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流されないための努力  甲斐晃裕 [2002年4月1日号(第67号)]

 

 昨年の暮れのことです。電話で呼び出されて、とある会合に行きました。聞き覚えのある甲高い声が、会場の外まで響いていました。カナダ人のMです。熊本弁を無理やり混ぜるヘンな日本語で、アメリカのアフガン空爆を激しく非難していました。フランス系カナダ人のMは、大のアメリカ嫌いなのです。しかし、よく聴いてみると、彼の非難の対象はアメリカではなくて日本人のようなのです。

 「日本人には空爆停止を強く訴える権利と義務がある。その義務を果たさないのは、アメリカの強大な軍事力、経済力の前に、モノ言えずにただ祈るしかない人々に対する裏切り行為である」というようなことを言っていました。

 「権利と義務とはどうゆうことですか」ご婦人が落ち着いた声で、興奮気味のMに質問しました。この一言で発火寸前だったMはプッツンしてしまい、机を叩き、目を潤ませて「何でわからないの、目を覚ましてよ」と、太平洋戦争で日本が焦土になった様子をまるで見てきたかのように訴えるのでした。

 「あなた方の両親や、おじいちゃんおばあちゃんがやられたんですよ、体験した人もこの中にいるじゃないですか、兵士がやられたんじゃないんです、子どももお年よりも関係ない、無差別です。機銃掃射はおんな子どもを狙って、ゲームのように殺したのです。そして原爆、あれは実験です。日本だからやられたんですよ、アジアだから・・。当時の欧米人は東洋人を使用人くらいにしか思ってないんです。今でもそうゆう部分がある、あんな無残な事は日本とベトナムしかやられてないです。アフガンでも新型爆弾の実験をしてる。思い出してください、200年前のことじゃない、60年もたってない、経験した人たちが大勢残っているじゃないですか。日本は特別な体験をした唯一の国なのです。言う権利があるし、義務がある」

 Mは1959年生まれで、私より若い。彼に叱咤された気持ちになった私は、自坊の御正忌法要の最後に、政治的な話をしますと断って、そのままMの受け売りをしたのでした。かなり丁寧に話したつもりでしたが、反応はいま一歩、結局残った総代たちに再び話しをむけたのですが・・。「よく解るし、その通りだと思う、しかし私達にとって、60年はやはり長い、アメリカを憎む気持ちはもうない。アフガニスタンはどこにあるのかよく知らなかったし、遠い国というのが正直な気持ちだ」という感想でした。

 Mは日本酒が好きで、近所の居酒屋に出没します。後日、戦中派総代たちの反応を伝えると、「時間が憎しみを癒すことは理解できるし、怨みを捨てることは尊いと思う。しかし一方で、アフガニスタンは遠い国だから苦しみを共有することが難しい、それでいいのか。」と諭すように言うのでした。アフガニスタンで永年、医療活動をしている中村医師が「アフガニスタンは物理的な距離以上に、先進国世界から遠い。これ以上悪くなりようがないという生活環境が何年も続いているのに、光があたらない」と、言っていたのを思い出しました。*このあと、Mの奥さん(日本人)も交えて、イスラムの話になりました。貧、病、争の苦しみのなかでは、イスラム教が絶対に強い。苦しみを共有する仲間の連帯感、生きている間も、いのち終わっても、いつでもアッラーと伴にあるという安心感、アッラー神との距離の近さが宗教としての強さなのだろう。日常の礼拝はアッラーとの繋がりがより強固になるように、ラマダン月の断食などは、同信の仲間と苦しみを分かち合い、お互いの信仰を確認して喜びに転化する意味をもつといいます。

 イスラム教徒は信仰(アッラーとの結びつき)を保つための努力を厭いません、一人で出来難いことなら仲間と共にやります。年寄りも子どもも同じように努力します。それを怠ると自分が悪しき方向へ流されてしまうからです。

 カナダ人Mもアフガンが自分にとって遠い国にならないように努力しているそうです。毎朝の祈り、被災した子どもたちと米軍の爆撃機の写真、パキスタンから届いた義弟からのハガキ、それらをいつも目に付く処において思いを新たにするというのです。

 一段と階層社会化が進んでいるアメリカでは、社会的マイノリティのあいだで、イスラム教徒が増えています。ビンラーディンは間違ったようです。アメリカを憎むのではなく、自らアメリカ人となり、その資金力、組織力を使って、多数のアメリカンマイノリティをイスラム教徒に改宗することを目指すべきでした。

 少数の裕福なキリスト教徒・ユダヤ教徒を支える多数の清貧なイスラム教徒、という構図をアメリカの中に創ればよかったのです。アメリカは民主主義の国だから、その時、合衆国大統領はアッラー神に宣誓することになったでしょう。

 信仰のためには命さえも捧げるというイスラム原理主義の人々も、祖国を遠く離れ反戦アピールを続ける活動家も、大切なことからこころが離れないように、悪しきに流されないよう不断に努力しているという事実に、深く考えさせられたのでした。(託麻組・専念寺住職)

戦争の世紀を超えて―その場所で語られるべき戦争の記憶がある

戦争の世紀を超えて―その場所で語られるべき戦争の記憶がある

  • 作者: 森 達也, 姜 尚中
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2004/11
  • メディア: 単行本


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