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国立追悼施設問題を巡って②  北豊教区 有光顕澄 [2004年1月1日号(第74号)]

 昨年12月24日、福田官房長官の諮問機関である、「追悼懇(略称)」は、最終報告書をまとめた。『報告書』では、追悼の対象を戦没者だけでなく「国際平和のための活動における死没者」にも広げるという内容である。

 一方、武野総長(当時)を中心とする新しい国立追悼施設をつくる会(以下「つくる会」と略称する)は、こうした政府主導の新しい国立追悼施設構想は、第二の靖国の役割を持つこととなるとして、四項目にわたる申し入れを政府に行った。その中、特に、追悼の対象とする戦没者について、「新たな戦争の受け皿にしないものとする」事などが強く主張されている。

 「懇談会報告書」、「つくる会」の両者の主張に共通する事柄は、靖国神社問題の克服と国家の命令によって招集され命を捧げた者を放ってはおけないという国家による追悼である。つまり、靖国神社国営化や首相の公式参拝にまつわる対外的なアジア諸国との関係と、国内的には「信教の自由・政教分離」といった憲法問題である。我が国の政府は、二十一世紀という新しい世紀を迎え、何時までもこうした問題を引きずり続けるわけにはいかないといった裏事情を垣間見るのである。(首相小泉の野心とは別に)

 今年、7月と11月、京都の興正会館において、「国立追悼施設問題を巡って」のシンポジウムがもたれた。状況が逼迫していることなどもあって、主催者の予想を超える参加があった。シンポでのポイントは、新しい国立追悼施設が必要か否かであった。靖国を相対化する現実的な対応と、国家による追悼の問題性、つまり「国家・国民のために命をかけたことに、国がその霊を慰め感謝する。そういう形を整えることが遺族の誇りになる。」(本年9月、東京・市谷の防衛施設内での慰霊碑完成式典における森前首相)といった発言にみられる、国家による死者の意味づけと死者の再利用の問題である。

 いま、原稿を書いているただ中に、イラクでのテロ行為による二人の外交官の死が飛び込んできた。また、自衛隊のイラクへ派兵を実施する基本計画を小泉内閣は決定したなど、実に生々しい状況下に置かれている。当然いろんな思いが私の中に錯綜してくる。

 現状では、イラクでの自衛官の殉職があっても、靖国神社には祀れない。当然、国家による追悼の問題がクローズアップされてくることは予想できる。外交官の死、そして、テレビに報じられた外務省葬を見ても、「追悼懇」の『報告書』にある「国際平和のための活動における死没者」の国家による祭祀の問題が現実味を帯びてくる。

 靖国に代わる無宗教の施設か、それとも、国家によるいかなる追悼も認めない、という立場のいずれの主張が現実的に意味を持つか、選択に迷わざるをえない。おそらく、半数以上の国民は、靖国に代わる施設を支持するであろう。

 私たちは、敗戦五十年の年に福岡県が主催し、営まれた戦没者追悼式の在り方に抗議し、政教分離、信教の自由、平和的生存権などを中心に据えた「8.15訴訟」なる裁判を福岡地裁に提訴し争った。その際、無宗教による式典に使用される標柱の「霊」、「祭壇」や「献花」「黙祷」、そして「礼拝」は宗教的な意義を持つものであることを主張した。

 2000年3月31日の判決で、田中哲朗裁判長は最高裁の判例などを踏襲し「国家が宗教との関わりを持つことを全く許されないとするものではなく、宗教との関わり合いをもたらす行為の目的及び効果にかんがみ、その関わり合いが我が国の社会的・文化的諸条件に照らし相当とされる限度を超えるものと認められる場合にこれを許さないとするものであると解すべきである。」と判じている。無宗教の追悼施設とは如何なる施設であろうか。国家と宗教の関わりさえクリアされていない我が国の状況下の中で。(北豊教区・方京仲組・真行寺住職)*この原稿は2003年12月に執筆いただいたものです。

「心」と戦争

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  • 作者: 高橋 哲哉
  • 出版社/メーカー: 晶文社
  • 発売日: 2003/04
  • メディア: 単行本


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