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<「こだま公開講座」講演要旨>「神の国」「神道真宗」の狭間の中で 真宗の過去と未来と  龍谷大学教授 福嶋寛隆 [2001年1月1日号(第62号)]


 いろんなことを問題にする前提として、真宗があって反対側に神道があると受け取りますと判断を誤ると思うんですね。真宗自身が神道になっているときっちりと抑えていた方がよい。 三、四年前に『近代仏教史研究会』で「仏教史をやる場合、仏教を標榜していればみんな仏教だ、本堂があって僧侶がいてお経を読んでいる、本尊に仏像があるものは全部仏教だと扱えそうだが、実質仏教かどうか注意すべきだ」と申し上げ、非常に反発を喰ったことがあるんです。
 一見すると仏教だけど、その実質は神道に変質し、安産のお守りを売ったり、商売繁盛の祈願を当たり前のこととしている。自我否定がまったくなく、こうありたい、ああありたいという自分勝手な欲求を宗教を通して成立させるものに変貌している。

   真宗の神道化
 こういう宗派と真宗が神道化するのは少し違う。真宗には表面上は神祇不拝というものがあったみたいですが、実質は神道化している。 近代に入って真宗は国家神道の現人神を全部受け入れた。そうなっても真宗は真宗だというのは、信心によって死んだらお浄土に往くんだという一点だけだった。真宗信者が信心によってどう生きるかは全部放棄した。
 そうなった初めは蓮如上人です。「世間通途に生きろ」と言ったわけです。
 蓮如上人の時代、信心は徹底して死後の往生浄土を成立させる条件なんです。死んでからの往生浄土が大事で、一生なんてあっという間にすんでしまう。死後の往生浄土が絶対化され、生きている間は相対化された。信心を成立させれば、どう生きようといいわけです。成立した信心においてどう生きるかという方向とはまったく無関係だった。
 政治権力との関係の中で、生きてる間は何をやってもいいとはいかなくなって「王法以本」と言い始めた。その延長線上に近代がある。現人神が打ち出されるとすんなりと受け入れた。
   真宗の存在理由
 近代化を通して、死んでから後はどうでもいいよという人間が非常に増えている。死後、実体としていい世界があるとは信じられない。
 死んでからの往生浄土を多くの人が望んでいるときは真宗は繁盛した。しかし最近はふるわない。その点で、宗門の将来は真っ暗だ。
 ただ先祖代々真宗であったから、葬式、法事は真宗でやろうということでは、寺院は安泰だろう。しかし、実は都市部では葬儀屋が真言宗や真宗の僧侶を社員として用意して、派遣するという状況がでている。
 だから、真宗が真宗としてもう一回成立しないと存在理由がないと思う。そのために私たちは元々真宗はどういう宗教だったか問い直してみないといけない。

   教えの原理化
 親鸞聖人において浄土真宗はどういう宗教であるのかを徹底して原理化して理解しなければいけない。
 真宗を理解する場合、仏性論や煩悩論、名号論のように部分化して理解しようとしてきた。それを集めれば全体がはっきりするかというとそんなことはない。全体としてどういう構造を持っているのか、きちんと押さえないといけないと思う。
 例えば親鸞聖人の一生は信心と関連してどういうものだったか。
 親鸞聖人の生涯といえば、伝説が入り込んでどうしようもないものだった。あのような生涯を成立させた信心はどういう性格を持っているのかということは中心問題として扱われなかった。終始自力じゃないということだけ言ってきた。
 法然上人の専修念仏はなんで弾圧されたのか。ああいう宗教状況であれば専修念仏は圧迫を受けるのが当然だった。「被弾圧の必然性」ということを前に言いました。専修念仏とは弾圧を受けるような宗教だった。このことが教学のうえで明らかにされたことは一回もない。もう一つ、信心において人々が連帯していくものとして浄土真宗を押さえたことがあるか。こういうことも一回もない。
 こういうことが問題にされなかった背景には、信心は死後の往生浄土を成立させるもので、生きている間はどうでもいいという理解があった。
 そうしますと、宗門内に部落差別がどっぷりと入ろうと、聖戦なんだからと宗門あげて戦争賛美しようとどうということもなかった。
 こういうことをきっちりと踏まえることが出発点なんだという思いがするわけです。

   神道真宗
 戦時中、戦時教学を一生懸命やってきた人たちは、敗戦を迎えると本気で反省することもなく、平然として「本当の平和は真宗によって」と言った。その真宗信仰は一貫した責任主体を成立させないものだった。それが真宗が神道化したということだ。
 神道を信じている人たちは信じているという意識もないが、お祭りがあるとせっせと行く。真宗門徒といっている多くの人が、真宗の信心をきちんと意識しながら一日一日を送っているだろうか。何か問題にぶつかったとき、お念仏をする人間としてどうするかと考えたことは一度もない。普通の人がやっとるようにやっとけという発想しか生じない。
 十年ほど前、福井の真宗門徒が本山に行って「反靖国と言うなら真宗を離れるぞ」と言ったという。靖国に賛成することと真宗門徒であることが同居している。
 あるいは神社の祭礼があるとき、門徒総代が祭礼の中心にいる。遠慮がちに「それはおかしいんだけど」と言うと、「心配しなさんな。お寺のことも一生懸命やるがな」と返ってくる。
 こうなると真宗信者が差別発言をするのは当然な事である。現人神天皇を認めることと部落差別を容認することは同じことなわけですから。
 平等の原理として真宗信心が働かない理解の仕方があるのです。

   平等の原理
 親鸞聖人において真宗信心はどういう平等原理としてあり得たか。死んだ後、平等に往生が信心によって成立することでなく、生きている間にどうはたらき得るのか。
 親鸞聖人において、信心は真実心であった。起こそうと思って起こせるものではなく、みんなに平等に与えられているものだ。また真実心は仏心ですから、仏と等しいんだ。この一点において、みんなが尊ばれる存在なんですね。みんなが平等であるわけ。
 与えられている真実心に目覚めて、その真実によって生きていこうというのが真宗の信者だった。それであるが故に、圧迫されたのは当然だった。

   昔の法座
 子どものころ、法座があると親から押しつけられて嫌々拝聴しました。「いよいよ死のうとする時に、何とかしてくれと言うてもわしゃ知らんぞ。生きているうちに信心をいただかんといかんぞ」という話が多かった。それと関連して、阿弥陀仏のお慈悲とおなじものとしておふくろの愛情の話があった。
 そういうものを思い起こしてみますと、阿弥陀仏というのは救い主なんですね。お慈悲というのは頂戴するもので、実践するものではなかった。
 どうにも救われがたいこの存在が阿弥陀仏のお慈悲によって救われていくんだと頂戴するもので、与えられている真実心によってどう生きるかということとまったく縁がなかった。
 現在法座は衰退する一方です。そうなったのは住職がいい加減にやってきたからではない。生きている間は何の意味もない宗教だから、老人になってすることなくなったら寺に参ろうかという判断はある点で当然ではないか。それをさせまいとして「何時死ぬかわからんぞ」と言ったわけですね。

   神道界の現状
 現在、神道界は空前の繁盛なんですね。国家神道時代はいまと比べると大変不自由でして、いっぱいある収入も国に吸い上げられ、世襲もできなかった。だから神道界も国家神道反対なんです。国にして欲しいことは、神道の宗教性をそのままにして国家的地位を与えて欲しいということで、神道は宗教にあらずという国家神道には反対なんです。
 にもかかわらず、こういうことをやれば国家神道復活になるとピントはずれの対応をしてきたんですね。

   信教の自由の根拠
 憲法にきちんとあるから信教の自由はあるんだというのは早計でして、信教の自由が成立することは、一人一人のうちにきちんと成立するということです。
 信教の自由が本当に成立する前提条件とは、一人一人の尊厳、みんなが尊ばれなければいけない。みんなに平等に仏心が与えられているんだという一点において、一人一人が全部尊厳を持つ。
 そういう人間観を成立させなければいけないのが真宗であったはずです。
 現人神というのは天皇だけが尊厳があるんだということです。その臣民としての国民は天皇の道具なんです。
 障害を持っているとか、いないとか、男とか女とか、いろんな差異があるが、それは決して差別ではない。みんながいろんなあり方として相違している。しかし、それに関係なくみんな尊厳がある。
 そういう人間観があれば、政治のうえでは民主主義として成立する。その根本にあるのは人権ですね。みんなが尊ばれるために最低限これだけのことをしようというのが人権であり、その中心に基本的人権がある。そこに信教の自由がある。
 で、損するからやめたという問題ではないんです。尊厳性を持っている存在なんだと本人が自覚しないと始まらない。こうやったら損だからやめようというのは自ら尊厳性を放棄することです。 神道はどうしても尊厳性を成立させられない。神道は当面の損得で判断する人間を生み出すだけである。このような神道が広範囲にある間、仏教という宗派はあっても実体は神道ですから、そういう宗教性がどっかできちんとしないことには、本当に人権を成立させる根拠がない。そうすると、依然として与えられた人権で終始する。

   真宗性を発揮する
 これをきちんと成立させるためにも、真宗信仰の使命は大きい。
 真宗が徹底して真宗性を発揮しようとすれば、一人一人の尊厳、本当の人権というものを結果として生み出してくる。その反対じゃないですね。これを必要だから真宗をというのじゃ絶対ありません。
 真宗が本当に真宗としてもう一回成立をし、発展していくことは、社会自身を大きく変化させることなんだ。変革やろうということではないが、真宗に基づいたそういう社会に移っていくことが、真宗が発展していくことだ。
 そうなると親鸞以来万系一世みたいにして、ほとんどの門徒がありがたがっている門主制は何の意味もないものになる。そういうものに対して「あなた正気なの」と反応しうる人にみんなが変化していく。

   政教分離裁判
 あちこちで政教分離裁判というものがあります。私はあまりそれに賛成じゃない。そういうことは本質的な問題じゃない。裁判に勝訴しても、何にも解決しないんですよね。
 本質的に重要なことは、多くの場合訴える側も真宗門徒、訴えられる側も真宗門徒ということで、はなはだ不幸な事態です。
 ある意味じゃ同朋なんですよ。それは間違っているよと説得することを延々とやる。効果がないかもしれないが、しないといけないからしようと一生懸命やっていくのが本来的じゃないかと思うんですよ。
 私たちが一番重要なこととして、中心に据えなければならないのは、信教の自由の根拠を真宗が成立させられないでいることです。
 あるいは、差別発言があると、わぁーと行って何とかしようとわぁーとやる。やっと落ち着いたかなと思うと、こっちからぽんと差別発言がでてくる。そういうものを生み出す条件が宗門の中にどっぷりとあるということで、ここをどうするかということをしないで、あの差別発言はけしからんというのは本質的な事じゃない。そういう部分にきちんと到達するような運動を本格的にしようというのが一番重要じゃないか。
 いろんな問題があっても放置せよと言っているのじゃありませんで、いろんな問題を通してそれを生みだしている真宗信仰の問題を何とかしようという線に集中すべきである。

  《質疑応答》

問.信心における連帯とは?
答.信心に生きる者として連帯していくんだというあり方を成立させなければいけない。そういうあり方が小規模であったけれども、宗祖の時代には成立しつつあった。それが広がることが教団が発展することであった。
 ところが、そういう性格であったのが、至って普通の仏教教団に変貌していった。そうなると、信心によって連帯というものではない。
 一切の人に平等に仏心が与えられているので、一切の人々との連帯を成立させようというのが真宗の信者なんだ。
 親鸞聖人は晩年に至っても「罪悪深重」と言われる。あれはお念仏として与えられている仏心に基づいて実践しきれないと痛切に思われるからです。その悲痛な発言がまっとうに理解されずにずっときている。
 本当の連帯を生み出すのが真宗の信者なんだ。損得で結びつくわけじゃない。上下関係で結びつくわけじゃない。尊厳において平等である。そのことに目覚めるが故に、このお念仏をみんなに広めようとしていけば、信心に立脚した連帯が成立するはずだと思う。

問.日本人として、神道の土壌では、真宗の信心に向かないのではと思うが、どうしたらよいでしょうか。
答.これはちょっとやそっとではいかん事です。我々はしないといかんからしようと。効果があるからやるわけじゃないですよね。気づいた人がしないといかん事だからしうる範囲でやろう。実践としてはそれだけで十分なんです。
 効果と無関係にしないといけないが故にするのが宗教的実践です。効果があるからというのは政治的実践です。宗教が問題にするのは真実であるか、ないかです。
 真宗によって生きようとするんだったら、みんなと仲良くというのはいらないんだという腹がまえがいる。その上で、きちんと言うべき事は言い、相互に承認し合うことがあったときに、円満な間柄が成立する。それを不問に付して、何となくうまくやろうというのはやめた方がいい。
 少々しんどいぐらいで何ともないんだ。与えられた信心があるんですから。
(文責…編集部)

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