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「宗教の「倒錯」と「軽視」の世情に<真宗の今日と明日を問う>(こだま公開講演会要旨)  阿満利麿(明治学院大学教授) [2002年4月1日号(第67号)]

   精神主義
 清沢満之は他力の信心に基づいて生きていくのを精神主義と呼んだんですね。絶対無限者に支えられた完全な立脚地にたった精神は、どこまでも発達し、展開していく。従って精神が発達していく筋道がはっきりと見える。

 なぜ彼は信心主義と言わずに精神主義と呼んだのか。信心というのは阿弥陀仏の十八願に対して存在する。彼が精神と言ったのは、信心に基づいて人生の様々なことに処していく主体のことではないか。彼は精神主義を「世に処するの実行主義」と言っています。   清沢満之は精神主義には二つの作用があると述べています。一つは自分のなかには完全な立脚地があるので、外のものに引きずり回されることはない。もう一つ強調していることは、共協和合によって社会国家の福祉を発達せしめんと思うことである。

 別のところでは他力の行者は人生の正道を践行する。人生の正道とは世界の進歩と改良に努力するようになることである。清沢満之が強調しているのは、親孝行しようとか、他人にやさしくとか、個人的な徳目じゃなくて、社会のあり方に関わるようなことを指摘しているんですね。

   高木顕明
 高木顕明は清沢満之と同世代の人です。愛知県のお菓子屋さんに生まれ、お東のお坊さんになって和歌山県新宮にあるお寺に住職として派遣された。そこのご門徒はほとんど被差別部落の人で、悲惨きわまりない。こういう人たちからお布施はもらえないと、マッサージを学んで食べていく。

 彼は焼身供養したテック・ハン・ドクさんと同じで、彼らの苦しみをわが苦しみとしてしまう。そこから廃娼運動や部落解放運動を起こします。日露戦争のとき、仏教界や本願寺でも戦勝祈願をする。しかし彼は「親鸞聖人のお書きになったもののどこに戦争に勝つために経文を読むのがよろしいと書いてあるか」と拒否し、寄付にも応じなかった。そうしていくうちに社会主義者たちと交流するようになる。折しも千九百十年、大逆事件が起き、彼は連座して死刑判決を受ける。彼は逮捕されてもなぜ逮捕されたかわからない。彼は堂々と「自分の社会主義は阿弥陀仏を信じるところから生まれたもので、マルクスの社会主義とは違うんだ」と述べています。

 高木顕明の残した拙い文章には「自分の行動は阿弥陀仏の慈悲を受けるようになってからのものだ。阿弥陀仏の慈悲を体認した者は阿弥陀仏の慈悲を他に及ぼしたいという気持ちになるのはあたりまえのことだ」とあります。特に彼は向上進歩と協同生活が念仏者の目標だ。向上進歩とは戦争や差別のない社会を作りたい。協同生活とはわれわれの労働は労働することによって仏教の教えを実践できるような暮らしを実現することで、人が人に踏みつけられるものでなく、自分たちが仏法を心から喜べるような生活を実現したいということなんですね。

 高木顕明は仏教者は世俗の問題に目をそらしがちだけど、それでいいのかと問うている。

 エンゲージド・ブッディズムの批判としてよく出てくることですが、仏教はあくまで心のなかの問題で、歴史上の釈迦は心のなかの無明の克服を説いたのであって、社会変革を目指すのは仏教の役割ではない。しかし、大事なことはティク・ナット・ハンや高木顕明あるいは清沢満之が目指したことは、仏教は世俗道徳とは違う社会的実践を持っているということです。仏教は仏教特有の社会的実践を生み出すものだ。仏教の社会的実践は根本的には苦からの解放です。浄土真宗はしばしば仏教であることを忘れている。

 浄土真宗は確かに現実の人間が行うことには懐疑的な宗教です。凡夫がこの世をよくしようとしても、血で血を洗うことではないのかという深い懐疑心を大事にしている仏教ですが、あらゆる存在が苦から解放されることを願う宗教であることには変わりはない。

   願いの実践
 ティク・ナット・ハンはアフガン戦争反対のために断食しましたが、断食したからといって何の役にも立たない。

 しかし絶望することはないんです。政治運動においては目的のために殺人が肯定され、差別を助長するということがある。しかし仏教に基づく運動では殺人や差別は容認されない。

 本願念仏の社会的な実践はあくまで願いの実践である。願いに倦まないということが特徴である。

 本願念仏宗においては社会的実践は画一的なものではない。すべてが高木顕明のようなことをする必要はない。阿弥陀仏の慈悲と出遇うことでそれぞれ願いを持つ。その願いに忠実であればいい。本願寺が上から下に向かって門信徒はこういうことをするべきだとスローガンを掲げることは反本願念仏的あり方です。

  〈質疑応答〉
問.信心の社会性というのは新しい真俗二諦ではないのでしょうか。
答.社会性というとらまえ方が今の社会秩序を前提とするものなんですね。小泉批判や靖国反対というけれど、みんなが言える状態だから言えるんですよ。もしも言えなくなったら言いますか。そういう脆さを抱えた社会性なんですね。信心の社会性はそう言わないと現代に生きていけないから言っているんじゃないですか。お東の同朋会運動は親鸞に帰れと言ったが、お西の門信徒会運動は蓮如に帰ったのじゃないですか。

宗教は国家を超えられるか 近代日本の検証

宗教は国家を超えられるか 近代日本の検証

  • 作者: 阿満 利麿
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2005/06/08
  • メディア: 文庫


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