  • 作者: 小山 一行
  • 出版社/メーカー: 山喜房仏書林
  • 発売日: 1998/04
  • メディア: -


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